第千四百三十二話 時を司るもの(九)
「明日良!」
「ぐうっ……!」
明日良の太い首に食い込むのは、ガルーダの足の爪であり、その形状は猛禽類のそれによく似ていた。ただし巨人めいた体躯を誇る鬼級幻魔の足である。太く強靭であり、鋭利な爪は、かつて存在したどのような鳥類とも比べものにならない力を持っていることは明らかだ。
その四本指に込められた圧倒的な力が、明日良の首を抉り取ろうとしている。
幸い、明日良の首は、星装・阿修羅の装甲に覆われており、鬼級幻魔の膂力でもそう簡単には突き破れなかったのだが、しかし、それも時間の問題のように見えた。
獰猛な爪の切っ先が深々と食い込み、血が滲み出しているのだ。
万が一、首の動脈を傷つけられるようなことになれば、首が切断されなくとも、出血死する可能性がある。
だが、阿修羅の腕に掴まれた状態の美由理は、完全に力を使い果たし、役には立たない。ガルーダが目もくれていないということはつまり、一切の危険性がないと判断されているということだ。
鬼級幻魔にとってもっとも厄介なのは、星象現界を発動し、その力を限界まで引き出した明日良だけであり、この暴風圏を収めることこそがガルーダの目的であれば、源を絶とうとするのも当然の判断だ。
「くそっ!」
神威はすぐさま律像を練り上げながら海上へと飛び上がったが、水面がせり上がり、無数の触手による包囲網が敷かれてしまう。
アプスーは、幸多よりも神威のほうが厄介だと判断したようだ。
それもまた、当然の判断。
道理といっていい。
「この星将未満の大星将に的を絞るとは、馬鹿馬鹿しいとは思わんか!?」
神威は叫んだが、アプスーの触手が攻勢を緩めることはない。間髪入れず神威に殺到し、律像の完成を待たずして拘束する。手首、足首、首、胴体、どこもかしこも触手に絡みつかれ、それらが鉄のように硬化すれば、身動きひとつ取れなくなる。
これでは、大星将も形無しだ。
「大星将の……看板は……降ろさねばな……!」
「この期に及んで良く喋る……」
アプスーは、上空のガルーダを一瞥し、それから神威に視線を戻した。見れば見るほど、幻魔ではないと確信を持つ。では、なにものなのか。
答えはひとつ。
「人間か」
「人間……」
ガルーダが、アプスーの声に反応した。
たかが妖級幻魔かと思いきや、そうではなく、かといって鬼級には程遠い魔素質量の持ち主は、ガルーダの足の爪に掴まれ、いまや息絶えようとしている。
その膨大な魔力は、並外れた質を誇り、ガルーダの魔法と拮抗するほどの力を見せつけた。
「これが人間だと?」
ガルーダには、納得がいかない。
人間など、魔天創世によって滅亡した劣等種に過ぎず、愚劣にして脆弱、論ずるに値しない存在であるはずだ。
ましてや、これほどの力を持つ人間など、歴史上存在しなかった。
「噂に聞いたことがある。南の地に、人間の国が興った、と」
「魔天創世を生き残っていたものたちがいたというのか?」
「いたのであろうな。見よ、このものたちを。どこからどう見ても人間であろう」
「ならば、この魔素質量はどう考える?」
「魔天創世から百年以上。人間の魔法士たちが独自に研究を積み重ね、力を磨き上げた結果ならば、納得も行くというもの」
「人間らしく、か」
「うむ。我ら幻魔とは根本から異なるのが人間というもの」
(なんだ……?)
幸多は、アプスーとガルーダが言葉を交わすだけでなく、それが会話になっていることに多少の驚きを覚えていた。
海上へと至った幸多は、情報子の力場を生み出してはそれを蹴って上空へと至り、海中から迫り来る触手を避けつつ、ガルーダへと迫っている。
その間、二体の鬼級幻魔がどうにも親しげに言葉を交わす様が気にかかった。
ここは、海と空の狭間。
そして、ガルーダはこの空域を、アプスーは海域を〈殻〉とし、支配者として君臨しているらしい。
つまりは、隣接する〈殻〉の殻主であり、本来ならば敵対関係にあって、敵愾心を燃やし合っていてもおかしくはないはずだ。
互いに姿を見れば、即座に攻撃し合っても不思議ではない。
だが、そうではなかった。
まるで両者は、普段から話し合っているかのように言葉を交わす様は、長らく交流があり、良好な関係を築き上げていることを示しているようだった。
幻魔には幻魔の社会があり、秩序があるということは、知っている。
この混沌とした魔界の至る所に〈殻〉があり、それらが都市や国家として機能していることからも、明らかだ。それら〈殻〉の中では、殻主を頂点とする秩序が構築され、だれもがその理の中で生きている。
そして、殻主同士が協力し、同盟を組んだり、連合軍を結成することも、決してありえないことではなかった。
つまり、だ。
この二体の鬼級幻魔は、協力関係にあるのではないだろうか。
「だが、そなたは何者ぞ?」
「うむ、おまえは、なんだ?」
ガルーダとアプスー、両者の意見は、完全に一致していた。
ガルーダが縊り殺そうとしているものと、その背にいるもの、アプスーが触手で雁字搦めにしたものは、人間である。これは間違いない。姿形、言動、反応からして、幻魔ではありえない。
幻魔と人間以外の新種の生物という可能性も捨てきれないが、それは限りなく低く、考慮する余地もない。
だが、この青白い電流を帯びたものは、違う。
人間ではない。
ましてや幻魔でもない。
一切の魔素を宿さず、それでいて、生きている。
この魔界で、このエーテル宇宙で、だ。
魔素圧に押し潰されて然るべきはずの、あってはならない存在。
この宇宙の異物。
イレギュラー。
「さあ? なんなんだろうね?」
幸多は、鬼級二体の興味が自分に移りつつあることを認め、不敵に笑った。ガルーダの猛禽のような頭部がこちらを向き、赤黒い瞳が光を放つ。鋭い眼光は、睨み返すだけで息が止まりそうになるが、構わない。そして、その背後にあるものを発見した直後、無数の羽が幸多に殺到した。
「いま、理解した」
「おまえは、排除すべき異物なり」
ガルーダとアプスーは、幸多をそのように見做すと、一斉に攻撃を開始した。無数の羽を弾丸のように飛ばして幸多を満身創痍にすると、そこに海水の奔流が殺到、全身をずたずたに引き裂いた。
「皆……代……!」
「幸多――」
明日良と美由理が声にならない声を上げるも、つぎの瞬間、衝撃が明日良の首に伝わってきて、彼は目を見開いた。青白い火花が、視界を奔る。幸多の足が、ガルーダの足首に突き刺さったのだ。足先に集中した蒼光が炸裂し、一瞬、爪の力が弛んだ。その一瞬を逃す明日良ではない。阿修羅の三本腕でガルーダの足を引きちぎり、自由の身となれば、暴風圏を収束させ、全周囲に溢れかえる攻撃の数々を吹き飛ばす。
「やりやがったなっ、皆代っ!」
「まだまだですっ!」
幸多は、さらにガルーダの足を蹴りつけ、腹に拳を埋め込んで見せた。どうやって幸多が明日良の頭上に現れたのかなど、美由理にもわからない。だが、確かに幸多は生きている。
「異物如きが!」
ガルーダが吼え、無数の翼を羽撃かせた。猛烈な突風が、幸多を吹き飛ばすものの、明日良は動かない。収束した暴風圏が盾となっている。
そして幸多はといえば、その勢いで神威の元へと辿り着いていた。無数の触手に雁字搦めにされた戦団総長は、律像を展開していたが、真言を発することができず、故に脱出できないのだ。首が、触手によって締め付けられている。
人間であるが故に、首を絞められれば発声できず、真言を唱えることができない。そして、そのために魔法を発動できないのだ。
魔法士の唯一にして最大の弱点が、それだ。
声を封じられれば、万能にして神秘の力を行使できなくなる。
ならば、と、幸多は、風に乗って触手の上に辿り着くと、蒼光を帯びた拳で触手を殴りつけるも、ほとんど効果がないことに気づかされた。悪魔や天使でなければ、幸多の打撃は通用しない。
が、膂力はどうか。幸多は、神威の首を締め付ける触手に手を掛け、全力で引っ張った。すると、どうだ。
「屠龍輪……!」
喉の奥底から搾り出すように発せられた神威の真言が、律像が魔法として具現する。
神威を中心として展開したのは、光の輪。それは神の全身に巻き付き、周囲に展開していたアプスーの触手を切り裂き、彼を空中に解き放った。
「さすがだな、皆代次期煌士」
「なんですか、その呼び方」
「賞賛の言葉だ、素直に受け取りたまえ」
神威は、幸多を引っ張るようにして上空へと飛翔、迫り来る触手を逃れた。
依然、状況は変わらない。
最悪にして、絶体絶命の窮地。




