温み
「賃金はこちらの者が受け取っております 」
気が付けば、景色は狭い一室に変わっていた。
春燕はきょろきょろとあたりを見回す。小さい机に椅子。そして乱雑に散らばった書類。
そして、清深は渡された書類をじっと見ていたかと思えば、「搾取か」と呟いた。
春燕は思わず首を傾げた。すると、それに気づいたかのように清深が書類から顔を上げる。
「働いた分は、親が受け取っているな?」
「はい。ちちが」
清深は一つ頷き、再び春燕を見た。
「親は好きか」
春燕は、好きと答えなければならなかった。けれど、彼女は何も言えなかった。
清深は一つ瞬くと、春燕を抱えなおしゆっくりと歩き出した。
「主上?!どちらへ…!」
「帰る」
護衛と官吏が慌てて後を追いかける。
春燕はきょとんとしたまま、清深の肩越しに遠ざかっていく倉庫を見ているしかなかった。
停められていた馬車に春燕をそっと座らせ、清深もその隣へ乗り込む。 扉を閉めると、御者へ短く告げた。
「出せ」
ガタゴトと揺れる馬車の中、春燕は流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
そうして馬車は、ひときわ大きな建物を囲む門をくぐった。
紅と金が基調の豪奢な建物を仰ぎ見て、春燕はどこかで見たことがあるなと考える。
すごく遠くで。
やがて馬車が止まり、扉が開けられた。
「おかえりなさいませ、清深様」
身なりの良い男が、春燕には見慣れないほど綺麗な礼をして出迎えた。
清深が春燕を抱えなおして馬車から出る。春燕は人形のようにされるがままだった。
清深が頭を下げている男にちらりと目配せする。男は一度だけ清深と視線を合わせると、すぐさまどこかへと歩いていった。
そうして建物の中に入っていくと、高い天井には細やかな透かし彫りが施されている。
柱は艶やかに色が塗られ、上品な吊り灯籠の灯が廊下を照らしていた。
春燕はあちこちに目線を動かしていた。清深の肩に手を置いて、高いところを背伸びするように見やる。
しかし、ふと我に返りぴたりと動きを止めた。そっと清深の顔色を窺えば、春燕を見ていた彼とぱちりと目が合った。思わず、春燕は強く目をつむる。しかし、予想していた罵倒も痛みもやってこない。
ゆっくりと目を開ければ、また清深と目が合う。初めて会った時から、清深はずっと同じような顔で春燕を見ていた。
彼女が何をしても。
やがて、大きな扉を潜り抜けると先ほど外で出迎えた男が、何かが乗った盆を持ちながら待っていた。
「お待ちしておりました。お嬢様、清深様」
男は恭しく春燕にも頭を下げる。男から離れるように春燕の背がほんの少し仰け反った。清深は盆の上にあった薄緑色の石を取ると、春燕に「目をつむっておけ」と声をかける。
春燕は言われたとおりに目を閉じた。 直後、パキンと何かが割れる音がした。次いで、ふわりと優しい風が春燕の頬を撫で全身を包み込む。
「もう目を開けていい」
清深の声が聞こえ、そっと目を開ける。なんだか、体がすっきりしている気がする。手を見ると、今までにないほど綺麗になっていた。こてんと首を傾げれば、髪がふわりと動いた。いい香りもする。
「お前の髪は、琥珀色だな」
一束指に巻き付けて、清深はまじまじと見やる。盆を持っていた男は、いつの間にかいなくなっていた。
清深が指に巻き付けている髪が視界に映る。こはく色。聞きなれない音だったけれど、不思議と胸のあたりがふわふわと心地よくなる。
「こはく色」
「ああ。瞳は翡翠…。琅玕翡翠だな」
「ろうかん」
「翡翠の中でも美しい色のことだ」
春燕には、まだよくわからなかった。けれど、胸のあたりは、まだふわふわとしていた。
再び春燕を抱えなおすと、清深はまた何処かへ歩き出した。時折、同じような服を着た女性や男性とすれ違うが、皆一様に頭を垂れる。
こんなにたくさん、人の頭を見たのは初めてだった。つむじが見える度に、なぜかそこをぺしっと触りたくなる。手がむずむずして、無意識に開いては閉じる。
清深は横目に、にぎにぎと動く春燕の手を見ていたが、特に何も言わず扉に手をかけた。
扉の先でまず目を引いたのは、長方形の卓を覆う繊細な刺繍の卓布であった。この建物と同じように、紅と金で彩られている。
椅子の一つにそっと下ろされた後、隣に清深が腰かける。彼の顔色を窺う前に、ことりと春燕の前に何かが置かれた。覗き込むと、つやつやとした米の粥が湯気を立てていた。ほのかに、いい匂いがする。
ふと、粥を置いた者を仰ぎ見ると先ほどの男であった。彼はにこにこと、こちらを見ている。
春燕は隣にいる清深に目線を向けた。彼はじっとこちらを見ながら、頬杖をついている。しばらく見つめあっていた二人を見て、そばにいた男がふっと笑った。
「お嬢様。どうぞ、お召し上がりください。お熱いので、気を付けてくださいね」
かけられた言葉に一瞬男を見て、おずおずと近くに置かれていた匙を取る。それから、清深の方を窺いながら、そっと粥に匙を浸した。清深は何も言わず、じっと春燕を眺めている。ゆっくり匙で掬った粥を口に入れようとして、ぱっと顔を離した。熱い。
ぱちくりと瞬いた春燕から、のっそりと匙が取られる。隣を見れば、清深が匙に向かって息を吹きかけていた。
春燕の視線に気づいたのか、そのまま清深は匙を春燕の口元に近づける。恐る恐る匙を口に含むと、ほのかな温かさが口の中にじんわりと広がっていった。
咀嚼するごとに、春燕の瞳がわずかに明るくなっていく。その変化を見ながら、清深はまた粥を掬う。冷ました粥を給餌しながら、彼女の服を眺める。服とは言えぬほどほつれが目立つそれを、本来なら着替えさせるところだ。
しかし、先ほどから春燕に見えないところで江藍が首を振っている。長年清深に仕えている、その彼がやめた方がいいと伝えてくるならそれなりの意味があるだろう。
己にはまだ、番について知らぬことが多いらしい。必死に口を動かす春燕を眺めながら、清深は一つ頷いた。
完食した春燕は、やがてうつらうつらとし始めた。しかし、時折気が付いたように背筋をただしては清深を上目で窺う。それを何度か繰り返したところで、清深はそっと春燕を抱きかかえた。赤子をあやすようにその背をとん、とん、と軽く叩く。
その手つきは、ひどくぎこちない。傍らで見ていた江藍が、そっと口元を緩めた。
やがて、清深を窺っていた瞳がゆっくりと閉じていく。静かな寝息が聞こえるまで、そう時間はかからなかった。




