安心
「主上、少女の身元が判明いたしました」
官吏から声をかけられ、清深は顔を上げる。傍には彼の寝台で寝息をたてる春燕。
しばらく春燕を眺めた後、官吏の話を聞くべく、清深はその場を後にした。
ぱちり、と春燕が目を開けると、見知らぬ天井が見えた。ゆっくりと起き上がりあたりを見回す。
寝台の近くには簡素な執務机。大きな窓には格子模様が組まれ、その中心には翼を広げた鳳凰の彫刻があしらわれている。 荘厳なそれも、春燕にとってはただの大きな鳥であったが。
もう一つ、壁際には大きな箪笥が備え付けてある。一見して用途のわかる家具はこれくらいであった。
とうに日は沈み、窓から差し込むのは僅かな月明かりのみ。灯のない部屋で、春燕は寝台の上から動けないでいた。
春燕は、はく、と口を開きかける。言葉は音にならず、何が言いたいのかも定まらぬまま消えていく。きょろ、とまた視線を動かした。あの人はどこ。
自分を見つめるあの不思議な瞳が、なぜか今すぐ見たくなった。 ぎゅっと寝台の敷布を握りしめる。
長い間俯いていたが、そっと寝台の縁から床を覗き込む。ゆっくりであれば、春燕でも降りられる高さだ。ずり、とほんの少し寝台の端へ向かって移動する。心臓はどくどくと嫌な音を立て、額からはうっすらと汗が滲んでいた。
少しずつ、端へ端へと移動する。そのたびに、寝台の真ん中へ目をやった。
なぜ、こんなに必死になっているのだろう。大人しくしていれば、絶対に大丈夫なのに。
けれど、春燕の足は、ゆっくりとしかし確実に寝台の端へと動いていた。
すとん、とあっけなく足が床につく。はっと、詰まっていた息を吐きだした。腕で汗をぬぐうと、慎重な足取りで扉へと近づく。外から音は聞こえてこない。誰もいないように思えた。
背伸びをして門環に手をかける。ぎぎ、と扉がきしむ音にびくりと体を震わせた。呼吸が緊張で早くなる。誰も近づいてこないことを確認してから、ゆっくりと扉を開けた。
体を半分扉から覗かせる。灯は来た時よりも減っていた。それでも、ぼんやりと先の道を照らしている。 右へ、左へ視線を動かす。どちらを見ても、同じような廊下が続いている。
先へ進んでいいのか、次の一歩をなかなか踏み出すことができなかった。
扉から顔をのぞかせたまま、自然に目線は床の方へ下がっていく。
「…せ、しん」
ぽつり、と春燕の口から言葉が漏れた。漏れた言葉に、ぱっと顔を上げた。そっと指先で口を覆う。誰もいないのは分かっているのに、誰かに聞かれていないかが無性に気になった。顔が熱くなって、ぶんっと首を振った。
ふっと一息ついて、ゆっくりと部屋から一歩踏み出す。そして、部屋の中を振り返る。誰もいない、灯のない部屋。いつもの、埃だらけの馬小屋じゃない。
居心地がいいはずのその部屋から、春燕は一歩ずつ離れていった。
こつ、こつと軽い爪音が部屋に響く。
爪音が響くたびに、官吏の肩がびくりと震えた。今しがた、春燕についての報告を済ませたばかりだった。清深は先ほどから何も言わない。肘掛けに頬杖をつき、鋭い眼光のまま考え込んでいた。
官吏はひたすらに報告書に目線を落とす。爪音は段々と早くなっていく。自分の耳に聞こえているのが心音なのか爪音なのか、彼にはもうわからなくなっていた。官吏が刑部に配属されたのを恨みそうになった時、唐突に音が消えた。そっと、官吏は後ろへ一歩下がった。
「どこへ行く」
「もももも申し訳ございませぇん!」
清深は官吏を一瞥したのち、紙に筆を走らせた。そして、ひょいと官吏にそれを渡す。慌ててそれを受け取った官吏は、ぎょっと目を見開いた。周辺の戸籍及び扶養実態を調査。虐待、搾取の疑いがある子どもは保護。保護者は刑部にて取り調べること。春燕の親は捕縛。
これを今から、刑部尚書へ届けねばならない。今夜、刑部の官吏たちに寝台へ入る暇はないだろう。官吏は涙目になりながら拝礼し、その場を後にした。
清深は、寝室に戻る手前でぴたりと動きを止めた。戸が開いている。
すぐさま中を確認する。荒らされてはいない。寝台に触れるとひやりとした。離れてしばらく経っている。踵を返すと、大股で廊下を歩きだした。彼女の香りは、もう覚えていた。
ぺた、ぺたと壁伝いに春燕は歩いていた。
足先がほんのり冷える。素足でそのまま歩いているせいだろう。それでも、春燕はゆっくり歩き続けた。やがて、かっか、と早足に誰かが近づいてくる音がした。びくり、と振り返る。まだ人影は見えない。慌てて花瓶が飾ってある台に身を隠した。
どくどくと心臓が騒がしい。ぎゅっと胸元の服を握りしめる。
しかし、視界の端に見えた足先に、春燕は見覚えがあった。気が付けば駆け寄り、その勢いのまま、ぎゅっと彼の足にしがみ付く。
「…春燕。」
見上げれば、清深の金緑の瞳が静かに春燕を見つめていた。
ぎゅっとしがみ付く手に力が入る。
「せいしん。見つけた」
春燕すら気が付かぬうちに、その頬には微かな笑みが浮かんでいた。
そして、ふわりと頭に何かが触れる。顔を上げれば、清深の手がそっと触れていた。
「そうか」
清深はふっと息を吐き、体から力を抜いた。
春燕を抱き上げると、今度はゆっくりと寝室へ歩を進めた。




