交わらぬ線
ぴちゃ、ぴちゃ、とどこから漏れているかも分からない水漏れが、暗く狭い牢屋に響く。無造作に設置された松明の火だけが、ゆらゆらと不安定に揺れていた。
そこに男が一人、収監されている。落窪んだ目に肋の浮いた身体。ひょろりと長い手足が、小さめの服から伸びている。哀れにも見える姿だが、少し近づいてみれば異様なほどギラギラと陰鬱に光る瞳に気づくだろう。投獄された男は春燕の父親、その人であった。
男は鉄格子に縋り付きながら、近くにいた衛兵に声をかけた。
「なあ、いつまでここにいりゃいいんだ。とっとと返してくれよ」
衛兵は視線を合わせず、男の言葉を無視した。男は舌打ちすると、またどさりと投げやりに座り込む。
その時、二人の官吏が静かに男の前にやってきた。刑部所属の二人は、男の聞き取りのため平坦な声音で声をかけた。
「お前には、娘を過度に使役してその稼ぎを取り上げ、十分な食事を与えず、度重なる傷を放置した疑いがある」
官吏が告げると、男は唾を飛ばす勢いで叫び返した。威嚇でもするかのように立ち上がり、真正面から官吏をにらみつける。
「はあ?んだよそりゃ。知らねえよ!」
否定する男に、淡々と官吏は続けた。「ならば、お前の子どもが異様にやせ細っていたのはなぜだ」と。男は食わず嫌いだった、とそっけなく答える。まるで自分の方が迷惑させられているとばかりに。
顔色を変えずに「手足に大小の傷が手当されずに放置していたのは」と官吏が問えば「傷があるのは当たり前だろ。ガキなんて」とめんどくさそうに答えた。その姿に反省の色は見えず、そればかりか父親として捕まるようなことなどしていないと本気で思っているような態度であった。実際、親が子どもに体罰を与えるのは珍しくない。世論一般としても、そのことだけでは罪に問えないのも確かだった。
「俺は親として、あいつに寝床も仕事も用意してやってるんだ!あいつを連れてこい!下手こいて役所の世話になりやがって…」
男はぶつぶつと独り言ちる。春燕を引きずって連れ帰り、親に迷惑をかけた罰として、躾をしなければ。既に男の頭には、それしかなかった。
男の中では正当であり、まっとうな意見なのだろう。たとえ男の言う寝床が藁しかない崩れ落ちる寸前の馬小屋だろうと。仕事から帰ってくるたび、出来が悪いと殴りつけても。
官吏がさらに追及するため口を開く、しかし声が言葉になるより先にこつり、と静かな足音が反響した。
官吏の顔色が、足音が近づくにつれ土気色になっていく。官吏二人はすぐさま姿勢を正し、直立不動となる。先ほどまで声高に反論していた男でさえ、重苦しい威圧感にぐっと喉を詰まらせた。
「海燕帝国律――」
清深の口から漏れたのは、低く、信じられないほど冷ややかな声音だった。怒号ではない。淡々と紡がれる「法律」の条文。けれど、今まで清深が発したどの言葉より、鋭利であった。
「『帝国に生きる何人の財であれ、これを不当に奪い、私利のために搾取し、その身を損なう者はその身分に関わらず極刑、あるいは生涯の強制労働に処す』。家庭内の揉め事ではない。お前が食い潰したのは、一人の民が生み得た財と、その身そのものだ」
清深の言葉に、男はぽかんと口を開けたまま黙り込む。まるで理解できない、とその表情が告げていた。やがて、はくはくと金魚のように口を動かしながら「誰だおめえ」と呟く。それを聞いていた官吏たちはそろってぎゅっと目を閉じた。
あまりにも、世間を知らぬ男である。
清深は表情を変えぬまま、官吏たちへ視線を送った。その意図を察し、二人ははっと姿勢を正して礼を取る。男の処遇について、清深が確認すべきことはもうない。あとは刑部が罪状を精査し、相応の処罰を定め、報告を上げればよい。
この男は、もう己の娘に会うことも、どのように過ごすかも知ることはない。永遠に。




