小さな欲
翌朝、清深がいつもの時間に目を開ける。ふと横を見れば、寝台の真ん中で猫のように丸まって眠る春燕がいた。そっと起き上がり、少女が起きないように寝相を直す。体を丸めて寝るのでは、疲れもとれまい。
服を着替えると、そのまま執務机で書類を眺める。夜明け前、微かな鳥の声と静かな寝息、紙がかすれる音だけが室内を満たしていた。
春燕が目を覚ますと「起きたか」と少し離れた場所から声がした。声の方へ顔を向ければ、頬杖をつきながらこちらを見つめる清深がいた。片手に書類を持ったままだ。ゆっくりと起き上がり、寝台から降りる。ぽてぽてと清深の元に近づけば、ふわりと頭を撫でられる。
「しばらく待っていろ。すぐ終わる」
こくりと頷き、そのまま机の上を見るため背筋を伸ばす。書類までは見えなかったが、ふと黒い液体が入った瓶が視界の端でちらりと光った。
おもむろに手を伸ばす。うっかり、かちりと爪をひっかけた。瓶がコロンと音を立てて床に転がる。液体が飛び散り、絨毯や着ていた服を黒く染めた。その瞬間、すべての音がなくなったかのようだった。春燕の表情は真っ青になり、急いで清深の方に体を向ける。そのまま床に平伏しようとして――ひょい、と両脇を持ち上げられた。
「ちょうどいいな」
続いて聞こえた言葉に、叱責に身構えていた春燕はぱちくりと瞬いた。春燕は抱えあげられたまま、何もわからず部屋を出る。連れてこられた先には、色とりどりの服が部屋いっぱいに並べられていた。
そっと床に降ろされる。清深を見上げれば、腕を組みながら壁に寄りかかっていた。こてんと首を傾げれば「お嬢様」と声が聞こえた。
「こちら、好きなものをお召しください」
女官らしき女性たちが、いつの間にやら集まっていた。わいわいと賑やかに「あちらは?」「こちらは?」と話している。咄嗟にびくりと肩をすくめ、清深に駆け寄る。ぎゅっと足元に縋りつくと、のんびりとした動作で頭を撫でられた。
「よい、下がれ」
清深が声をかけると、女官たちは礼をして静かに立ち去って行った。そろそろと顔を上げると、清深と目が合う。ふと、自分の服が汚れていたことに気が付き、慌てて離れる。しかし、既にべったりと黒い染みが清深の服にもこびりついていた。
清深は気にした様子もなく、ゆっくりと衣装の間を歩き出す。怒られないことに呆気にとられつつ、慌てて後をついていけば、周りにある衣はどれも子ども向けであることが分かった。
清深について行く間にも、きれいな衣が絶えず視界に映り続ける。けれど、春燕にはどれがいいかなんてわからない。色とりどりの衣が、ぐるぐると目の周りを回っているような気がした。ゆっくりと床に手をついてしゃがむと、そのままごろんと転がった。大の字である。
春燕も、自分が何をやってるのかよく分かっていなかった。唐突に大の字になった春燕のそばに、清深は何も言わずにしゃがみこんで様子を見る。
それだけ見ると、まるで駄々を捏ねている子どもとその親であった。
そっと天井から清深に目線を移す。こんな妙なことをしているのに、咎めもしない。嫌な顔もしない。じっと春燕を眺め続けている。それが、ちっとも嫌な気持ちにならない。むしろ、ふわふわと心地いい気さえした。
そういえば、と清深の服を見る。なんて色かは分からないけれど、たくさん細かい刺繍がされている。まるでお星様のように。
春燕の小さな指が、清深の服の裾を弱く握る。
「これがいい」
気がつけば、声が漏れていた。
清深は己の服を見た。今朝適当に選んだ、漆黒に銀の刺繍がされた服。仕立て屋が興奮気味に服についてまくし立てていた顔は覚えている。
ひとつ頷くと、寝転がる春燕を抱き抱え自室に戻った。
バサりと着ていた服を脱ぐと、衣装棚に眠っていた細い布紐を引っ張り出す。裾をたくし上げ、春燕の身体に合わせて布紐で留めた。だぼだぼとしていて、如何にも大きかったが、服を着た春燕の表情は明るかった。
その表情に、清深は覚えのない胸の疼きを感じた。
番である春燕の健康は、当然守らねばならぬ。けれど、彼女の明るい表情を見た後では、それだけでは足らないとも思えた。もっと、気を抜いている春燕が自分に見せる顔が欲しい。常に笑っていられるようにしてやりたい。
まだ、清深にも言葉にできないその気持ちは、密かに芽を出していた。
「失礼いたします。そろそろ朝議の…おやおや」
ひょこり、と戸口から江藍が顔を出した。そして二人を見ると、にやりと笑った。主に、清深に対して。清深は短く息をつくと、別の服を取り出し手早く格好を整える。春燕は男二人を交互に見ながら、様子を伺っていた。
江藍は春燕の視線に気が付くと、そっと片膝をついて目線を合わせた。びくっと肩を震わせる春燕に優しく微笑む。
「お衣装、よくお似合いですよ。お嬢様」
春燕はゆっくり瞬きをして、自分の格好を改めて眺める。表情がほんのりと緩んだ。そして、何度も聞くうちに「おじょうさま」というのが春燕のことを言っているのだとようやく理解した。以前、身ぎれいな男の人が、それよりもきれいな女の人に向かって、そう呼び掛けていたのを聞いたことがある。春燕は少し浮足立って、気持ちのままにぱっと両手を大きく広げて着ている衣装を自慢げに見せる。
それを見た江藍は、さらに笑みを深めた。
その様子を、清深は少し離れた場所から見ていた。その表情に、本人も気づかぬほど小さな笑みを浮かべて。




