第九章 : 炎を裂くは風の刃
夕暮れの影が、大学の校舎をゆっくりと飲み込んでいく。
赤く染まった校舎の外壁。遠くの空にかかる雲が、まるでゆらめく炎のようだった。どこかから漂ってくる夕餉の匂いに混じって、鼻の奥には焦げた鉄のような臭気がこびりついている。
その匂いを追うように、俺は校庭の片隅で足を止めた。
──“熱”がある。
風は吹いていた。頬をなでる空気は確かに動いているのに、あの場所だけは止まっていた。時間の流れが、そこだけ途切れているようだった。
赤黒い靄が、ゆらゆらと空間に沈んでいる。
煙にも似たその揺らぎが、どうしようもなく不気味だった。視線の奥、右目のさらに奥で、何かがじくじくと疼く。
右目が、ずきりと痛む。
喉が乾いた。息が浅くなる。
(……いる)
俺が足を一歩踏み出しかけた、その瞬間だった。
ジュ、と、何かが焼ける音がした。衣擦れのような、でももっと生々しい音。
煙の奥から、それは現れた。
──“燃えた人間”。
皮膚は煤け、筋肉は崩れ、顔は溶けて原型を留めていない。
けれど、それが“誰か”だったことは、はっきりとわかった。焼け焦げたその姿に、確かにかつての「人」の形が残っている。
人の姿をした何かが、俺に向かって腕を伸ばす。
腕は裂け、捻れ、火の鞭のように振るわれた。熱はないのに、視線だけで肌が焼けそうだった。
逃げられない。体が、凍りついたように動かなかった。
──風が、吹いた。
次の瞬間、視界が流れた。景色が線になり、色だけが残像を引いてすり抜けていく。
「やれやれ。探すのに苦労したよ? ここは人間が多いんだから……何か目印でも置いといてくれないと」
どこからともなく聞こえたその声に、肩がびくりと跳ねた。
「本当に……危なっかしいんだから、坊やは」
耳元で囁く声。軽い調子とは裏腹に、その声は張り詰めていた。
鎌鼬が、俺を抱えるようにして跳び、ふわりと着地する。
その直後、俺のいた場所が、灼熱の炎に薙ぎ払われた。
グラウンドの地面が焼け焦げ、立ち上る煙が肌を刺すようだった。
心臓の音がうるさい。目の奥が痛い。全身から汗が噴き出しているのに、寒気が止まらなかった。
「下がってて。今のは……もう“人間”じゃないから」
鎌鼬の声が、やけに遠く聞こえた。だが確かに、どこかに届く鋭さを含んでいた。
風が巻く。白い軍服が、空気を切る音を立てた。
彼の姿が、すっと消える。
目を凝らしたときには、もう“それ”の背後にいた。
音はない。
気配すらない。
──ただ、一閃。
焼けた影が、裂けた。
火を纏った人の形が、砂のように崩れていく。まるで、意思を持たずに燃え尽きる“なにか”のように。
俺は、何もできなかった。
ただ立ち尽くして、斬られるその瞬間を見ていた。
終わった。
そう思ったのに──違った。
煙の奥に、また誰かがいた。
よろよろと歩いてくる影。
顔を上げた瞬間、心臓が跳ねた。
「──十時……君……?」
彼の顔には怯えが浮かんでいた。唇は震え、瞳は何かに縋るようだった。
「た、助けて……俺、もう……俺は……っ」
その声は、あの夜と同じだった。
人間の、十時勇吾の声だった。
「待って……!」
駆け寄ろうとした俺の動きを、鋭い声が制した。
「目が違うだろう。百目の目を授かって、まだ視えていないのかい?」
鎌鼬だった。
目が違う?
……何が?
どこが?
けれど、考えるより先に彼は動いた。
刀が閃き、空気を裂く。
「やめろ!!」
俺の叫びは、虚空に溶けた。
十時の姿が、ふわりと崩れる。まるで最初から“誰でもなかった”みたいに、風に流れて消えていった。
あとには何も残っていない。
ただ、焦げた匂いと、赤い揺らぎの残像だけが、その場に取り残された。
「──おや? おかしいな。随分と手応えがない」
刀を納めながら、鎌鼬がぽつりと呟いた。
その横顔は、どこか愉悦に満ちていた。
表情こそ穏やかだが、目の奥には微かな高揚が滲んでいる。
息も乱れず、汗もかいていない。まるで散歩のついでにひと仕事済ませたかのようだった。
(……この人は、“斬る”ことに躊躇いがないんだ)
そう思った途端、背筋に冷たいものが這い登る。
俺を助けてくれている。現に今も。
でも、あの刀が向けられていたのが、もし……俺だったら。
想像するだけで、喉の奥がきゅっと詰まった。
目の前に立つ男は、風のように速くて、冷たくて──そして、美しいほどに“人ではない”。
俺は、そこに立ち尽くしていた。
声も出ない。頭が真っ白だった。
(……俺は、何を見ていた? 何を視なかった?)
右目がうずく。
あの時、視えていたはずだった。
なのに、俺は止められなかった。
風が吹いた。
どこか遠くで、誰かが呼んでいるような気がした。
鎌鼬が、静かに言った。
「ほぅら、ちゃんと目を凝らして? ……そう。じっと見るんだ。何か見えてきたかい?」
「な、何も……」
「それじゃダメだ。視えないんじゃ、君に価値なんてないだろう? もっとよく見なさいよ。灰を、煙を、陽炎を! それが“調査”ってもんだろう!」
その言葉に、思わず唇を噛んだ。
でも、鎌鼬の言うとおりだった。
目を逸らしていたのは、俺のほうだ。
深く、息を吸う。
胸の奥がざわつく。
怖い。でも、目を逸らしたら何も変わらない。
右目に意識を集中する。
煙。灰。微かな揺らぎ。
視線の先、煙の揺らぎの中に、赤い線が浮かび上がった。
それはまるで風に引かれる糸のように、ゆっくりと宙を泳いでいる。
不確かで、頼りなくて、それでも俺の右目はそれをしっかり捉えていた。
胸の奥で、何かが静かに点火する。
この先にいる。確信はない、けれど──そう思えた。
「百目さんに連絡を……十時の居場所が、わかったかもしれない」
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