嚥下 : 深海の底へ
──ぐう、と、低く腹が鳴った。
けれどそれは、飢えの音ではなかった。
骨と皮の隙間から漏れたような、深く、湿った渇きの音。
暗い部屋だ。灯りはなく、音もなかった。
水すら張られていない水槽の中に、誰かの気配だけがずっと滞っていた。
「……なあ、ねえ、もういいだろう?」
床の上、濁った声が這う。
「そろそろ、何か“食わせて”くれよ……」
声の主は、椅子に座っていた。
いや、椅子に“かろうじて”収まっていると言った方が正確だった。
薄く、ぬめついた皮膚。
人間の形に似せた何かが、背骨をきしませて身を揺する。
「もう充分に、匂いは熟れてる……もうだいぶ“溜まった”んだろ? もういい頃合いだろう?」
博は、机に肘をついたまま、返事をしなかった。
ただ、一枚の紙を指でなぞっていた。
それは一匹の妖怪について書かれた古い記録だった。
鉛筆で走り書きされた備考欄に、“声は美しい”とだけある。
「……“お預け”だよ」
博は、ようやく口を開いた。
「お預け、かあ……」
“それ”は、唇の端を裂いて笑った。
「お前の言う“お預け”って、ずいぶん長いんだな?
あれから、もう二十五匹は揃ってる。それでも、まだ“お預け”かい。俺様は、随分と優しい男だと思われているようだ」
ぎょろり、と目が動いた。
部屋の隅。白布をかけられた“何か”が、微かに揺れた。
「……全部まとめて“まだ”なんだよ」
博の声は低かった。けれど、その静けさの奥に、火種のような熱があった。
「一気に食わせても今はないだろ。もっと……もっと痛めつけて、今日はさせてからにしよう」
「へえ……?」
それは“にやり”と笑う。
「お前、楽しいなあ。実に人間らしくて、残酷だ。
そのくせ、筋金入りの“人でなし”なんだから、更に愉快だ!」
どこかで、時計が鳴った。
古い振り子時計の、軋んだ鐘の音だった。
怪物は立ち上がらなかった。ただ、椅子の上でぐるりと身体をねじる。
「じゃあ……暫くは、お前が。お前が俺様を“愉しませてくれ”。やり方はもうわかるだろ? なあ? ──佐城博!」
――この夜、まだ誰にも知られないまま、“一つの声”が飲み込まれる。
食われるように、静かに、消えていく。
だが、それはほんの序章に過ぎなかった。
黒い水に呑まれながら、博は笑う。
“本当”のお楽しみは、ここから始まるのだから。




