最終章 : その男の名は
店内に、珈琲の香りがほんのりと漂っていた。
夜のナミヤマは、昼よりもいっそう静かだ。
古びたスピーカーから流れるジャズが、磨き上げられたカウンターの木目にじわじわと染み込んでいくようだった。音と空気の境界が曖昧になるほど、穏やかで心地の良い空間だった。
柔らかな照明が、天井の隅に影を落とす。時間の流れすら緩やかに変わったような、そんな錯覚に包まれていた。
「全員、怪我なし……ってことで、良いんだよね?」
カップの縁に唇をつけながら、波山が息を吐いた。温かい香りが、彼の肩越しに揺れて立ち上る。
その向こうで、鎌鼬がてんこ盛りのナポリタンをひと皿、すっかり真っ赤に染め上げていた。
山のような麺にタバスコを惜しげもなくかけている。顔はどこか満ち足りていて、戦後の屋台で得物を掴んだ男のような達成感すら滲んでいた。
「火は消えた。煙も落ち着いた。事件は、これにて一件落着……ってことでいいね?」
いつもより低く響くその声には、緊張の糸が抜けたような脱力があった。椅子に凭れた彼の背中から、戦場の気配はすっかり消えていた。
「……そう簡単に言ってくれるなよ」
ぽつりと呟いたのは、俺──的場純壱だった。
数日前の“あれ”以来、ようやく体の火照りも、右目の灼けるような痛みも、少しずつ引いてきていた。けれど、頭の奥、心の底にはまだ、炭のような熱が燻っている。
あれは夢ではなかった。だからこそ、余計に、言葉にするのが難しい。
百目はまだ現れていなかった。店主の波山によれば「少し野暮用で遅れる」とのことだったが、その“少し”は思っていたよりも長い沈黙を生んでいた。
「まあまあ、坊や。しっかり休んだかい?」
明るい声に、視線を移す。
スーツの男――毘沙門天が、パフェの上のベリーをフォークで突きながら、いつものように微笑んでいた。
つい先日、あの神が大地に降り立ち、燃え尽きた魂を導いた。その姿は圧倒的で、神話の頁から抜け出してきたようだった。けれど今は、その人が、砂糖の結晶に目を細めている。
「ま、まあ……それなりに」
曖昧に答えながら、俺は自分のカップを手に取る。
表面に揺れる液面に、赤の残像が揺れて見えた。
右目の奥で、まだ熱が息をしている。
小さく、確かに、生きている。
「けれどまあ、今回は上出来だった。あの火種を断ち切れたのは、立派な手柄さ」
波山がカップを傾けながら呟く。その声音には、職人のような静かな敬意が滲んでいた。
「君は、どう思う? 坊や」
問いかけたのは、毘沙門天だった。
声に含まれるのは威圧でも試すような響きでもなく、ただまっすぐな問いだった。
「……まだ、よくわからないです」
本音だった。
視えるようになったこの目は、確かにたくさんのものを教えてくれた。
でも、だからこそ“何を見逃したか”が、なおさら胸に重くのしかかる。
「――俺から一つ、聞いていいですか?」
言葉が落ちたのは、いつもの俺なら言えなかったような間だった。
「百目さんは──一体、何者なんですか」
空気が変わった。
スピーカーの音が少し遠のいたように感じた。
カウンターの向こうで、波山が小さく眼を細めた。
鎌鼬はフォークを持ったまま、無言で視線を滑らせる。
カウンターの上に立ちのぼる煙の形が、ゆっくりと変わっていく。
「余は、昔からあいつの目に助けられていた。鎌鼬と、ここにはいない“もう一人”も、きっとそうだろうな」
ぽつりと、毘沙門天が言った。
その声音は穏やかだった。
けれど、その言葉の中に、確かに“何か”が封じ込められていた。
「──えっ……?」
手の中のカップがきゅっと軋んだ気がした。
血の気が引いたわけじゃない。むしろ、頭の奥がふっと熱を帯びる。
「ふふふ、聴いて驚くが良い! あいつの真名は“広目天”。余と同じ、“帝釈天四天王”の一人だった男なのだ」
ちりん──。
扉に吊るされたベルが、風に押されて静かに鳴った。
《あとがき》
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
『百目探偵事務所』は、探偵も助手も妖怪という、少し不思議な世界の中で、“視る”ことと“視えすぎてしまう”ことを描く物語です。
そして『火鼠の衣』編は、その一章目にして、一つの大きな炎でもありました。
かぐや姫、火鼠の衣、そして燃やされた男。
名を呼ばれぬままに、想いを抱えたまま、消えずに残った業火が、この物語の核心だったように思います。
純壱はまだ、視えるようになったばかりです。
それでも彼は、誰かの痛みや、焼け跡の奥にあるものを、確かに“見つめよう”としてくれました。
その姿を、少しでも皆さんの心に残せていたなら、筆者としてこれ以上の喜びはありません。
そして、最後の最後に明かされた、百目の“名前”。
物語はこれで一旦の区切りとなりますが、彼らの過去も、“理”も、“神”たちの物語も……すべては、これから静かに動き始めます。
また次の一編で、お会いできますように。
燃え残った想いの先で、皆様の読書の火種が灯ってくれますように。
レビュー、いいね、感想等頂けましたら大変励みになります。
──感謝を込めて。
てふてふ




