第千四百二十四話 時を司るもの(一)
「あれ? おっかしいな?」
アザゼルは、飛来する無数の羽弾を殊更優雅に躱して見せながら、もう一度自分の腕の中を見た。そこには、つい先程までしっかり抱き抱えていたはずの幸多の姿はない。
あるのは空白だけだ。
なにもないただの空白。
その空白と同じ虚空を蹴るようにして宙返りをし、さらに殺到した羽弾の数々を回避しようとするも、いくつかは直撃し、アザゼルの魔晶体を抉った。羽弾は、直撃と同時に炸裂する爆弾なのだ。
自動追尾爆弾というべきか。
「おい、てめえ、幸多をどこへやった!?」
「どこにもやってないんだなあ、これが」
「いねえじゃねえか!」
ベルゼブブが怒鳴り散らしながらウルティマリアの周囲の空間に亀裂を走らせる。虚空ノ顎と名付けられたベルゼブブの空間魔法は、空間そのものを引き裂き、亜空間への入り口を開く。紅く昏い亜空間に取り込まれれば最後、ベルゼブブの腹の中に収まるのと同じ結果となるのであり、既に女魔の羽弾の大半が彼の糧と成り果てている。
「そうなんだよねえ、でもさあ」
「どういうことだ!」
ベルゼブブには、アザゼルののらりくらりとした態度が気に食わなかった。幸多を確保し、保護するのが今回の最優先事項であったはずだ。そのために〈七悪〉が総力を結集している。
にも関わらず、つい先程まで確保していたはずの幸多をいつの間にか見失うなど、あってはならない。あるべきではない。
サタンに叱責を受けるどころか、処断されたとして、なんら不思議ではない事態ではないか。
しかも、この状況を見れば、アザゼルだけならばともかく、ベルゼブブまで巻き添えを食らいかねない。
「まったくです。あなたが確保していたはずでしょうに、どういうことなのです?」
「……どうもこうも」
敵のウルティマリアにまで責め立てられ、アザゼルは、苦笑するほかなかった。
「気がついたらいなくなっていたんだよねえ」
「はあ!?」
「ふざけているのですか?」
ベルゼブブの翅が瞬き、空間の亀裂がアザゼルの胴体を切り裂いたかと思えば、無数の羽弾が彼の全身を爆撃した。味方と敵による同時攻撃。
「きみたち、息が合いすぎでは?」
しかし、アザゼルは、まったく気に止めてもいないといった態度で、当然のように真っ二つになった胴体の上半身から魔晶体を復元して見せた。透かさず下半身を掴み取って、ウルティマリアに向かって無造作に放り投げる。
羽弾が殺到し、爆砕が乱舞する。
「ふざけてなんかいないんだけどさ。どう思う? マモンくん……マモンくん?」
「……認めたくないけど、本当にふざけているわけじゃないんだよ、アザゼル」
「どういうこったよ」
「そうよ、どういうことなの?」
マモンの反応を受けて、ベルゼブブとアスモデウスが顔を見合わせた。皇国の幻魔との戦いの最中、である。
悪魔たちにとっては、皇国の幻魔云々よりも幸多のほうが余程大事なのだから、致し方がない。
そして、マモンがアザゼルの肩を持つことなど、通常、考えられることではないし、ましてや、別の鬼級幻魔との戦いの最中、話を振られて反応することそれ自体がめずらしいことだった。
普段なら黙殺してもおかしくない状況で反応をした、そのことが、アザゼルにも疑問を浮かべさせる。
「ぼくは視たよ」
マモンの双眸、赤黒い虹彩が異様なほどの光を放っており、その全周囲に複雑怪奇としかいいようのない律像が構築され始めていた。魔法の設計図たるそれは、多層構造の幾何学模様であり、星象現界のそれに等しい。
周囲の空間を侵蝕するかのように拡大する律像を目の当たりにして、圧倒されるのが、皇国の鬼級幻魔たちであり、牽制としても機能した。
「時間を止められたんだ」
「時間を――」
「――止められた?」
アザゼルやアスモデウスの反応を聞きながら、マモンの脳裏に浮かぶのは、少し前のこと。静止した時空を猛然と飛翔する存在であり、それが、ウルティマリアの爆撃を受け、アザゼルのわずかに弛んだ腕の中から幸多の体を取り出し、抱き抱えて去って行く光景だった。
あの瞬間、辺り一帯、いや、この世界、この宇宙全域の時間と空間が支配、掌握され、完全に停止していたことは疑いようがない。
そして、その静止した時空に干渉することができるのは、魔法の使い手だけであるだろうし、その魔法士がなにものなのか、知らないマモンではなかった。
「そう……伊佐那美由理だ」
戦団が誇る最高峰の魔法士、星将のひとりにして、五星杖とも呼ばれる最強格の導士。氷の女帝の二つ名の通り、氷属性を得意とする。
そして、星将である以上、星象現界の使い手であり、その星象現界の能力こそが、
「伊佐那美由理が時間を止めて、幸多をかっ攫ったんだ」
幸多は、突如、意識を包み込んだ違和感にはっとなった。なにかがおかしいということはわかるのだが、それがなんなのか瞬時には理解できない。
が、すぐに事態を把握する。
幸多を腕に抱えていたアザゼルも、アザゼルと対峙するウルティマリアも、アザゼルと共闘していたベルゼブブも、全員が動きを止めていたからだ。
その三体だけではない。
その場にいるすべての鬼級幻魔が、いや、すべての幻魔が動かなくなっていた。
まるで凍り付いたかのように。
「違う」
幸多は、即座に認識を改める。この状況下で自分が動けることの異様さは、己が肉体の特異性に感謝するべき状況でもあった。
凍りついているのは、幻魔ではない。
「この宇宙の時間そのもの」
それはつまり、なにを意味しているのかといえば、だ。
「幸多! 無事か!」
凍りついた時空の中を貫いてきたのは、美由理の叫び声であり、その声音に込められた想いの強さには、感動すら覚えるほどだった。美由理がどれほど幸多のことを心配してくれたのか、その一声でわかろうというものだろう。
魂を震わすほどの波動。
「はっ、はい! 無事です! 生きてます! 師匠!」
幸多が声を上げて反応すれば、瞬く間に美由理が目の前までやってきた。そして、アザゼルの腕の中から幸多を引っ張り出すと、そのまま幸多を抱き抱えてその場から飛び離れた。惜しむこともなく幻魔の群れの中から離脱、急上昇する。
美由理の星象現界・月黄泉による時間静止は、空間展開型星象現界にあるまじき影響範囲を誇る。空間展開型星象現界の大半が、星域とも呼ばれる一定の範囲内にのみ効果を及ぼすのだが、月黄泉は、その能力を発動した瞬間、世界全土、宇宙全域にまで影響を与えるのだという。
でなければ、時間が静止した領域の内外での誤差や齟齬が生じるはずである。
当初は、一定範囲内にのみ影響する空間展開型星象現界と思われていたそうだが、数々の実験を経て、そうではないことが判明したらしい。
そして、月黄泉が人間のみならず、鬼級幻魔にも通用するどころか、竜級幻魔の時間さえも支配する力を持っていることがわかれば、美由理が対鬼級幻魔戦術の柱となるのも当然の結果だっただろう。
とはいえ、時間静止中にできることなどたかが知れている上、あれだけの数の鬼級幻魔の中で、美由理ひとりになにができるはずもないため、即座に戦域を離脱するという彼女の判断は、正しいとしかいうほかあるまい。
「良かった……! 本当に……良かった……!」
美由理は、腕の中の幸多の無事を何度も確認し、その目を見た。褐色の瞳には、美由理に対する全幅の信頼が浮かんでいるようだったが、彼女にしてみれば、そんなものはどうでもよかった。
幸多が無事ならば、それだけで十分だ。
「師匠……!」
幸多の目には、美由理の姿は英雄そのものだった。星将にして大魔法士、直属の軍団長であり、尊敬する師匠。だが、それ以上に美由理が窮地から救い出してくれたという事実が、この上なく大きい。
「いわなかったか? なにがあってもきみを助けると」
美由理は、幸多をもう一度強く抱き締めると、その命の無事を全身で確認した。
幸多は、そんな師の反応がなんだか気恥ずかしかったが、しかし、同時に嬉しくもあった。
これほど弟子想いの師匠は、ほかにはいないのではないか。




