第千四百二十話 彼方より来たる(七)
虚空に穿たれた大きな穴から浮上してきた悪魔は、頭上を仰ぎ見た。視線の先にはアザゼルが浮かんでいて、その腕の中に幸多の姿がある。
闘衣だけの幸多。
星将・天空地明日良に背負われ、宇宙空間でなんらかの作業をしていたらしい彼が、この汚濁の如き幻魔の大軍勢に巻き込まれ、地球へと舞い戻ってきたのはどのような因果か。
宇宙で長時間活動することのできない完全無能者である幸多にとっては、別段、悪くはない事態だ。
少なくとも、ベルゼブブたちが追い着くことができたのであれば、どうとでもなろう。
もっとも。
(気に入らねえが)
内心、ベルゼブブは吐き捨てるほかない。
この状況では、彼の望みが叶うことはないからだ。
「長ったらしい名前に、聞いたこともない称号、国名。そして、ソウヨウ銀河だっけ? きみたちは、遙か宇宙の彼方からの来訪者というわけだけど、目的はなんなのかな? 本当にさっきいったことだけだったりする?」
鬼級幻魔たちに問うたのは、アザゼル。腕に抱えたままの幸多がどうにか抗おうとする様を視界に収めつつも、なんとも感じていない。
彼の言葉通りだ。
別宇宙、別銀河の鬼級幻魔たちに囚われていた状況から、悪魔に拘束される状況へと移り変わったところで、幸多にとって絶体絶命の窮地であることに違いはない。
幸多にとっては、だが。
アザゼルは、鬼級たちをこそ、注視する。
騎士然とした鬼級、古の魔道士の如き鬼級、白衣の研究者らしき鬼級、そして、白金に輝く小さな太陽のような鬼級――。
ベルゼブブの空間攻撃を受けてもなお、それは、死んでいなかった。
頭上の、幻魔の大軍勢の中から膨大な光を発しながら降臨し、アザゼルを地上の鬼級たちとで挟み込むようにする。
イスラリエル・レイグナス=ヴァシュタラ。
そう名乗った鬼級幻魔たちの支配者にして、聖皇なるもの。
それは神々しい光を放ちながら、アザゼルとベルゼブブを見ていた。少女めいた容貌には、幼さすらも感じられる。
もっとも、実年齢においてはアザゼルたちより若いことなどあるとは考えにくく、そのように見えるだけの可能性が高い。
ベルゼブブはともかく、悪魔たちの大半は、この世に存在する大半の鬼級より若く、幼い。
「随分と御挨拶ですね、地球の幻魔は。わたしの自己紹介を聞き届ける余裕すらないのですか?」
「これだけのことをしておいて、よくいうよ」
不愉快げな言葉とともにイスラリエルに殺到したのは、機械仕掛けの無数の触手。だが、それらが聖皇に到達することはなかった。無数の斬撃が、触手をずたずたに切り裂き、ばらばらにしてしまったからだ。
オルディンなる幻魔の騎士が、いつの間にか絢爛たる白銀の剣を手にしており、その一振りによって機械の触手を切り刻んだのだ。
「陛下に触れようなど無礼千万。その身に刻んだ傷の数だけ、恥を知れ」
オルディンが睨んだのは、触手の根源。
ヴァシュタリア皇国軍の兵隊たちによって作り上げられた銀河行路と、その直撃によって生じた大穴から少し離れた場所に立つ、鬼級幻魔。少年染みた緑色の鬼級は、背後から無数の触手を伸ばしていたが、それらが無様にも切り刻まれたからか、オルディンを凝視していた。
〈強欲〉のマモン。
「礼儀もなっていないのは、そちらではありませんこと? ここは地球。地球生まれ地球育ちのわたくしたちにとっての母なる星。あなたがたは、異なる星、異なる宇宙で生まれ育ったか、あるいは、この星から逃げ出した幻魔」
マモンの背後に突如として現れたのは、〈色欲〉のアスモデウス。妖艶なる美貌の悪魔は、マモンな反応を受けてなのか、オルディンを見据えていた。
「地球への帰還を望むのであれば、まず、この地球の絶対者にお伺いを立てべきでは?」
「絶対者だと?」
怪訝な声を上げたのは、カリアフ。鬼級幻魔が四体も現れただけでなく、それらが徒党を組んでいることは明らかだった。皇国の鬼級たちが警戒を強めるのも当然であり、戦闘態勢に入るのも道理。
カリアフの周囲に破壊的な律像が浮かび上がっている。
「うむ。我らが〈七悪〉の首領こそが、この地球唯一絶対の存在なり」
深淵の闇の如き声とともに、まったく別の場所から現れたのは、〈傲慢〉のアーリマン。この鬼級幻魔の集団の中でもっとも人間から離れた外見をしているともいえる。全身を暗黒の闇を凝縮することで形成しているような姿形は、やはり、とてもではないが人間とは似ても似つかない。
しかし、人間に酷似した部分があるのも事実だ。五体を持ち、頭部、手足の作りも人間と変わらない。もっとも、闇そのもののような人間がいれば、だが。
「暗黒の太陽」
「混沌王」
「滅びの主」
「地獄の主宰者」
「怒れる竜」
〈七悪〉の五名が口々に発したのが、彼らの首領たるものの異称だということは、幸多にも理解できた。もちろん、だからどうということはない。幸多は、アザゼルの腕の中から脱出する隙を窺い、そのために蒼煌練気を全身に巡らせている。
悪魔には、源理の力が通用する。
アザゼルに痛撃を与えた記憶が脳裏を過った。
だからこそ、アザゼルも幸多を警戒しているようであり、幸多がわずかでも動けば、その瞬間、なにかしら対応すること間違いなかった。だからこそ、幸多は一瞬の隙を探すのだが。
「――まあ、なんだ」
聞き知った声は、頭上から降ってきた。
振り仰げば、幻魔の断末魔がつぎつぎと聞こえてきており、幻魔の大群の中を突っ切るようにして、それが降りてきているのがわかった。
それまで降り止んでいた幻魔の雨が、再開する。
ただし、降り注ぐのは、幻魔の死骸だ。幻魔の死が、雨の如く降り注ぎ、地を埋めていく。
「そういう尊称だか異称だかを言いふらすのは、あまり格好良くはないよね」
「なにを仰る」
アザゼルが恭しく、だが、どうにも軽薄すぎる反応で頭上を仰ぐ。
黒い光だ。
膨大にして破滅的な黒い光が、幻魔の死の雨を降らせながら、君臨する。
「それもこれもあなた様がため。この地上の、いえ、この天地の絶対者たるあなた様ならばこそ、必要な儀式でしょう」
「儀式」
それは、降りしきる死の雨の狭間に赤く黒い瞳を煌めかせた。背後に黒い日輪が輝き、輪郭が逆光の中に浮かぶ。
どういうわけか、相も変わらず幸多と同じ容貌をした、〈七悪〉の首領。
〈憤怒〉のサタン。
「儀式……ねえ」
サタンは、眼下の幻魔たちの様子を見て、そしてアザゼルが確保した幸多へと視線を移す。その中間にイスラリエルなどと名乗った異星の鬼級がいるが、どうでもいい。
「どう思う? 皆代幸多」
「どう……って」
「儀式についてだよ」
サタンは、あっという間に降りてきて、幸多の目の前までやってきた。イスラリエルやオルディンたちが反応する暇もない。
「外宇宙からの来訪者たる彼らもまた、儀式として、こんなものを作り上げたんだと思う」
「儀式……」
幸多は、サタンに促されるまま、再び頭上に視線を向けた。幻魔の死骸が雨のように降り注いでいた現象は、止まった。サタンが幻魔たちを殺さなくなったからであり、それによってイスラリエルが幻魔の雨を止めている状態へと戻ったからだ。
宇宙の果てから地球圏へと至り、大気圏を突き破って大地に突き刺さる幻魔の大群。それはさながら黒い塔であり、天地を貫く柱だ。
「そう、儀式」
サタンは、幸多の褐色の目を見据え、告げる。瞳の奥に青白い燐光が燃え盛り、情報子が加速していることがわかる。幸多の体内を膨大な情報が巡っている。
それがなにを意味するのかわからないサタンではない。
「有史以来、人類は数え切れないくらい、そして様々な儀式を行ってきた。天災、病害、飢饉、戦争――あらゆる事態、事物、事象に儀式が関わっていたといっていい。ひとびとは儀式に縋り、儀式を求め、儀式を執り行ってきた。それら儀式がなんの効力を発揮しなくとも、ね」
「おまえの異名も、なんの意味もないってことか?」
「……まあ、そうだね」
サタンは、幸多の辛辣な反応に苦笑を隠さなかった。自分の命の危機をだれよりも実感しているはずのこの状況下でも、牙を剥かざるを得ないのが、幸多なのだ。
サタンは、幸多にとって最大の敵だ。
まさに敵対者そのもの。
「この儀式は、無駄ではなかったけれど」
サタンは、頭上から宇宙の果てまで続く幻魔の通り道を見遣り、告げた。数十億では足りない数の幻魔が積み重なってできたそれは、イスラリエルたちを無事に地球に送り届けるためだけの儀式であり――つまるところ、魔法だ。
ある種の合性魔法といってもいい。




