第千四百十一話 竜と人
なぜ、どうして、なんのために。
疑問はいくらでも浮かんだ。
答えを探すための時間も、いくらでもあった。
この五十余年。
永遠に等しい命を持つ存在としてはあまりにも短すぎる時間だが、生まれ立ての生き物にとっては、それでも十分に長いときを過ごしたといっていい。
神木神威を生かすため、己が心臓を、魔晶核を、命を捧げた。
それ自体、通常、ありえないことだ。あるべきではない、あってはならないこと。道理に反し、摂理に抗う選択。だが、あのとき、あの瞬間、そうする以外に道はなかった。
無意識の反応。
反射。
竜の中のなにかが、そうさせた。
人間と幻魔に連続性はない。
それは確かだ。間違いない。
ブルードラゴンと名付けられた存在の意識は、その発生の源となった人間、旭桜のそれとはまったくの別物だった。
旭桜の意識は、彼女の死によって消滅した。死の瞬間、その感情の昂ぶりによって爆発的に増幅した魔素が純然たる魔力となって結晶化し、幻魔の命となったが、同時に意識は拡散し消えて失せた。
そして、竜の意識が覚醒し、彼らを見た。
バビロン戦役を生き残った地上奪還部隊の魔法士たち。神木神威を始めとする戦団の現長老たちの若き時代。戦士として研ぎ澄まされていたころ。
彼らの絶望を感じ取り、それがなぜなのかも瞬時に理解できた。
竜の知能は、人間を遥かに超える。
鬼級幻魔ですら、人間を凌駕する知性を持ち、頭脳を誇る。
いわんや、竜級幻魔ならば、なおさらだ。
生まれ落ちた瞬間、己がすべてを理解し、認識し、把握した竜は、その場を去ろうとしたのだ。
彼らを殺すことに意味はない。
人間など、竜の気に触れるだけで滅び去るような脆弱な生き物だ。そんなものたちをわざわざ殺すことになんの意味があるというのか。
無駄で、無意味。
ましてや、この地球という星の生態系の頂点に君臨する、万物の霊長たる竜級幻魔である。
他の竜たちと同じく、戦いとは無縁の領域にあって、ただ眠っていればいい。
でなければ、この星が壊れかねない。
それは、この星に生まれ落ちたものとして許容できない結末だ。
それ故、竜たちは眠る。
眠り、夢を見る。
夢――。
《――これが、夢だったのかもしれない》
「……なんだと?」
神威は、不意に脳内に飛び込んできた蒼竜の言葉の意味が理解できず、怪訝な顔をした。蒼竜の心臓を、魔晶核を握り潰したことによって、両者の命は、潰えた。
即死こそしなかったが、もはや、命数は尽き果て、あとは消滅を待つのみだ。
死体はおろか、意識の欠片すら残らないのではないかという想像が、神威の中にあった。
神威のこの肉体は、常人のそれではない。蒼竜によって、蒼竜の魔晶核によって再構成されたものだ。魔晶体といっていい。それなのに、医務局の診断では、人間の肉体そのものとして判定されていたし、心臓も、他の臓器の数々も確認されていた。
恐らくだが、竜眼の力によってそのように誤認させていたのだろう。
竜の力を以てすれば、最新の医療設備さえも欺くことすら容易いに違いなかった。
でなければ、説明がつかない。
そして、理外の存在にして、摂理の化身たる竜ならば、それくらいのことはできて当然のように思えた。
蒼竜の肉体は、既に崩壊を始めていた。桜の花弁を竜鱗の如く全身に纏い、背中から桜そのもののような翼を生やしたその姿は、まさに桜の大樹の化身だ。桜の精霊とでもいうべきか。その姿が徐々に失われているのだ。
その長き尾の先端から足の爪先、手の指先から、少しずつ、しかし確実に、分解されている。
神威も同じだ。
竜眼を握り潰した右手、その指先から分解が始まっている。
分解。
そう、分解だ。
この肉体を構築し、維持していたのが竜眼なのだから、竜眼を完全に破壊すれば最後、肉体のすべてを完全に失うのは当然の結果だった。
「夢……夢だと……?」
《そう、夢。わたしは、夢を見ていたのかもしれない。だって、そうでしょう? この五十余年、あなたのことだけを考えていたわ。竜らしくもなく、幻魔らしくもなく、ただひとりの人間のことだけを》
「……そうか」
蒼竜の顔を見れば、その表情に桜の面影を見出してしまうから、神威は、その全身像を眺めるに留めるほかなかった。そのまなざしのひとつとっても、桜を連想させる。
いまや、蒼竜への怒りは形を潜めてしまったが、だからこそ、より慎重にならざるを得ない。
同情しては、いけない。
だが。
「おれも同じだよ、ドラゴン」
神威は、崩れゆく己が肉体が幻魔のそれと同じだったということを再認識する。
「おれも、おまえをどうやって斃すのか、滅ぼす方法はあるのか、そればかりを考えていた。それがおれのすべてだと、最後の使命だと想っていたからな」
《そう……それなら、良かったわね。あなたは、わたしを滅ぼすことができた。わたしの心臓を握り潰して、すべてを終わらせることができたのよ。この五十余年に渡る因縁に決着をつけるというあなたの願いは、いま、叶っている》
「ああ……そうだな」
その結果、自分が死ぬことは計算外でもなんでもない。
一蓮托生といったのは、神威だ。
それは、竜眼から莫大な力が供給されているからこそ出た言葉であり、蒼竜を斃せば、その力が途絶え、それによって命を落とすに違いないと考えた結果だった。
地球のどこかで戦った果ての決着ならばまだしも、遠く離れた宇宙空間で戦い抜いた結果ならば、救助を待つことなどできるわけもない。
いや、それ以前に、竜眼の力に頼り過ぎた反動が神威の命を消耗し尽くすのではないか、とも、考えたのだ。
もっとも、結果はどうか。
「おまえがおれを生かした結果がこれだ。満足か? おまえが望んだ結末がこれなのか? おまえは、なにがしたかったんだ? どうして、おれを――」
《愚かで憐れな人間に命を与えてあげただけよ。わたしは竜。幻魔の神にして、万物の頂点に君臨するもの。地を這う人間たちに気まぐれに手を差し伸べたのだとして、不思議かしら?》
「気まぐれの結果、滅び去るのだとしても、か」
《ええ、構わないわ。すべてが泡沫の如き夢ならば、桜の花弁とともに舞い散るもまた、悪くはないでしょう》
蒼竜は、己が全身から舞い散る無数の花弁が宇宙を彩る光景をその目に焼き付けていた。星象現界・桜花繚乱を星装と一体化させたことによる変化は、蒼竜の力を最大限に引き出すこととなったのだが、その力を振るうまでもなく、決着へと至った。
なれば、舞い散る桜を眺めるのも、一興。
無数の桜の花弁、その一枚一枚が、周囲一帯を埋め尽くし、そして、消えていく。
圧倒的な力の拡散、それによって生じる奔流の中で、蒼竜は、神威に目を向けた。
《でも……あなたは生きなきゃ》
「……なにを、言っているんだ?」
神威は、蒼竜のその言葉の意図がまるで理解できなかった。
蒼竜の魔晶核と同期していたことによって、神威の頭脳は、この戦いの最中、通常よりも何倍、何十倍にも肥大し、加速していたといっていい。その思考は、竜のそれに近づき、視座もまた、竜の高みにあった。
己が命の価値を冷徹なまでに判断することができたのも、そのためだ。
だが、魔晶核を破壊し、人間の思考へと戻ったことによって、蒼竜の考えがわからなくなってしまった。
《遺言よ》
蒼竜は、微笑する。
《あなたは、あなたの人生を生きなさい》
神威は、その言葉を聞いた瞬間、はっとした。ブルードラゴンの魔晶体がその胸の中心から絶大な光を発したかと想うと、超新星爆発の如き力の発散が起きた。
光と魔素の洪水が、すべてを飲み込んでいく。
神威の意識も、なにもかも。




