第千四百十三話 宇宙に響く
拍手が、響く。
地球から見れば月の裏側に位置する領域に、小さな、しかし確かな存在感を持った拍手が、たった一体の悪魔によって鳴らされている。
ほかに追随するものはいない。
だれもが事の成り行きを見守っていたというのに、だ。
否定されるでも拒絶される出もなく、ただ、黙殺される。
「あれ? なんだかノリが悪いねえ、きみたち。せっかく素晴らしい結末を迎えたというのに、あまりにも淡泊過ぎないかな」
「素晴らしい結末?」
「そうだよ、そうだとも」
アザゼルは、長椅子にふんぞり返ったままのベルゼブブが背後に顔を向けてくる様を見て、胸を張った。拍手を奏でながら。
「これ以上のハッピーエンドはないじゃないか」
「ハッピーエンド……ねえ」
「ひとつの物語、ひとつの映画として見れば、これ以上のエンディングはないよ。いまごろ感動的な音楽とともに冗長にもほどがあるスタッフロールが流れていてもおかしくはない。そしてそこに脇役として名を連ねるのがきみたちであり、おれというわけだ」
「だとすれば、随分と陳腐でくだらなく、完成度の低い映画じゃないかしら?」
「まあ……映画の評価について議論を戦わせるのは趣味じゃないからね。結局は、個人の感性によるところが大きいんだし。だってそうだろう。どんな名作だって、駄作と評価するものはいて、愚作とされる映画に感動するものもいる。いま、この瞬間、だれひとりとして感動していない中、拍手を捧げるものがいるように」
「あなたの心が動かされることがあるだなんて、信じられないけれど」
「酷い言い様だね、まったく。天使が無慈悲ならば、悪魔は情け深くなければならないはずだろうに。おれほど悪魔らしく、感情過多なものもいないと想うんだけど」
「そうかな」
マモンは、アスモデウスの膝の上で小首を傾げた。
〈七悪〉を名乗る悪魔の集団は、この月面の特等席で、二体の竜の戦いの行く末を見守っていたのだが、その間、マモンはアスモデウスに抱き抱えられるようにしてその膝の上に場所を移していたのだ。
アスモデウスの母性が爆発した結果だが、そんなことは、ベルゼブブにも、アザゼルにも、アーリマンにとっても、どうでもいいことだ。
だから、だれも気にしないし、指摘しない。反応もしない。
それもまた、悪魔らしい感情の発露に過ぎない。
「なんだい、マモンくん。きみはおれが嘘を吐いているとでも?」
「汝の言葉に重みが足りぬ、と、そういっているのだ」
「そりゃあまあ、重力を司るアーリマンの言葉の重みには敵うなどとは思ってもいませんが」
アーリマンに一瞥されたアザゼルは、悪びれることもなく、いつものような軽薄さで空疎な言葉を返すだけだ。
アザゼルの言葉は、響かない。
特に、悪魔たちには。
「……しかし、まあ、最悪の事態は回避できた、ということでいいんだよな?」
「うん。そうだね」
この月面にあっても、戦いの最中であっても、すべてが終わった後でも、相も変わらず暴飲暴食を止めようともしないベルゼブブを横目に、マモンが頷く。マモンにとっては、ベルゼブブの咀嚼音が心地良いらしい。
そんなマモンとベルゼブブの仲の良さが気に食わないのか、アスモデウスは頭上を仰ぎ見ていた。
サタンは、配下の悪魔たちとは離れた上空にあって、遥か彼方の戦場を睨んでいる。
「最悪の事態、ね」
人間の姿をした竜であった神木神威と、地球上で二番目に新しい竜であるブルードラゴン。二体の竜級の激突が地球上ではなく、宇宙空間で繰り広げられたのは、竜の本能によるものだろうと推測される。
竜は、地球の守護神である。
少なくとも、幻魔の暴走によって変わり果て、滅びの一途を辿っていた地球をどうにかして維持し、再生させているのは、竜たちの力があればこそなのだ。
幻魔大帝エベルによる魔天創世は、地球の魔素生産量を何倍、何十倍にも増幅させた。それは即ち、地球の寿命を限りなく縮めたということであり、ドラゴンたちがその愚行に気づき、行動を起こさなければ、どうなっていたことか。
魔天創世とは、魔法であり、一種の星象現界といっていい。
地球規模に展開され、地球の核に打ち込まれた究極魔法。
エベルの死によって暴走状態に陥っていた魔天創世は、ドラゴンたちによって沈静化させられなければ、地球の魔素生産量を際限なく増幅させ続けただろうと考えられる。
そうなれば地球全土が並の幻魔すら耐えられないほどの魔素濃度となるだけでなく、果てには、地球の魔素が放出され尽くし、滅びを迎える羽目になったのではないか。
無論、エベルが魔天創世を制御できていたのであれば、話は別だ。エベルとて、魔天創世の発動によって己が命を削りきるつもりなどなかったはずだ。だが、あまりにも強力すぎる魔法は、エベルの想定を遥かに超え、魔力のみならず命までも消耗し尽くしてしまったのだ。
結果、魔天創世だけが世界に残り、暴走を続けた。
そして作り替えられた世界は、幻魔にとって楽園のような環境となり、魔界と呼ぶに相応しい場所となったのだが、ドラゴンたちがいなければどうなっていたことか。
また、ドラゴンたちが創造し、地球を埋め尽くした結晶樹は、酸素を満たすだけでなく、地球に満ちた魔素を効率よく循環させる代物でもあるのだ。
竜級幻魔たちがなぜ、そこまで地球を思い遣り、地球を維持し、地球を守護しようとしているのかは、わからない。
かつて、魔法時代黄金期において、宇宙へと進出した人類たちや、その後を追うようにして宇宙へと飛び立っていた大量の幻魔たちのように、地球に生まれ育ったからと言って、必ずしも地球に拘る必要などあろうはずもない。
ましてや、竜級幻魔ほどの頭脳や知性、魔素質量を持ち合わせていれば、星のひとつやふたつ、消し飛ばしたところで問題にもなるまい。
それこそ、竜は、銀河になりうるのだから。
「ブルードラゴンは斃れ、神木神威も竜の力を失った。僥倖である」
とは、アーリマン。
二体の竜の決戦における最悪の事態とは、どちらかの勝者が竜の力を内包し続けることであり、地球における絶対者として君臨することだ。
それがブルードラゴンならばまだしも、神木神威ならば、目も当てられない。
「すべては順調……だなんていっていられない状況だけれども、最悪の事態だけは回避できたのは、まあ、僥倖といえば、僥倖かな」
「あなた、一言どころか二言三言も言葉が多いわよ」
「口数の多さだけが取り柄なんでね」
「そういうところが気に入られない部分なんじゃないかしら」
「ええ? おれ、気に入られていないの?」
「だれがおまえなんざ気に入るんだっての」
「うんうん」
「うむ」
「ひどい」
サタンを除く四体の悪魔たちからの辛辣な反応を受けて、アザゼルは、しかし軽く肩を竦めるだけだった。言葉こそ大仰だが、内心には一切響いていないことは、だれの目にも明らかだ。
空疎にして軽薄、実体を捉えることもできないのが、アザゼルという悪魔なのだ。
アザゼルは、ひとしきり落ち込んだ素振りをしたあと、サタンを仰ぎ見た。
竜の戦いが終わってからもずっと、サタンは、その宙域を凝視し続けている。
「相変わらず、サタン様は使命に熱心だねえ」
「やることなすこと雑なのはあなたくらいのものよ」
「ううん、強烈」
アザゼルの雑な反応を見て、アスモデウスは頭を振った。そして、諦めたようにマモンを抱き締め、頬ずりをする。我が子を溺愛する母のように。
そんなアスモデウスとマモンの関係性は、ベルゼブブにはわからないし、わかろうとも想わない。彼が気にするのは、サタンである。
サタンの腹心を自認する彼にしてみれば、サタンの視線の先になにがあるのかと想像を巡らせることのほうが重要だ。
長椅子から飛び立ち、サタンに近寄れば、彼はこちらを見た。
「ベルゼブブ」
「うん?」
「少し、厄介なことになった」
「は?」
「見なよ」
皆代幸多と同じ姿をした悪魔の王は、遥か彼方を指し示した。それは、先程まで二体の竜が宇宙の寿命を縮めるほどの死闘を繰り広げた宙域だったが、しかしどうやらサタンが見ているのは、そこではない。
その宙域よりも遥か彼方、数多の星々煌めく宇宙の果て。
「ありゃあ……なんだ?」
「なんだと想う?」
サタンは、ベルゼブブが怪訝な顔をする隣で、それらをはっきりと視認していた。
宇宙の闇よりもどす黒く、禍々しく、破壊的な力の奔流。
「幻魔……?」
「幻魔の宇宙移民だよ」
「宇宙移民っておい」
「人類の後を追い掛けて宇宙に飛び出した幻魔はごまんといたそうじゃないか。きみは、それを見ている」
「おうよ。なんといっても、魔天創世の前後だったからな」
ベルゼブブは、少しばかり得意げな顔をして、すぐに真顔になった。
幻魔が宇宙への進出を果たしたのは、人類の宇宙進出から遥かに後の時代である。
地球の覇権を巡る幻魔戦国時代。
地球全土に幻魔が満ち溢れ、どこもかしこも鬼級幻魔の〈殻〉がその領土を主張しているとなれば、宇宙に活路を見出すものが現れるのも無理からぬことだったはずだ。
宇宙は、広大無辺。
何十年もの昔に人類が進出し、栄華を極めたというのであれば、幻魔に真似のできない理屈はない。
そして、意気揚々と宇宙へと進出した幻魔たちが、いまどうなっているのかなど、知る由もなかったのだが。
「でも、なんでまた……?」
「きっと、竜の断末魔が、宇宙の果てまで響き渡ったんだ」
サタンの目には、数億は下らないであろう大量の幻魔が、爆発的な勢いでこちらに向かってくる光景を捉えていた。




