出会い
千年の栄華を誇る海燕帝国。
その頂点に君臨するのは、暴君と名高い竜帝。
民はその治世を称え、家臣はその名に震え慄く。
かの者の名を清深といった。
濡れた漆のような黒髪を地に垂らし、金緑の瞳は感嘆のため息が出るほど美しい。
けれど、その瞳を正面から見てため息のみで済むことはないだろう。
なぜならば、その金緑に浮かぶ縦長の瞳孔は見る者を震わせるほど、鋭く相手を射抜くからだ。
静かな謁見の間に、こつ、と乾いた音が響く。その瞬間周りに控えていた文官達が、一様に顔を青ざめる。
品を竜帝のもとへ上げた官吏は見るも哀れなほど青ざめ 、拝礼したまま震えていた。
「お前」
「はいっ!」
短く呼ばれた官吏がびくりと肩を震わせる。勢いよく返事をすれど、竜帝は面を上げよとも下がれとも言わない。
ただ、品として贈られた布を撫でた。
件の布は、地方より絹として納められ、戸部を経て竜帝のもとへ上げられた品であった。
「品は悪くない」
淡々と告げられ、官吏は一瞬ほっとする。だが、と続いた言葉にまた息を詰まらせた。
「お前は戸部から退け」
「な、なぜ」
「それが己でわからぬからだ」
官吏は青ざめたまま、謁見の間から退けられる。
絹として上げられたそれは、夏布。あくまでも麻であった。熟練の職人が織る上質な夏布は、蝉の羽の様に薄く絹にも似た上品な光沢を持つ。されど、ひとたび触れれば違いは明白である。
商人が偽ったか。官吏が取り違えたか。
どちらにしろ、帝に献上するものに虚偽があってはならない。財を扱う立場にありながら、品を見極める目に欠けているのも問題であった。
それがわかる者たちは、去っていった官吏を憐れむほかない。己が主上と崇める存在は、要求水準が滅法高いからだ。
清深は運河沿いの官営倉庫を見に来ていた。
帝都へ入る穀物や布などが集積される場所であり、荷車や船が絶えず出入りし、人夫や商人が行き交っている。
荷を運ぶ者も、商いの手を休めた者も、ちらちらと竜帝の姿を窺っている。官吏や家臣のように恐々とではない。そこにあるのは、憧憬と畏敬の入り混じった眼差しだった。
「また陛下が直々にいらしてるぞ」
「本当だ。去年の水害の時もいらしたな」
「あの時は助かった。あのお方は、我々をちゃんと見てくださる」
ひそやかな声が、そこかしこで交わされている。
そのような会話を聞き流しながら、清深は資料に記された数と、実際に収められた品の数を照らし合わせる。
ふと視界の端に、ここには似つかわしくない小さな少女が映った。細い身体には不釣り合いなほど大きな荷を抱え、足取りも覚束ない。
そばに控えていた護衛は、上がりそうになる悲鳴を喉の奥で飲み込んだ。
無理もない。護衛ですら、これほど険しく眉根を寄せる竜帝を見たことがなかった。
その表情のまま、清深は普段より一段低い声で問うた。
「あれはなんだ」
「え、ええ…人足かと」
その足らぬ答えに、清深は護衛を一瞥すると、わずかに首を振った。どうやら、問う相手を間違えたらしい。
そのまま資料を官吏に押し付け、清深はまっすぐ少女のもとへと歩き出す。
「主上!?どちらへ!」
背後から上がった護衛の声など、聞こえていないかのように。
荷物を運んでいた少女に大きな影が覆いかぶさる。少女はそっと荷物を置き、そのまま地べたに平伏した。
影が人型だった。きっと大人が仕事が遅いことを叱りに来たに違いない。少女は顔を伏せたまま、ぼんやりと地面を眺めていた。
何も言わず地に伏せた少女を見て、清深はぴたりと動きを止めた。
不可解そうに眉を寄せて、清深は口を開く。
「面を上げよ」
清深が声をかけると、少女はすぐさま顔を上げた。その表情は、見慣れた官吏達のように怯えているわけではない。
ただ、目の前の男を見つめている。その瞳を見て、清深はようやく腑に落ちた。この少女は、己の番なのだ。
清深は何も言わず少女の前に跪いた。そばで見ていた群衆がざわつき始める。清深は少女の瞳を覗き込む。黙ったまま、表情ひとつ変えない。さて、何から問うべきか。
「名は何という」
「…しゅんえんと、申します」
「どう書く」
「はるを、つげる鳥だと」
清深は頷いた。少女自身もよくわかっていないらしい。
春を告げる鳥。鶯もそう呼ばれるが、「えん」という音ならば、おそらく―
「春燕か」
清深は振り向き、そばでわたわたとしている官吏に呆れた。
「管轄の者を連れてこい」
「へっ?あ、ああ少女の!ただちに!」
ばたばたと駆けていく官吏を尻目に、清深は春燕に向き直る。
身につけた服はところどころ擦り切れ、ほつれすら繕われていない。靴も履いておらず、むき出しの足には傷が目立った。細長い手足に肉付きはなく、今にも折れてしまいそうにも見える。
「お前の庇護者はどうした」
「ひごしゃ」
「父親と母親。もしくは食事などの面倒を見る相手だ」
春燕は、初めて惑うように俯いた。
清深が次の言葉を待っていると、後ろから足音が二人分聞こえてきた。
「主上、お待たせいたしました。」
「お初にお目にかかります。この倉を預かっております、棟と申します 」
清深は、棟に一瞥もくれず問うた。
「彼女はいつからここに」
「その者は日雇いでございます」
「それで」
「…はっ?それで…」
棟が言い惑うと、清深は初めて棟を見た。びくりと棟の肩が揺れる。見上げられているのになお、強い威圧感が漂っていた。
「それが管轄の意見か」
「いえ、そ、その少女は時折ここへ働きに…。文句も言わぬ働き者でして…」
「そうか」
清深は春燕を見る。いつの間にか再び平伏している彼女に、不満げに目を細めた。
「へ、陛下…その子が何か粗相を…?」
「違う。春燕、顔は上げていろ」
惑う棟に、また一瞥もなく答える。春燕が顔を上げたのを見て、それでいいと頷いた。
「親を知っているか」
「いえ、存じ上げませぬ…」
清深は深くため息をついた。情報が一切集まらない。
棟の顔がみるみる青ざめていく。その後ろで、官吏だけが共感するように頷いていた。
清深は少女の足を再び見やる。素足には、まだ癒えぬ傷がいくつも残っている。こんな状態の少女を、いつまでも地べたに座らせておくわけにもいかない。
「来い」
清深は春燕へ両腕を差し出した。だが、彼女はじっとその手を見つめるばかりで、動こうとはしない。
首を傾げた清深に、恐々と官吏が声をかけた。
「主上、まだ幼い童です。もう少し、優しくしては…ひぃっ」
一度官吏を見た後、また春燕に向き直る。そして動かぬ少女へ向けて「おいで」と再び声をかけた。
春燕は、目の前に差し出された両腕をじっと見ている。 ぴくりと彼女の指が一瞬動いた。
従わなければ。頭の中で早くしろ、と誰かが急かす。
近づかないと。来いって言われた。でも服を汚してしまう。急がないと。
心臓が、引き絞られるように痛んだ。
「春燕。おいで」
また、声が聞こえる。先ほどと同じ、淡々とした声音。いつの間にか落ちていた視線を、春燕はおそるおそる持ち上げる。
清深はただ、まっすぐ春燕を見ていた。
春燕は表情を窺いながらも、ゆっくりと手を近づける。微動だにしない清深の服の袖に、ちょこんと触れた。
きれいな服に、ほんの少し土埃がつく。けれど、何も言われることはない。今度はその手を、彼の肩へと伸ばした。
その瞬間、ひょいと体が浮き上がる。体が無意識に縮こまるも、眼前に広がる景色に春燕は一瞬意識を奪われた。




