第一章 : 甘き香に、焦げの色
自分で、ここを選んだわけじゃない。
本当は──そう言いたかった。
でもまあ、実際のところは、給金につられたんだ。
しょうがないだろ。生活ってやつがある。
食って寝るだけじゃない、この街の空気に踏みとどまるには、案外、金がかかる。
大学帰りに立ち寄るのは、木造三階建ての古びたビル。
戦後の名残をそのまま閉じ込めたような建物で、すり減った階段は歩くたびに鳴き、煤けたガラスは曇りっぱなし。
入り口脇に掲げられた木製の看板には、かろうじて金文字が残っている。
『百目探偵事務所』
探偵事務所──と名乗ってはいるけれど、実態はもう少し“別の何か”だ。
たとえば、妖怪の巣窟とか、そういう方向で。
扉を開けた瞬間、今日も“あれ”が出迎えてくれた。
「おっせーんだけど? 雑用係が雑用もできないとか、冗談? 笑えないんだけど?」
黒髪ツインテールに黒い着物──見た目はまるで和装の令嬢。
けれど、口から出るのは暴力的な音ばかり。
以津真天。見た目だけは美少女。中身は地獄の使者。
甘さ?……ないよ、そんなもん。
「いま来たばっかりなんだけど……」
「で? あたしが困ってるのは“今”なんですけど。アンタだけ時差勤務でもしてんの?」
笑っていない。媚びてこない。むしろ怒ってる。ずっと。
「今日はお便所掃除と床磨き、それと雲外鏡のお姉様からのおつかいね。忘れたらマジで許さないから」
「えっ」
「“そのへんの食料品屋”とかで済まそうとしたら、袋詰めて首にかけてやるからね」
(……なんで毎日こんな罰ゲームみたいな扱い受けてるんだ)
顔に出すと、さらに火に油を注ぐだけだから我慢する。
だって──給金は、ちゃんと出るんだ。しかも特別手当つき。
「……了解しました」
「返事だけは立派なんだから。これで中身が伴えばいいんだけど?」
襖が、す、と静かに開いた。
「──以津真天さん。そういう物言いは、品位を落としますよ」
滑るような女の声。
すうっと空気が冷えて、部屋の中の温度が一段、下がった気がした。
振り向けば、そこに立っていたのは──
黒髪を流し、紫の袴を着た、背の高い女性だった。
白い肌に伏し目がちの睫毛、ぴたりと揃えられた襟元。
凛としたその佇まいには、言葉以上の圧があった。
そこに漂う“拒絶”の気配は、以津真天とはまた別種のとげのようだった。
「わたくし、雲外鏡と申します。お見かけするのは初めてではありませんが──会話は、初めてですね」
「あ、はい。的場純壱です。あの……一応、ここの手伝いをしてて」
「存じております。……ご挨拶のついでに、おつかいもお願いできますか。銀座・昭和堂の『朝霞』。紫の包み、紙袋は二重に。熨斗は要りません。……以上です」
言葉は丁寧だった。
けれど、ひとつひとつの語尾が、ぴたりと切れていた。
目が笑っていない。というか、最初からこちらに興味などなさそうだった。
「……承知しました。買ってきます」
「ありがとうございます。ちなみに、私は“人間”というものが、あまり好きではありません。
ですので、誤魔化しにはすぐ気付きます。……お気をつけて」
(この探偵事務所、なんでこんな刺々しいのしかいないんだ)
右目の奥が、ぴくりと疼いた。
“視る”ということは、こういう“空気”も余計に刺さるってことかもしれない。
駅前の広場から、チンチン電車に乗り込む。
つり革の冷たさと、擦れた座席の匂いが妙に落ち着く。行き先は銀座──目的は、百貨店の甘い使いだ。
午後の銀座は、いつになく霞んで見えた。
活気あるはずの通りに、今日はどこか影が差しているようだった。
晴れているはずなのに、太陽の光が白く滲んで見える。
風のにおいに混じって、ほんのかすかに焦げたような匂いがする気がした。
煙草でも焚かれているのだろうか。それとも、誰かの記憶が燃えているのか──
(……いや、そんなわけない)
つい、そんなことを考えてしまうのがいけない。
“右目”のせいだ。
視界の端で、誰かの輪郭が微かに揺れる。
右目を通して見る世界は、妙に“湿って”いる。
湿度じゃない。何か、人の奥底の“熱”が映ってしまうような、そんな滲み方だ。
(見たい、わけじゃない。……でも、“見えてしまう”んだ)
銀座四丁目の時計塔を背に、石畳の路地を抜ける。
大通りの端に、暖簾を静かに揺らす老舗の菓子舗──昭和堂が見えた。
入口に吊るされた風鈴が、ちりんと高く澄んだ音を立てる。夏の名残が音だけを残している。
店内は檜の香りが漂い、外の喧騒が嘘のように遠ざかっていた。
「いらっしゃいませ」
小柄な女将が品のいい笑顔で出迎えてくれた。
──雲外鏡の封筒を出すと、すぐに頷かれる。
「かしこまりました。『朝霞』ですね。紫の包み、お二つ。熨斗は控えて、ですね。お渡しまで少々お待ちくださいませ」
その言葉に、素直に頭を下げて腰掛けた。
目の前に並んだ菓子はどれも美しく、まるで食べることが惜しいようだった。
けれど、視線を落とすと──そこにひとつ。
(……え?)
干菓子のひとつが、ふいに“赤く”見えた。
他のどれよりも強く、艶やかで、まるで内側に熱を帯びているような色。
瞬間、右目が脈を打った。
(違う、これは……赤じゃない……“視えてる”)
喉の奥が、きゅっと鳴る。
目を逸らしたはずなのに、残像のようにそれはまだ焼きついていた。
焼けた声。焦げた匂い。熱を帯びた“記憶”のかけら。
──けれど、もう一度視線を戻すと、そこには何もなかった。
それはただの、よくある干菓子だった。
「……お待たせ致しました」
女将の声に、我に返る。
紫の包みが丁寧に紙袋に入れられ、差し出されていた。
「ありがとうございました」
丁寧に頭を下げて店を出る。
暖簾をくぐった瞬間、あの焦げた匂いがふっと鼻先に戻った。
振り返っても、昭和堂の軒先には何も変わった様子はなかった。
店も、空も、人通りも、いつも通りに見えた。
……なのに、右目だけが、静かに訴えてくる。
(──あの“菓子”じゃない。あれを置いた“誰か”が、ここにいた)
心臓がひとつ、強く鳴った。
手提げ袋の中で、包み紙がかすかに衣擦れの音を立てる。紙の奥に籠った温度が、じんわりと指に伝わってくる。
けれど、指先に触れたその包装紙の一部が、ほんのりと温かかった気がした。
(……気のせい、だよな)
そう言い聞かせて、俺は再び帰路へと歩き出した。
こうして、今日も俺は、雑用だけで一日を終わらせるのだ。
──その翌日、昭和堂の女将が「忽然と姿を消した」という話を耳にするまでは。




