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百目探偵事務所  作者: てふてふ
東京妖怪失踪事件編
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第五章 : 潮鳴りの胸騒ぎ

 蝋燭を吹き消したあとの煤の尾と、前夜の筆が残した乾いた墨の香り――それらが折り重なって百目探偵事務所の朝を満たしていた。

 けれど、その香りの合間に在るはずのページを繰る囁きは、どこにも聴こえなかった。

 帳簿を捌く音ごと、几帳面な秘書・飛頭蛮の気配が丸ごと欠け落ちている。


 昨夜、灯心が尽きる間際まで帳簿に齧りつき、書架にもたれて眠る彼を確かに見届けた。

 律儀なその男が始業の鐘をすっぽかすなど、真夏に雪が降るより不自然だ。


「ったく……忙しいってのに雲隠れか。飛頭蛮の奴、らしくないね」


 寝癖を跳ね散らした鎌鼬が壁を背に腕を組み、風袋をひと鳴らしして毒を呑み込む。眉間の皺は負の感情というより、不安を押しつぶした跡のように深かった。


 胸裏を掻きむしるようなざわめきに急き立てられ、給湯室の障子を開け放つ。足首へ触れたのは、畳の目を黒く染める冷たい水。


「……誰が、こんな惨状を?」


 卓上コンロには昨夜の味噌汁鍋が取り残され、火は落ち、鍋は空っぽ。

 水道のコマはしっかり閉じられている。それなのに畳の縁から襖框まで波紋が静かに広がり、そこだけが見知らぬ浜の色を映し返していた。


 鼻先を撫でた潮の匂いが、古びた木の香を軋ませるように混ざり合う。

 右眼の奥がじくりと脈を打ち、“視ろ”と言わんばかりに針を刺した。


「誰かが掃除を投げ出して逃げたのかな?戻って来たら百目に頼んで説教百連発だな」


 鎌鼬の舌打ちが背を押し、都電を一本遅らせて大学へ向かう決心を固めた。


 

 

 

 蒸気を含んだ初夏の風が掲示板のビラを揺らし、学生たちのざわめきを波のように煽っていた。


「佐城博、戻って来たってさ」

「半年も休学してた心霊マニアだろ?」


 学部の垣根を越えて流れるその名は、深海の光を宿す学生――佐城博。古文書と解剖図を同列に語り、講座を乱した“変人”だ。名前を聞くだけで胸奥の潮が強さを増す。


 講義棟を目指し廊下を曲がった瞬間、老人のような銀灰の髪を揺らす青年と擦れ違う。

 袖口から滲む冷たさが肌を撫で、掠れた囁きが耳孔へ落ちた。


「きみ――美味しそうだね」


 反射で振り返る。しかし影は人波へ溶け、背骨へ走った冷気だけが現実を掻きむしる。


 重い靴音で男子便所へ辿り着き、用を足して手を洗う。

 水音が洞穴の奥から聞こえるほど遠く、鏡を見上げれば、そこに立つのは紫紺の袴を締めた雲外鏡だった。


「的場さん、聞こえますか!」


 鏡面から伸びる影が波打ち、瞳が焦燥に濡れる。


「雲外鏡さん? こ、ここ男子便所ですが……」

「以津真天さんが、消えました! 至急、事務所へ――!」


 叫びと同時に鏡は白く曇り、像は霧散した。鏡面を伝う水滴をそっと拭えば、塩の味が舌へ滲む。


 以津真天、そしておそらく飛頭蛮も――。

 二つの不在が潮の匂いで縫い合わされ、胸の奥で警鐘が高鳴る。右眼に揺れる銀糸、給湯室の波紋、廊下の囁き。まだ点は線にならず、影ばかりを濃くする。


(早く探さなきゃ……!)


 遠くで授業開始を告げるチャイムが鳴る。だが足は講義室ではなく階段を駆け下り、電話室へ吸い寄せられた。


 小窓ひとつの暗い部屋。黒電話の受話器を掴み、震える指でメモ帳の端に書かれた新しい番号を回す。

 十円玉が硬貨口を滑り落ち、ベルが三度鳴ったのち、掠れた声が応答した。


『――こちら百目探偵事務所。急ぎでなければ後ほど――』

「百目さん! 純壱です!」


 紙を捲る微かな音のあと、疲れを帯びた声が応じる。


『純壱ちゃんか。どうした、何があった?』


 胸の波が一気に逆巻き、鏡の一件をまくし立てる。百目は短い沈黙を挟み、深く息を吐いた。


『……こちらも従業員が総じて姿を消している。私の眼でも追えない。少なくとも“この東京”にはいない』

「鎌鼬さんは動けますか? それと、ぬりかべさんの行方は?」


 ぬりかべ――俺を最初に事務所へ運んでくれた柔和な用心棒。ここしばらく姿を見かけず“出稼ぎ”と聞かされていた。


『アイツが長期で留守にするのは珍しくないが、確かに連絡が途絶えて久しい……鎌鼬には直ちに捜索を頼む。君も戻って来てくれ』

「わかりました」


 受話器を戻す。硬貨が返却口へコトリと落ち、掌の中でやけに重さを主張する。

 窓の外で梢が揺れ、都会の空気の底にほんの微かな潮の匂いが潜んでいた。


おそれより、取り戻す方が先だ――)


 胸に決意を灯し、階段を駆け上がり夕日の下へ飛び出した。

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