政治、そして膝の上
海燕帝国にて六部を預かる尚書たちは、毎朝の朝議で数多抱える案件の報告を竜帝に上げる。
大殿に集まった彼らは視線を動かす。見上げるほどに高い天井を支える、何本もの巨大な朱塗りの柱。差し込む朝光さえも冷たく凍りつかせるような静寂が、広大な空間を支配している。その静謐な空気が、数段高い須弥座の上に据えられた、朱金の宝座を際立たせていた。あそこに竜帝が座った瞬間は、決して何度も味わいたい雰囲気ではない。
だからこそこの時間が一刻も早く始まり、そして一刻も早く終わることを常に彼らは願って止まない。
今日も今日とて、胃が痛くなりながらもその時間を待っていた彼らは、しかして見慣れぬものを見た。
いつもどおり尊大に座る竜帝の膝に、小さな少女がちょこりと座っているではないか。その場に集う尚書たちのうち、まだ年若い一人の男がぎょっと目を見開いた。少女の服に、大変見覚えがあったためである。冷や汗をかきながら、その男も周りに合わせて下を向いたのだった。
初めに報告を上げるところであった者は、咄嗟に上げた頭をまた伏せた。そして、現実から目をそらすように礼を取ったまま、報告を始めた。
「―地方の税収が著しく落ち込んでいる件につきまして、現在徴収を急がせております。併せて、地方官による横領や隠匿がないか調査を…」
「なぜ今動く」
報告していた戸部尚書が、びくりと肩を震わせた。
顔を見なくても、氷点下を思わせる声音で単純に質問している訳では無いことが察せられる。当該地域では、昨年の今頃に干ばつが起こっていた。清深はその折、備蓄の放出と被害状況の調査を命じていた。昨年の干ばつによって収穫量が落ちることなど、その時点で予測できたはずだ。当然、その後の徴税額が減少することも。
ならば、戸部は当然その頃から徴税額の調整に動くべきであった。減収を見越した予算を組み直すこともせず、いざ税収が足りなくなってから干ばつに喘ぐ現地へ強硬な取り立てに走るなど言語道断であろう。
清深は、それだけの意味をたった一言に込めていた。民を救うための備蓄米は、現地の復興があってこそ意味を成す。家財を売らねば払えぬような過酷な徴税を今さら行えば、民は土地を捨てて逃げ出すことくらい、少し考えればわかるはずだった。
長年朝廷に勤め、清深をよく知る官吏であれば、その一言に込められたすべてを察せずとも、自らの報告に穴があることくらいは理解できたであろう。問題はその尚書がつい先日、父親をはじめとする有力官吏の強い推薦によって、その座に就いたばかりの男だったことだ。加えて、どうにも頭の回転が鈍かったことも。
尚書は思わず顔を上げ、は?と声を上げた。両手で掲げていた象牙の笏が、動揺に小さく揺れる。
「いえ、今から徴収せねば不足分が…」
「もうよい。その座から疾く退け」
清深の冷徹な一言に、大殿の空気がびきりと凍りついた。尚書が衛兵に促され、よろめきながら退く。なんども縋るようにその目は竜帝を振り返るも、その視線に清深が興味を示すはずもない。尚書であった男の絹の官服が擦れる音すら、静寂の中で不気味なほど大きく響いた。
清深は深くため息をつき、尚書の後ろに控えていた副官である戸部侍郎へ視線を向けた。視線を受けた侍郎は、蒼白な顔になりつつも前に出る。
「ひ、被害状況の集計後、徴収額の再算定を怠りましたこと、申し開きもございません。直ちに減免を含めた調整案を提出いたします故」
侍郎が言い終わらぬうちに、清深は頷くと次とばかりに手をひらりと振った。
春燕はその様子を幾度か瞬きしつつ眺めていた。皆一様に蒼白な顔色で、びくびくと肩を震わせている。次いで春燕はこてりと首を傾げた。なぜ、この大人たちは清深を見て怖がっているのだろう、と。
なぜなら春燕からすれば、清深はいつもどおり話しているだけなのだから。
ほんの少し首を伸ばし、確かめるように清深を見た。やはり、いつもの清深である。
春燕はちょいちょい、と彼の頬を指先でつついた。それを見た官吏たちが、静かに戦慄していることも知らず。春燕は顔をくいっと上げる。清深を見上げるようにしながら「せいしん、とくってなあに」と先ほどの会話で気になったことを、小さな声で尋ねた。
官吏たちの胸中は、奇しくもひとつになった。
――そこなのか、と。
官吏たちの心を置いて、清深は春燕に視線を向けた。
「早く、という意味だな」
「なんではやくするの?」
「ここで話すには向かぬ人物だったからだ」
「ふーん?」と、わかっているのかいないのか。春燕は小さな頭を縦に振ると、また大人しく座り直す。小さな手を膝の上に乗せ、じっと正面を見つめた。春燕から見えるのは、深く頭を下げた大人の頭頂部のみである。
春燕の頭を大きな手で一度だけ撫で、清深は顔をまた官吏たちの方へ向けた。意図せずも僅かにあった瞳の温みは、綺麗に消え失せていた。
清深は爪先で、こつ、こつと肘掛けを叩く。硬い音が、天井の高い部屋に反響するように響く。小さな音のはずなのに、背筋が凍るような音だった。
朝議の続きを促すには、その音だけで十分だった。
やがて、朝議の時間が終わると皆一様にほっとした表情を浮かべ、部屋を出ていく。
春燕は彼らの表情にまたもや首を傾げた。なぜ、彼らはこの時間が終わった途端嬉しそうに顔を緩めるのか。
清深を下から仰ぎ見ながら、ぱちくりと目を瞬かせるのだった。




