第十章 : 焦熱
走っていた。
赤い糸を追って、俺は風を切るように街を駆け抜けていた。
息が上がる。けれど、止まれなかった。
右目が、ずっと疼いている。
まるで、誰かの叫びが目の奥で燻っているようだった。
夕暮れの街は、いつもと同じはずなのに、どこか感覚がずれていた。
右目に映る世界が、ほんの少し傾いて見える。
ひと気のない路地。薄明かりの差す石畳。風に揺れる木の葉が、まるで燃えかすのようにちぎれて飛んでいく。
鎌鼬は俺の少し前を駆けていた。
軽い足取りなのに、気配がない。息遣いすら聞こえない。
不意に消えてしまいそうな静けさをまとっている。
随分と、“加減”させてしまっている事は明白だった。
「連絡は?」
「送ったよ。僕の“知り合い”をひとり飛ばした……あれは色々と便利な奴でね。特に“音”を伝えるのは得意なんだ」
鎌鼬は軍帽を軽くずらしながら答える。
「百目は、河原で調査してるって。合流地点も、そこだ」
河原。
嫌な予感がした。川のそばは、風が強い。そして、風があるところには、火が向かう。
そのとき、遠くで何かが鳴った気がした。
水音でも鳥でもない。
もっと、生き物に近い、鈍い呻き声のような……。
俺は燃え盛る肺と悲鳴をあげる足に鞭打って、そのまま走り続けた。
百目がいるはずの河原。
その向こうに、赤が視えた気がした。
河原に出ると、風がひゅう、と鳴った。
草がなびき、水面がきらきらと夕日を反射する。
その中心に、紺色の和装の背中があった。
百目だった。
いつものように背筋を伸ばし、手を後ろで組んで立っていた。
遠くから見ると、まるで何も起こっていない風景の一部にしか見えなかった。
けれど、俺の右目には“視えて”いる。
──右腕が、赤い。
じわり、と袖の内側から煙が漏れている。
布が焦げる音が、風の音に混じって小さく響いた。
けれど彼は動じない。いや、気づいていないのか。
「百目さん──腕が!」
俺が叫ぶと、彼はゆっくりと振り返った。
その瞬間、右目が灼けたように熱くなった。
赤が視える。
それは火ではなかった。
“怒り”、“哀しみ”、“憎しみ”──その内のどれでもない、俺の知らない感情が、炎のように揺らめいていた。
百目の右腕を、何かが“掴んで”いるように見えた。
だが、それは誰の手でもない。ただの残火。ただの感情。
それなのに──それは今まで見たどの“赤”よりも強く、熱を持ってそこに在った。
どうして、こんなに鮮明に見えるのだろう。
火でもなく、物でもなく、ただの“想い”が、こんなにも赤々と燃え上がっている。
目の奥が熱を持ち、吐息に焦げた味が混じった気がした。
百目は、振り返ってもなお表情を崩さなかった。けれどその赤い瞳の奥に、微かに揺れるものがあった。警戒か、それとも──諦めか。
ゆっくりと、彼は右の袖口をかき分け、懐から細長い巻物を取り出す。紐で丁寧に括られたそれは、皮で綴じられた古びたもので、表紙には金で四文字が記されていた。
──『諸天納録』。
巻物が開かれた瞬間、空気が変わった。
風の音が止んだ。遠くの鳥も、葉擦れも、なにもかもが沈黙する。
百目の指が紙面をなぞる。そこに描かれていたのは、ただの文字ではなかった。朱のインクで書かれたような曲線、幾何学的な印、そして、かすかに浮かび上がる何かの瞳。
「天座より継承せし巻、記録に非ず。──是、“理”を視る者の証なり」
百目の声が、低く落ちる。読経のように、けれど静かに、静かに言葉が続いていく。
「……我、此処にて命ず。迷いの火よ、記録に還れ──」
その瞬間、巻物の中央がぱっと輝いた。黄金の光ではない。どこまでも白く、冷たく、燃えるような無音の光だった。
百目の右腕に絡みついていた“赤”が、ふっと揺らいだ。まるでそれが何かに気づき、怯えたように、ゆらり、と退いた。
けれど、燃えた。
右腕が、ぼっ、と炎を上げた。
何もなかった空気が、突如として熱を帯び、煙が立ち上る。
「百目さん!!」
思わず駆け寄ろうとした俺を、鎌鼬が制した。
「大丈夫だ。あいつは、自分の燃え方くらいわかってる」
百目は顔色ひとつ変えず、巻物を閉じた。袖が焼け、赤く腫れた右手が、露わになる。
けれどその指先は、未だに静かだった。何ひとつ、揺れていなかった。
「……感情の火だって、“消火”することはできるさ。ただし──その感情ごと、記録に戻すならな」
声は静かだった。だけど俺には、確かにわかった。
──今、百目は、何か……“自分の一部”を失くしたのだ。
火は消えた。煙も、もう見えない。
だけど俺の右目には、まだ揺れていた。
残火の輪郭。
消しきれなかった“何か”。
百目は静かに顔を上げ、俺に問うた。
「純壱ちゃん。お前の目には──まだ、何が視えている?」
──問いに、すぐには答えられなかった。
右目が、まだじんと疼いている。
痛みというには鈍くて、熱というには冷たい。
ただ、奥の方で、何かがずっと“揺れている”のが分かる。
その揺らぎは、さっきまで百目の腕に絡みついていた残火と──よく似ていた。
「……火じゃないんです」
俺の声が、掠れた。
「視えてるのは、“火”じゃない。……火が燃やした、なにかの“記憶”みたいな……そんな感じが、するんです」
百目が、わずかに眉を動かした。けれど何も言わず、ただ黙って耳を傾けている。
「人の……想いとか、未練とか。焼けて、形をなくして、それでも残ってる“におい”だけが──視えるんです」
右目をそっと押さえる。まだ熱を持っている。
「火そのものは、視えていない。……でも、“誰が、どんな風に燃えたのか”が──焼け跡みたいに、視えてる」
それを“視えている”と言っていいのか分からなかった。
けれど、確かに、俺は今……
“十時が何を焼いてきたのか”を、知ろうとしていた。
「……なるほど」
百目が低く呟いた。
その声に、どこかほんの少し──“安堵”のようなものが混じっていた気がした。
けれど、その安堵はほんの一瞬で霧のように薄れていく。
百目の視線がふと、俺の肩越しの向こうを見据えた。その目が僅かに鋭さを帯びる。
空気が揺れる気配がした。
「……純壱ちゃん。視えているなら、まだ追えるか?」
問いかけの意味を理解するより早く、俺の右目が疼いた。
視界の隅、草むらの向こうに──赤い糸が、ひと筋、風に流れていた。
その残火はまるで、俺を待つように、呼ぶように、
河原のさらに奥へと続いている。
「……十時……」
名前が、喉の奥で焦げた声になる。
ぐっと、拳を握った。
「──ええ。行けます。……視えてます」
熱がある。鼓動が速い。
けれど、もう足は止まらない。
火は、遠くのものじゃない。
誰かの内側で、まだ燃え続けてる。
そしてそれを、
今度こそ──止めなきゃならない。
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