第千四百三十一話 時を司るもの(八)
「我が海を荒らすは何者ぞ」
海面が激しく渦巻き始めるとともに響き渡った大音声は、猛々しい男声だった。荒ぶる海神に相応しい威圧感。男性形の鬼級幻魔であろうことは想像がつく。
一本の巨大な触手が虚空を殴りつけた途端、無数に分裂し、大量の水飛沫を撒き散らす。それら一滴一滴が破壊的な魔力の塊であり、明日良が暴風圏を維持していなければ一網打尽に粉砕されていたことはいうまでもない。
暴風圏の勢いさえ、相殺されようとしているのだ。
頭上からは、突風の連打。
眼下からは、水飛沫の乱射。
そして、無数にうねる触手が阿修羅の風域を突破し、迫り来る。
その一本を青白い光弾が弾き飛ばすも、それだけではどうなるものでもない。
(武器があれば……!)
幸多は、歯噛みする。
ここは、レイライン・ネットワークの範囲外。無論、エーテリアル・ネットワークも、地宙間情報通信網も使えるはずがない。故に、幸多が転身機を用いることはできず、F型兵装を転送することができない。
こうなると、完全無能者は無力になる。
まさに、無能だ。
源理の力を使えるだけマシというものだが、それにしても鬼級幻魔にどの程度の効果があるというのか。
悪魔ならばいまの一撃が大打撃となるどころか、痛撃にもなり得たのだが、ただの鬼級幻魔相手には痛痒すら与えられていない。事実、触手はわずかに軌道を逸らしただけで、すぐさま勢いを取り戻している。
つまり、悪魔型、天使型と呼ばれる幻魔たちは、ただの幻魔ではないということだ。
源理の力を弱点とする、異常体。
なぜ、悪魔、天使にだけ通用する力が存在し、そんなものがこの身に宿っているのか――などと、考え込んでいる場合ではない。
海域の支配者たる鬼級幻魔がその上半身を渦潮の中に現し、触手の根元に頭があることがわかった。つまり、この膨大な数の触手一本一本が鬼級幻魔の頭髪だったのだ。厳めしい容貌の持ち主で、隆々たる巨躯を覆うのは煌びやかな鱗の鎧。手には異形の槍。激流を現すような形をしているようにも見える。
異形は、頭部に生えた大量の触手くらいであり、それ以外の部分は極めて人間に酷似している。ただし、身の丈は人間の平均を遙かに上回っている。三メートル以上はあるだろうか。その全身に水気が纏い付き、渦巻いていた。
それは、厳かにも声を発する。
「我はアプスー。この海の主なり」
「そして、我はガルーダ。この空の支配者ぞ」
こちらもまた、嵐のような声であり、それとともに上空から大量の羽が驟雨の如く降り注いできた。
羽を弾丸のように飛ばすのは、翼を持つ幻魔の攻撃手段としてありがちだ。
ただし、鬼級幻魔の場合、羽の一枚一枚に込められる魔力が膨大であり、妖級以下の羽弾と比べるべくもない破壊力を誇る。
「はっ、海の主と空の支配者ねえ……!」
明日良は、吐き捨てるように叫び、風気を極限まで高めた。既に最大威力の暴風圏をさらに強化しようとしたのだ。二体もの鬼級幻魔を相手にしなければならなくなれば、限界を超えた力が必要だ。
無論、戦う道理はなかったし、斃すつもりなど、端からなかった。
なんとしてでもこの苦境を打破し、無事、央都まで帰還することだけしか考えていない。
だが、そのためには、どうにかして鬼級幻魔の猛攻から逃れ続けなければならないのだ。
上方から突風と羽弾がまさに嵐のように降ってきていたし、眼下からは無数の触手と水飛沫が殺到してきている。
雑兵ばかりの幻魔の大群とは違って、暴風圏が容易く突破され、攻撃が星装を掠ることが増えた。直撃こそ回避しているものの、このままでは痛撃を受けるのも時間の問題だ。
「とんでもねえところで力尽きてくれたもんだな!」
「すまない」
「冗談だ、気にすんな」
明日良は、本気で謝罪してきた美由理に慌てて言い返すと、大気の足場を蹴るようにして前に飛んだ。すると前方に海水の壁が立ちはだかる。
「超連閃弓」
神威の真言が無数の魔法弓を具現、魔力の矢を乱射することで大水壁を削りに削り、ついにわずかばかりの穴を開ける。神威の魔法技量と魔素質量を以てすれば、それが限度。だが、明日良にはそれで十分。加速し、大水壁の穴を突破すれば、背後で爆砕の嵐が起きた。
ガルーダの羽の雨が海水の壁に激突し、両者の膨大な魔力の反発が炸裂したようだった。爆圧が、明日良の背中を押す。
さらなる加速を経て、戦場からの突破を試みるも、なぜか動けなくなる。見れば、足首に触手が絡みついていた。アプスーとやらの頭髪が変じたそれは、瞬く間に鉄の鎖の如く硬化する。
「ちいっ!」
「おおおっ!」
明日良の舌打ちを陵駕したのは、幸多の咆哮。そして、幸多の手刀が硬化した触手を切り裂き、明日良は解放される。だが、どうやってか阿修羅の腕から抜け出し、飛び出していた幸多は、触手に巻き付かれて海の中に引きずり込まれてしまう。
「皆代!」
「幸多!」
「誰も彼も無茶ばかりだな!」
悲鳴を上げる部下たちに変わって憤然を声を上げた神威だが、そのときには、海中に沈んだ幸多を助けるべく飛び出していた。阿修羅の手は、神威の導衣を引っ張っているだけだ。自由の身になるのは、容易い。
導衣を引きちぎるだけで良い。
そして、全周囲に魔法壁を張り巡らせながら海中に飛び込めば、どす黒く濁った海水の中、無数の触手に絡みつかれた幸多の姿が見て取れた。だが、触手たちは、幸多を持て余しているようだ。
(それはそうだろうよ)
神威は、海水を寄せ付けない結界の中で、ひとりつぶやく。幸多は、完全無能者。アプスーの触手は反射的に幸多を捕らえ、海中に引きずり込んだはいいものの、それによってなにが得られるわけもなく、故にどうするべきか考え倦ねている。
幸多を殺して得られるものはなにもない。
ただの人間ならば、ただの魔法士ならば、それがたとえわずかばかりの魔力しか持っていないものであったとしても、殺し、死とともに生ずる膨大な魔素を得るという事もありうる。
だが、幸多はどうだ。
魔素を一切内包せず、体内で生成されることもない完全無能者は、殺しても、死体が増えるだけだ。
死の海に、死がひとつ、還るだけだ。
そんなことに意味があるのか。
(意味があろうとなかろうと、関係あるまいが)
相手が、領土争い、勢力争いに腐心している鬼級幻魔ならば、なおさらだ。
敵対者と認定したならば最後、どのような相手であれ、縊り殺すだけではないか。
しかし、アプスーは、幸多を大量の触手で包み込んだまま、対処に困っている様に見えた。まるでなにかの違和感を覚えているような、そしてそれがなんであるか、知ろうとでもしているかのような。
(ならば、知れ)
神威は、組み上げた律像の完成度に確信するとともに告げた。
「狂旋界鞭」
瞬間、無数の光線がアプスーの触手に殺到、舞い踊るようにして切り刻み、幸多を拘束から解放した。神威の全魔力を込めて放たれた攻型魔法だ。並外れた威力を発揮したのはいうまでもないものの、やはり、手応えはない。
触手は瞬く間に復元するだろうし、神威には幸多の元に辿り着く余力がない。
すると、幸多の双眸が青白く煌めいているのが見えた。
彼は神威を認識したようだが、その表情は汚水槽の中のような死の海の中ではよくわからない。ただ、その全身が情報子の輝きに満ちていることは、確かだ。青白い燐光。それはさながら電流のように彼の全身を奔り、そして、すぐさま復元し、殺到してきた触手の尽くを捌ききって見せた。
(ふむ……)
神威は、幸多の体術がもはや常人離れしていることを認めざるを得なかった。
源理の力、蒼煌練気。
全身の情報子を励起させることによって身体能力を限界以上に引き出すというそれが、彼を完全無能者と呼ばせない説得力があった。
止めどなく押し寄せる大量の触手を一本一本軽々と捌きながら、海上へと昇っていく。
神威も、それに倣った。
狂旋界鞭をもう一度撃ち放つことで触手の追撃を緩めれば、そのときには、ふたりとも海上への離脱に成功していたのだ。
そして、神威は、明日良がガルーダによって首を鷲掴みにされている様を目の当たりにした。




