表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
百目探偵事務所  作者: てふてふ
東京妖怪失踪事件編
PR
23/32

第四章 : 黎明を裂く赫と蒼

「──勿論、いいぞ!」


 天蓋のような曇天を割り、低く温かな声が降り注いだ。鐘の余韻に似た揺らぎが檜皮葺の社殿を震わせ、胸骨の奥を優しく打つ。


 振り向くと、夜と朝がせめぎ合う青白い光の中で一人の男が鳥居を背に立っていた。長い茶髪は朝露を弾き、真紅の双眸には新月にも似た鋭い光。皺ひとつ許さぬ白いシャツの襟元、焦茶色のスーツの合わせ目から覗く金色のタイピンが、誰のための舞台かを無言で示している。


「――なんだ、縁の孫か。また厄介事に顔を突っ込んでいるのか? 忙しいやつだなぁ」


 その穏やかな第一声だけで、境内の空気が膝を折ったように感じた。苔むした石灯籠の影が長く伸び、松林のざわめきがぴたりと止む。


「び、毘沙門天様!」


「うん、“余”だよ!」


 神将が微笑む。その瞬間――


 ゴンッ。


 鈍い衝撃音が静寂を裂いた。蒼い錫杖が弧を描き、神の後頭部を薙ぐ。常人なら頸椎ごと砕け落ちる一撃。しかし男は僅かに首を傾けただけで、痛覚すら掠めさせなかった。


 右の掌が宙を切り裂く。赤銅の三叉戟さんさほこが霊光の火花を散らして顕現する。三つ叉の刃が朝陽を裂き、金属の叫びを上げた。


 打ち払う。鉱石を噛むような火花。錫杖の主――僧が顔を歪めた。


「神仏に仕えながら刃向かうか――妖怪、青頭巾よ」


 その名を聞き、背筋が粟立った。

 

 ――青頭巾だって?

 稚児を喰らい妖怪へ堕ちた僧――古い寺伝の血臭が、いま眼前で俺と神の命を狙おうとしている。

 

「拙僧は“魔”を祓うのみ! その右眼こそ禍の核、旧友が遺した呪い!」


 錫杖が逆手に翻り、数珠玉のような衝撃波を撒く。対する三叉戟は鋼線のように直線を紡ぎ、衝突のたびに銀朱の火雨を降らせる。


 境内はまだ黎明の帳に包まれていた。鈍色の雲が頭上を流れ、檜皮葺ひのきがさは露を艶やかに纏う。

 絵馬が微かに揺れ、玉砂利は濡れ肌のように冷たい。

 松脂と湿った苔の匂いが鼻腔を満たし、その静寂を神々の戦いが切り裂いている。


 視界では追えない。しかし右眼だけが赫と蒼の光跡を捉えた。二条の彗星が交差する中心に、黒い虚のような“穴”が生まれ、いくつもの未来が枝のように伸びては消える。

 そこには俺の断末魔も、青頭巾の勝利も、あらゆる可能性が折り重なっていた。


(もし毘沙門天様が敗れたら、俺は“また”目を抉られるのか――)


 恐怖が喉を焦がす。それでも目を逸らせない。見届けなければ生きていけない、と右眼が告げていた。



 青頭巾が石突きを踏み込みの支点にし、錫杖を蛇腹剣のようにしならせる。鞭の曲線が三叉戟へ絡み、銀輪が穂先の間隙を狙う。

 だが毘沙門天は柄をひねり、力点を奪うと同時に身体を半歩ひねり込んだ。梃子の原理で錫杖が跳ね、青頭巾の手首が空を切る。


「未熟だな」


 低い呟きに濃紫の霊圧が宿る。三叉戟の穂先から光条が噴き出し、錫杖の銀輪を内側から爆ぜさせた。

 破裂音は水面に石を落としたように柔らかい。しかしその柔らかさこそ、神域の恐怖を際立たせた。


 青頭巾は宙返りで距離を取り、袈裟を翻して着地するが、仮初の肉体は霊圧のうねりに追いつかない。

 片膝をつき、玉砂利を掴む掌から血が滲む。

 赤黒い珠が白い小石を濡らした。妖怪の血の色は人と変わらないのだ、と場違いな観察をしている自分に気づく。


 右眼が映す未来像の枝が、鮮紅一色に収束した。決着の瞬間。


 三叉戟が柄尻で地を突き、跳ね上がった穂先が斜め上から袈裟斬りに走る。石突きごと吹き飛ばされ、錫杖が手を離れた。青頭巾は膝を砕かれたように地を叩き、袈裟に浅い紅線が刻まれる。


「……所詮は仮初の身。全力には程遠い」


 濁った吐息が落ちる。毘沙門天は三叉戟を肩に担ぎ、赤い瞳を細めた。


「百目の眼は選び取るもの。力ずくでは届かぬ」


 青頭巾は黙して瞑目し、錫杖の残骸を拾い上げると、霧のように姿を溶かした。


 戦いの余韻が境内を満たす。松の梢がざわりと揺れ、破れた雲間から茜の光が差し込む。三叉戟が霧散し、鉄と松脂の匂いだけが微かに残った。


 膝の震えがようやく意識に追いつく。毘沙門天が歩み寄り、肩を叩いた。大きく温かな掌だった。


「怖かったか?」


「い、いえ……でも、右眼が……全部視えていました」


 神将は満足げに頷く。


「その眼が助けにも呪いにもなるかは、お前次第だ。――さて、事務所まで送ろう。今のお前さんを一人にしては、余が百目にどやされてしまうから」


 神社を出る頃、東雲は淡い桔梗色から空色へと移り変わり、石畳が光を跳ね返していた。

 坂道を下りる足音に、早起きの雀が驚いて飛び立つ。毘沙門天は歩幅を合わせ、ゆっくりとした呼吸で朝の匂いを味わっているようだった。


「夜明け前に置いた紙袋が戸口で湯気を立てているな。あれはお前さんのか?」


「はい。塩は控えめにしてあります。味噌汁も温め直せるように蓋をして」


「よく気が利くなぁ。だが気遣うあまり倒れるなよ。お前が倒れれば誰より百目が悲しむ」


 柔らかな声音だが、拒む余地のない力が宿っていた。

 自然と「はい」と返事が漏れ、神将は満足げに小さく頷く。


 見慣れた探偵事務所の看板が角の向こうに現れる。薄桃の朝光を浴び、木戸の格子が温かい色に染まっていた。紙袋の白蒸気が戸口で揺れ、誰もまだ起きていないことを告げている。


「ふむ、随分と寝坊が多い職場なのだな?」

「みんなずっと張り詰めていましたから……」


 背中の緊張がほどけ、肺の奥に澄んだ空気が満ちる。


「さ、皆を起こそう。余も茶を一杯もらおうか」


 引き戸を開けると、木と紙の匂いが外気と混ざり合って鼻腔を撫でた。廊下の先にはまだ灯りがなく、夜明けの光だけが淡く柱を照らす。


 右眼の疼きは小さくなったが、あの紅と蒼の交差は決して忘れられない。未来の枝は、俺が何を選ぶかで再び繁るか枯れるかが決まる。


(もう逃げない。視る者として、ここに立つ)


 胸の内でそう告げた瞬間、東の空で雲が割れ、金の光芒が街並みを銀に染めた――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ