第二章 : 跡すら残さず
翌日の百目探偵事務所は、地味に戦場だった。
ちゃぶ台の上は封筒と巻物で溢れ返り、壁際には折れた筆や使いかけの墨壺、昨日の新聞に混じって古い地図が幾枚も積まれている。
風鈴の音より早く、電話が鳴る。応対を引き受ける暇もなく、百目の“視線”が忙しなく“飛んで”いた。
「……ううむ。件がいなくなった? それは由々しき事態だ。“未来”が止まった、という暗示かもしれん……は? 最後に言っていた言葉? “明日の味噌汁には気をつけろ”? ──馬鹿者、それはいつもの悪戯だろうが」
ちゃぶ台の奥、百目が机に突っ伏している。
羽織の下から、床板の隙間から、掛け軸の裏から。
“目”が、にゅるにゅると湧いている。
見えるものは、全部見ている。
集められた視界が、ひとつの頭に叩き込まれ──そして今、頭が煮えていた。
「……百目さん、それ、目……何個いってます?」
「途中で数えるのをやめた。人生には、数えてはならない数字もあるのだよ……」
「すでに人として戻れない発言だと思うんですが……あ、でも“人”じゃないのか……」
百目の顔色はすっかり悪く、唇の端が乾いて割れていた。紙巻きの煙草は火がついておらず、指先で折れている。
──人なら即入院レベルの過労。妖怪でも、随分としんどいらしい。
「件の次は山童、それから……ああ、次は何だったか。小豆洗いか?いや、あれは音だけ残して消えたやつか……」
ひとりでブツブツとつぶやきながら、百目は書類をめくる。
めくった先に何があるのか、もう見ていない。
なにしろ、視線がいま三十三方向に分かれているのだから。
「……嗚呼――脳の裏側で、神棚と機関車と味噌汁と雪女が喧嘩してる気がする……」
百目はうつ伏せになったまま、紙巻き煙草を噛んでいた。
火はつけられておらず、咥えているだけで落ち着くのか、それとも噛んでいないと頭が破裂しそうなのか。
──おそらく両方だ。
電話のベルがまたひとつ鳴った。
それと同時に、襖がすうっと開く。
「──失礼いたします。所長、雲外鏡からの報告書です。彼女に与えられた六件の“失踪事件”ですが、現場の痕跡は無かったとの事で、所長の“目”をお借りしたいとの事です」
声の主は、事務所の奥から姿を現した黒髪の青年だった。
ピシリと整えられたスーツに、手入れの行き届いた黒髪を低く結んだポニーテール。
艶消しの銀縁メガネの奥から覗く紫がかった瞳は、冷静さと几帳面さをそのまま写したようだった。
まるで銀行の窓口から抜け出してきたような彼──それが、飛頭蛮だった。
もっとも、その名の通り、彼は必要に応じて“頭だけ飛ばす”ことができる。
──とはいえ、日常では首はちゃんと胴体の上に乗っている。
本人もあまり飛ばしたがらない。むしろ、それ以外が“普通すぎる”ことに、彼はひそかな悩みを抱えているらしい。
「嗚呼……また駆り出される“目”が増えた……ご苦労さん、飛頭蛮。彼女に渡したどの案件に目を出せばいい?」
「六件全てです。今朝の九時より数えて、これで四十七件目ですね。全件、“妖怪の所在不明”。探偵事務所設立以来の大事件です」
飛頭蛮は淡々と、まるで統計でも読むような口調でそう告げた。
だが、その整った言葉の裏には、確かな緊張が滲んでいた。
「全件、“妖怪の所在不明”……か」
百目は呟きながら、視線をひとつだけ回収し、手のひらに戻す。
赤みがかった目玉が、ぐるりと一度だけ瞳孔を回してから、すっと皮膚の下へ吸い込まれるように消えていった。
「まるで、神隠しの逆をやられているようだな……“出てきたもの”が、誰にも見えずに、ただ消えていく」
「はい。かつてない現象です。……お身体、大丈夫ですか?」
飛頭蛮の手には、湯のみと共に小さな砂糖菓子が乗った盆があった。
無言で百目の前に差し出すと、百目はそれをぼんやりと見つめる。
「うむ……この飴は何味だ?」
「甘露煮でございます」
「……糖が、脳に沁みるな……ありがとうよ……」
百目は飴を口に含みながら、ようやく体をゆっくりと起こした。
その顔には、相変わらず影が色濃い。が、それでも多少は血色が戻っているように見えた。
「的場君」
飛頭蛮がふいに、俺の方を向く。
視線は柔らかく、けれど整った敬語は崩れない。
「君は“人間”です。無理はしないように。……今の事務所は少々、空気が重すぎます。目に見えぬものを背負うときは、背筋を伸ばすより、まずは呼吸を整えてください」
「あ……はい。ありがとうございます」
思わず、頭を下げていた。
飛頭蛮の声には、表情よりも確かな“気遣い”がある。
それが自分と同じ“普通”の形で来ないぶん、かえって沁みる。
「そういえば、的場君──昨日の件、まだ引っかかっているようですね」
「……昨日?」
「右目をよく気にしているようなので。疼いているのでは?」
眼鏡の奥から、まっすぐに指摘される。
ごまかす隙は、与えられない。
俺は、そっと瞼に触れた。
右目の奥が、確かに重たく感じる。
まるで、誰かの視線が、自分の中にまだ残っているような……そんな妙な感覚だった。
──その時、事務所の引き戸が勢いよく開いた。
風鈴が跳ね上がり、軽く歪んだ音を立てる。
「ちょっとちょっとちょっと! たいへん! たいへんなのよ! 本当に洒落にならないんだけど! “波山がいない”のよ!」
声の主は、いつも通りに元気だけはある以津真天だった。
けれど、その顔には珍しく、明確な“焦り”が刻まれていた。
そのすぐ後ろから、のそのそと入ってきたのは、白い軍服姿の鎌鼬だった。
「やあ、どうも。しぶしぶ手伝いに駆り出されてる債務者でーす。ねえ百目、波山がどこに行ったか知らないかい?」
ぱん、と誰かの心臓を叩くような音が、事務所の空気に広がった。
「──いない、とは?」
飛頭蛮が、即座に反応した。
低く、しかし静かに。明らかに、いつもより言葉が速かった。
「だからいないの! ほら、今朝から妖怪の失踪事件が続いてるでしょ? 以津真天達はナミヤマに顔出したのよ。気をつけろって言いにね!そしたら開店してるのに波山の姿が見えないし、厨房も空っぽで、鍋に火だけ入ってて!」
「……では、外出ではなく、“その場から忽然と”?」
飛頭蛮の顔から、血の気が引いた。
手にしていた報告書の角を握りしめたまま、動きが止まる。
「確認したよ。裏口にも出た形跡なし、売上金にも触れた様子はないから、強盗とか、そういうんじゃないんだ。あの波山が戸締りはおろか、書き置きもなく無断で離れるなんてしないだろう?」
「――“風”は? 何も残っていなかったのか」
百目の声が、沈んでいた。
それは疲れの延長ではなく、どこか確信を孕んだ重みだった。
「──なかった。何も」
鎌鼬が言った。
そこにはもう、軽口もなければ笑いもなかった。
「……了解しました。案件、四十八件目。報告書、準備いたします」
飛頭蛮が静かに頭を下げた。
その横顔には、明らかに“怒り”と“焦り”と、それを押し殺す強い意思が宿っていた。
封筒の山の上で、目玉がひとつ、音もなく回転していた。
百目は何も言わず、その目を追っていた。
「……“次”がなきゃ、いいんだけど」
以津真天がぽつりと呟く。
──探しても見つからない妖怪。波山まで失踪した。
“誰も見ていない”まま、消えた気配。
風が一瞬、紙をめくる。
ちゃぶ台の隅に置かれた一通の封筒が、ひらりと裏返った。
何でこの時気付かなかったのだろう。
──その封に、ほの黒い青い跡が、ぽつりと滲んでいたことを。




