第十二章 : 燃ゆるは誰そ彼か
空気が、焦げていた。
煙はない。炎の色も見えない。けれど、肌の奥がぴりつくような熱が、確かに漂っていた。
右目が疼く。視界の端を、糸のような赤がひと筋、流れている。風に引かれながら、どこかへ誘うように揺れていた。
俺は、黙ってそれを追った。
「……先に進めば、“誰か”が焼けるかもしれないぞ」
百目がぽつりと呟いた。
俺は答えなかった。返す言葉が、見つからなかった。
ただ、歩く足は止まらなかった。
灯りのない路地。ぬかるんだ土の匂い。誰にも顧みられないような、打ち捨てられた蔵の前。
風が、止んでいた。
赤い糸が、ふっと沈んだ。
「──いるな」
鎌鼬の声が、低く、鋭くなった。
見れば、蔵の入口にはひとつの影が立っていた。
十時勇吾。
……いや、それは、十時“だったもの”だった。
佇む姿は変わらない。けれど、何かが違っていた。
目の奥。皮膚の色。吐く息の温度。
「十時、君……」
俺の声が届いたかどうかは、分からない。
彼は、笑っていた。
けれど、その笑みはどこにも届いていなかった。
「やあ。純壱君だ。……ねえ、君は、どうしてそんなに視えてしまうんだい?」
その声は、確かに十時の声だった。
けれど、言葉の選び方が違っていた。
音の置き方が、彼のそれではなかった。
──阿部御主人。
そう確信した瞬間、右目が焼けるように熱を帯びた。
「視えてしまうと、困るよね。なにもかも、燃えてしまうのに」
十時が、蔵の奥へと姿を引いた。
「待って……!」
俺は追いかけた。
闇の中に踏み込むと、そこには歪んだ炎の匂いがあった。
記憶が焼けていた。誰かの声が、空間に焼き付けられていた。
「……俺は、君が羨ましかった」
背中で、十時の声がした。
「君は、まだ誰のことも視ていない。まだ、焼けていない」
ふと、空気が脈打った。
次の瞬間、炎が“視えた”。
赤い布のように宙を漂いながら、それは俺に向かって、伸びてくる。
「──やめろ!!」
鎌鼬の声と同時に、風が巻いた。
白刃が疾走し、布の端が斬り裂かれる。
十時が、悲鳴のような声を上げた。
「やっぱり……君たちは、視えすぎる」
その言葉が、火に溶けて消えていく。
けれど、まだ終わっていなかった。
燃えている。
彼の胸の奥が、炎のように明るく、俺の右目に映っていた。
このままでは──また、誰かが燃える。
「百目さん……っ! 俺、まだ……彼が視えてます!」
その瞬間、十時が苦しげに喉を押さえ、うずくまった。
吐き出すような咳とともに、黒い煙のようなものが口から漏れる。
「君の目……煩わしいな」
その声には、もう十時の抑揚はなかった。
代わりに、どこか懐かしい響きが宿っていた。
「視ないでくれ。私を視るな。私は……ただ、望まれたかっただけなのだ」
──御主人だ。
声が、心臓の奥を掴んでくるようだった。
その哀しみが、熱を持って、俺の目を灼いた。
「だったら……!」
俺は叫んだ。
「だったら、余計にちゃんと視ます。あなたが、何を燃やして、何を望んで、誰に裏切られたのか──すべて」
蔵の中で、赤が膨れ上がる。
炎でも、煙でもない。
ただ、想いだけが燃えている。
それを視るために、俺は目を逸らさなかった。
──その瞬間だった。
十時の身体が、歪んだ。
いや、“何か”が内側から膨れ上がるように、彼の輪郭を押し広げていた。
皮膚が裂ける寸前で止まり、空気が悲鳴を上げる。
赤い火花のような布片が、十時の周囲に浮かぶ。
まるで意思を持った炎。
ひとつ、またひとつと空間に浮かび、旋回しながら俺たちを取り囲んでいく。
「視るな……視るな……視るな……」
彼の口から、幾重もの声が漏れる。
十時のものではない。もっと古く、深く、焼け焦げた声。
「貴様らが……何を知るというのだ……!」
巻き上がる赤布が、火蛇のように唸りを上げた。
一本が鎌鼬に襲いかかる。
「下がってろ!」
鎌鼬の刃が閃き、布を裂く。けれど裂けた布の端から、さらに新たな“炎”が咲いた。
「私は……与えられたのだ。あの神から……“燃えぬ証”を」
声が割れる。
「だというのに……だというのに、あの姫は私を嘲り……すり替え、焼いた……!」
十時の影が二重になる。
一つは人間。
もう一つは、“偽”として焼かれた“かつての男”だった。
「多聞天……貴様の加護など……虚構にすぎん!!」
叫びが風を裂く。
その怒りが、今にもこの世界を焼き尽くしそうだった。
「“月の民”が何だ……! 天より来たとて、この仕打ちが許されるものか! 名も呼ばれぬままに焼かれた、この無念……視るがいい、貴様らも──燃え尽きるがいい!!」
全身から赤布が迸る。
それはもう布ではなかった。火そのものだ。
喰らいつくように、俺たちを包囲してくる。
「純壱、下がれ!!」
鎌鼬が俺の前に飛び出した。
風が巻く。刃が唸る。
けれど、その炎は“切れない”。
百目が一歩前へ出た。
「下がり給へ、純壱ちゃん」
いつのまにか彼の姿が風の中に紛れていたのかと思うほど、自然な動きだった。
巻物を掴んだ左手が、静かに持ち上げられていた。
「……百目さん!」
思わず駆け寄ろうとする。
彼の袖から覗く手首は、まだ赤く爛れていた。
「その腕……そんな怪我で……っ!」
俺の言葉に、百目は微かに笑った。
「焼き方を知っている者は、火の流れも視えるものさ。
あとは、“誰を焼かせるか”を選ぶだけだ」
その言葉は静かだった。
けれど、右手をかばう様子はなかった。
あれだけの火を浴びた腕なのに、彼は一歩も退いていない。
百目は、巻物を静かに開いた。
「──理に背く想いよ。記録に還れ」
巻物が光る。
真白な、どこまでも冷たい光があたりに満ちた。
赤布が、一瞬怯えたように揺れる。
十時──いや、御主人の叫びが、風に引き裂かれていく。
「視るなァァァァ!!」
百目の声が重なる。
「……視えるからこそ、裁くのだよ。名を失くした、哀しき男よ」
光が爆ぜる。
炎がうねり、布が裂け、赤が消えていく。
けれどまだ、終わっていなかった。
光が散る。
けれど、その光は消えることなく、辺りを静かに満たしていた。
それは炎の熱さとは正反対の、澄んだ冷たい輝きだった。
視界を覆っていた赤布が退き、俺は目を細める。
まるで陽炎のように、景色が揺らめいていた。
その揺らぎの中心に──ひとつの人影があった。
鎌鼬が小さく息を呑み、百目はただ静かに巻物を閉じる。その瞳に浮かんだ光は、どこか遠い記憶を探るような色を帯びていた。
「……まさか、こうして“貴方”に会う日が来ようとはな」
百目の声音には、敬意と哀愁の他に、微かな疲れのようなものが滲んでいた。
目の前に現れたのは、静かに立つ一人の男だった。ブラウンのスーツを纏い、少し明るい長い茶髪が、熱風にさらりと揺れた。百目のような赤目だが、それは彼よりもっと穏やかな赤をしていた。整然とした姿勢からは一切の隙が感じられない。
彼を取り巻く空気はまるで、戦場の凍てついた風を纏っているかのようだった。
「――毘沙門天」
百目がぽつりと呟くと、その人影がゆっくりとこちらに視線を向けた。瞬間、背筋が凍りついた。畏怖にも似た感覚が、背骨の内側を伝い降りる。
「久しいな、百目。それに、鎌鼬も」
毘沙門天の低く張り詰めた声が空間を満たす。穏やかな声音であるにも関わらず、二人に向けられた目はどこか痛みを秘めていた。
「相変わらず、面倒ごとを運んでくるお方だ。天を去って以来、“こちら”は随分と後始末に追われたというのに」
鎌鼬の口調は軽いものの、その奥には確かな皮肉があった。毘沙門天は軽く肩をすくめ、苦笑を漏らす。
「耳が痛いな、鎌鼬。あの頃は、私も未熟だった」
「まったく、よくも飄々と──」
百目が短く息を吐き、静かに言った。
「昔話はそこまでにしてもらえるか。目の前に解決すべき問題がある」
「――なるほど。その右目、なかなかどうして興味深い」
毘沙門天は俺に視線を向け、そう言った。
低く張り詰めた声だった。柔らかそうな口調なのに、感情の起伏は見えない。ただ、冷静に、淡々と見定められているように感じた。
その視線はすぐに俺を離れ、やがて蔵の中央に座り込んだ十時──いや、阿部御主人を見据えた。
「阿部御主人よ。その業、いまや余が回収する時が来たようだ」
静かな言葉が空間に響く。
阿部御主人の姿は歪んだまま、小刻みに震えていた。その輪郭の端々から黒い煙が漏れ出し、ぼやけた人の形を作っている。
「多聞天――否、毘沙門天よ……! 貴様が私に与えた加護など、虚構に過ぎなかったではないか! 燃えぬ衣と偽り、私を地獄の業火に送り込んだ!」
毘沙門天はわずかに目を細める。
「確かに、衣は偽物と言えるであろうな。しかし加護は、偽りではない。あれは正真正銘“本物”の火鼠の衣だ」
「何を言うか! 私は燃えたぞ! この身体は、その業火にて焼かれ、魂は焦げ落ちた!」
阿部御主人の怨嗟が空間を震わせる。
だが毘沙門天は、静かに首を横に振った。
「貴様が焼かれたのは、衣の真贋ではなく、その心に巣食った欲望故。余が与えた加護は、その欲望の火で焼かれ、呪詛と化した。──もはや貴様自身が、炎そのものとなったのだ」
俺は息を呑んだ。
それは確かに、今まで視てきた光景そのものだった。
「そして今、その歪んだ加護をこの余が自ら回収する。貴様が燃やし続けた“業”を、ここで終わらせるのだ」
毘沙門天が静かに手を掲げる。その手に光が集まり、三叉戟が現れた。
「……やめろ。やめろ……! 私は、私はただ……ただ、愛されたかっただけだ!」
阿部御主人の叫びは、空気を震わせ、埃を落とした。
その悲痛な言葉は、熱を帯びて空気に響く。
だが毘沙門天は、無慈悲なまでに穏やかな声音で答える。
「だからこそ、もう眠るがよい。貴様の願いはすでに、この世には叶わぬ」
その瞬間、毘沙門天の手から矛が離れ、阿部御主人の体が貫く。
「う、あぁああああ──!!」
阿部御主人の影が激しく揺れる。黒い煙が裂け、赤い炎が渦を巻きながら天井へと吸い込まれていく。
しかし、その業火は一筋だけ、百目に向かって襲いかかった。
「百目さんっ……!」
俺は叫んだが、その時すでに百目は巻物を掲げていた。
痛々しく焼け爛れた右手でしっかりと巻物を握り締め、彼は一歩も退かない。
「貴方……その腕では!」
俺の叫びに、百目はほんの僅か、口元に微笑みを浮かべた。
「……火の流れなど、とうに視えていると言っただろう」
炎が巻物に触れる寸前、再び白い光が迸った。炎は巻物に吸い込まれ、溶けるように消えていく。
「そうだ。記録に還れ──お前の“炎”は、もう此処には残せない」
百目の声が静かに響き、蔵に満ちていた業火は音もなく消えた。
蔵の中央には、力なく崩れ落ちた十時勇吾が残されていた。
その身体から、もう炎の気配は感じられない。ただ静かに、弱々しい呼吸が聞こえる。
毘沙門天はゆっくりと視線を落とし、百目に向かって小さく頷いた。
「よく業を断ち切った! 百目――我が友よ!」
百目は目を伏せ、小さく頭を下げた。
「元々は貴方の蒔いた種だろう」
「なんだ、随分とよそよそしいな……その点に関しては反省しているとも」
「反省していなかったらぶん殴っていた」
「本当、そう」
百目と鎌鼬が、どこか据わった視線を毘沙門天へ向ける。
毘沙門天は小さく息をつき、視線を俺へと移した。その目は鋭く、けれどどこか柔らかい光を帯びていた。
「……純壱、と言ったか。うん、縁によく似ているな。――その目は、人の業を映す鏡だ。視たものの重さを忘れるな。いずれまた、会おう」
毘沙門天の影がゆっくりと薄れ、消えていった。
俺は、ただそこに立ち尽くしていた。
右目にはまだ、焼け焦げた記憶の輪郭が残っている。
それはきっと、もう消えることはないだろう。




