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百目探偵事務所  作者: てふてふ
火鼠の衣編
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第十三章 : 浅田総合病院にて

──窓の外が、白く霞んでいた。


 それがカーテン越しの朝の光だと気づくのに、随分と時間がかかった。


 体を起こそうとして、鈍い痛みに襲われた。けれどそれ以上に、胸の奥に広がる空白に戸惑っていた。


(……俺は、誰だ?)


 ゆっくり視線を動かす。白い壁、ベッドの傍らの点滴の管、淡いブルーのシーツ。

 見慣れぬ部屋の空気は、薄く消毒液の香りを含んでいる。


(病院か……)


 そう理解すると同時に、身体中から力が抜けた。


 まるで長い間、何かと戦い続けてきたような、ひどい疲労感がある。

 けれどその『何か』を思い出そうとすると、頭の奥でぼんやりとした霧が邪魔をした。


「十時さん、意識が戻りましたか?」


 ふと、ドアの向こうから声が聞こえた。医師だろうか、淡々とした口調だ。


「ああ、良かった……。ありがとうございます、先生。本当に、うちの勇吾は……」


 続く声は、聞いたことがあるような気がした。だが同時に、自分との間に一枚薄い膜が張られているかのように、よそよそしく響いた。


(勇吾……。そうか、それが俺の名前か)


 それがわかったところで、特に何の感情も浮かんでこなかった。

 まるで他人の名前を呼ぶような、妙な気まずさが胸の奥に広がるだけだった。


「……あの」


 思わず声を出していた。


 ドアが静かに開き、白衣の医師と初老の男女が入ってくる。彼らは不安げな表情で俺を見つめた。おそらく、両親なのだろう。だが、それすらも曖昧だった。


「気分はどうですか、十時さん」

「……俺の名前、本当に、十時勇吾っていうんですか?」


 医師は僅かに眉を寄せた。両親とおぼしき男女が、息を呑んで顔を見合わせる。


「記憶が、ありませんか?」

「……ええ。おそらく。何も」


 淡々と答えると、母親らしい女性が口元を押さえ、涙ぐんだ。


 けれどその光景にも、俺の胸は動かなかった。

 何かを失ったという感覚さえ、今はただぼんやりとしか掴めなかった。


「思い出せることは、何もありませんか?」


 医師の静かな問いに、俺は視線を落とした。


 記憶は灰のように薄く、淡く、掴みようもなく脳裏を滑り落ちていく。

 だが、ほんの小さな残り火が、どこかでまだ燻っているのを感じた。


 視界の端で、赤く燃える何か。

 揺らぐ炎の色。


 そして、名前も顔もわからない誰かを、強く──ひどく強く愛していたという感覚だけが、胸の奥に残っていた。


 その誰かは、きっともういない。

 その人を愛することが許されないほど、俺は深く傷ついてしまったのだろう。


(けれど、まだ消えていない。俺の中で、ずっと……)


 記憶はなくても、胸の奥に焼き付いた熱は消えなかった。

 その微かな熱を感じることだけが、唯一の拠り所だった。


 ──俺はそれだけを、抱えていくしかないのだろう。


 ふと、窓の向こうの空がゆっくりと色を変えるのが目に映った。

 その茜色のグラデーションは、まるで小さな火が静かに燃えているようだった。


 ゆらり、と揺らめいている。


 胸の奥で、その炎が重なった気がした。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます!


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