新たな春
初めて春燕が清深に拾われてから、いくつかの春が巡った。
寝台にごろりと横になっていた春燕は小さく欠伸をした。横たわったまま傍らの清深を見上げる。寝台に座ったまま書類を眺める清深は、春燕の視線に気づいているだろうに書類をめくる手を止めることはない。
暇を持て余している春燕は、のそりと清深の膝の上に移動する。その固い膝に頬を押し付けるように横たわった。春燕に直接構うことをしなくても、こうすれば清深は頭を撫でてくれる。彼と長く接する上で、わかってきたことだった。
予想どおり春燕の頭を撫でてくる手に満足して、そっと瞼を閉じる。
栄養不足だった体は数年で年齢相応の体つきになり、手足も伸びた。腰まで伸びた髪は春燕もお気に入りである。
髪がというよりは、風呂上りに清深に髪を梳いてもらうのが最近は特にお気に入りだ。毎度香油を丁寧に塗り込んで梳いてくれるからか、今では、宮中でも評判になるほどの美しい髪になっていた。
「主上、そろそろお時間でございます。」
廊下から江藍の声がした。仕方なしに清深の膝から身を起こし、そのまま寝台へごろりと転がった。
今日は江藍も朝から忙しいようで、朝食の時にもいなかった。いつもなら朝議の時間は勉強を見てくれるが、この調子であれば難しいだろう。
つまり、この時間は一人きりになる。そのことにわずかに顔をしかめた瞬間、春燕は清深に抱えあげられていた。ぱちくりと一つ瞬いた後、自然と口元が緩んだ。どうやら、今日は春燕も朝議について行っていいらしい。
むぎゅっと清深の頭を抱えるように抱きしめる。優しく背を撫でる手に、ふふっと笑みがこぼれた。
清深に抱えられたまま、大殿へ続く廊下を眺める。すれ違う女官たちは、目が合う前に礼をとり頭を下げた。清深の頭に顎を乗せて、流れるように過ぎていく景色と化したそれらを見送った。
春燕を膝に乗せたまま、清深は宝座にかけた。最近は宝座の隣に対となる椅子が設置されたにもかかわらず。春燕は隣に空いた空席をしばらく眺めた後、清深を見下ろす。
春燕の視線を受け顔を上げた男は、しれっと「何か問題でも」とでも言いたげな顔をしていた。ふむ、と一瞬考えたあと「まあいいか」と体を清深の体に預ける。それを見ていた尚書たちは、少し切なげな表情で二人を見ていた。
礼部の尚書である允仁は、ただ一人おずおずと宝座の二人の前に進み出た。尚書の中でも唯一の女性である彼女は、哀れなほど顔に冷や汗をかきながらも綺麗に礼をとる。
「せ、僭越ながら主上…春燕様にはそちらの御座をご用意しております。朝議の格式を保つため、何卒っ…」
小さな勇気を振り絞り意見を述べていた礼部尚書を、他の尚書たちも固唾を飲んで見守っていた。けれど、彼女は途中で竜帝から漂う冷たい空気にひゅっと息をのんだ。清深の表情ははた目からすれば変わらない。けれど、彼が不機嫌になったのが春燕には手に取るように感じられた。春燕は彼の表情をのぞき込みながらも、少しずつゆっくり、袖で覆われた片手を口元へもっていった。春燕自身も、表情自体はしれっとしたまま変わらない。
「…っ!何卒、お、お席を移られますように、お願い申し上げます…!ご身分にあった席を、用意しておりますため!」
勢いに任せて最後まで言い切った允仁に、周りの者は内心で拍手喝采を送っていた。ぎゅっと清深の眉間にしわが寄る。それと同時にさらに雰囲気が重くなり、礼をとっていた允仁は蒼白な顔で指先を震わせる。それでも、礼をとり続けているのは根性の賜物だろう。
「ふっ…。ふふ。くふふっ!」
大殿内の緊張感が最高潮に達した時、場に似つかわしくない鈴のような小さな笑い声がころりと転がった。肩を震わせる春燕を見て、清深はその柔らかい頬に手を添える。そして、目尻に滲んだ涙をそっと掬い取った。
先ほどまでの眉間のしわは見事に消え去り、ふわりと穏やかな笑みがその表情を彩っていた。
「楽しいか、春燕」
「ふふっ…すごく」
春燕はまだくすくすと笑いながら、そっと清深の角に口づけた。ご機嫌取りである。春燕にとっては他愛もない話題で、顔を蒼白にしている礼部尚書を横目に見やる。彼女は、顔を青くしたり赤くしたりと忙しそうにしていた。くすくす、と袖を口元で隠しながら春燕は艶やかに眦を下げた。
「清深、今日は私そっちに座る」
春燕の言葉に清深は顔をしかめ、允仁はぱっと顔を明るくした。その対比にまたくすりと笑いながらも、そっと春燕は暖かな膝からよいしょと降りた。いまだ腰に添えられている清深の手を、そっと撫でながら尚書の方に顔を向ける。
「私のために用意してくれて、ありがとう」
「も、勿体無いお言葉にございます…!」
春燕が席に座ると、清深は諦めたようにしかしまだ名残惜し気にため息をつくと、本題に移れとばかりにひらりと手を振った。
尚書たちは所定の位置に戻りながらも、心の中で涙した。春燕が朝議に参加する日は竜帝の機嫌が一定保たれるのである。
そんなことはつゆ知らず、春燕は口元を袖で隠し次はどんなことになるのか、にやにやと官吏たちを眺めるのだった。




