第5話 勇者の冠(前編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
叙任の朝は、やたらと人が多かった。
客間に侍従が四人、仕立て屋が三人、神官が二人。全員が一斉に碧の周りで動き回り、そのたびに誰かが誰かの袖を踏んでいる。
「アオイ様、こちらの上衣を」
「いや、そちらは紺が強すぎる。陛下の外套と色が食い合う」
「では白を」
「白は神殿の色です。政の場に神殿色を出すのは」
碧は椅子に座ったまま、議論が過ぎ去るのを待っていた。
この三十分で学んだことがある。この手の場では、着せられる側に発言権がない。それは元の世界の制服採寸でも同じだったので、対処法は知っていた。黙って腕を上げ、言われたほうを向き、終わるのを待つ。それだけでいい。
結局、選ばれたのは深い灰色の上衣だった。派手な刺繍はないが、襟と袖口に細い銀の線が入っている。袖を通してみると、驚くほど軽かった。
「よくお似合いです」
ミリアが小さく手を叩いた。彼女は今日、盆ではなく何も持っていなかった。侍従たちの隙間に紛れ込んで、ずっと様子を見ていたらしい。
「変じゃないか」
「変ではございません。その、とても」
少女は言葉を探して、諦めたように言った。
「勇者様に見えます」
それが褒め言葉として最上級であることは伝わった。ただ、碧にとってはあまり嬉しい表現ではなかった。
鏡を見る。
全身が映る大きさの鏡を、碧はこの三日で初めてまともに見た。実家の洗面所にあるのは顔から上しか映らないやつで、自分の立ち姿というものを確認する習慣がそもそもなかった。
灰色の上衣を着た自分が、そこに映っている。昨日までと同じ顔だった。眉のかたちも、癖のついた前髪も、右の頬にある小さなほくろも変わらない。
変わったのは中身のほうで、外から見てもわからない。
それがいちばん厄介だった。
王都の大広場は、丘の中腹に開けた円形の空間だった。
石畳は白く、中央に向かってごくゆるやかに傾斜している。そのため、どこに立っても壇がよく見えるようになっていた。千年前に人を集めるために設計された広場なのだと、傾きを見ただけでわかる。
碧が控えの通路からその全景を見たとき、最初に浮かんだ感想は「数えられない」だった。
石畳を人が埋めている。埋めるという表現では足りない。広場から放射状に伸びる六本の大通りが、どれも人で詰まっている。屋根に登っている者がいる。木の枝に座っている者がいる。窓という窓から身を乗り出している者がいる。
「三万は下らぬかと」
隣で近衛の隊長が言った。壮年の、実直そうな男だった。額に汗が浮いているのは暑さのせいだけではないだろう。三万人を前にした警備責任者の顔を、碧は初めて間近で見た。
「周辺の村からも夜通し歩いてきた者がおります。昨日から宿がひとつも空いておりませぬ」
碧は人の群れを眺めながら、この規模の集まりを自分が何かで見たことがあるかを考えた。初詣の参道でも、これほどではなかった気がする。
「それ、全員が俺を見に来てるんですか」
「光の柱を見に来た者が三割。噂を確かめに来た者が三割。残りは、何かあると思って商売をしに来た者でございます」
碧は少しだけ気が楽になった。三分の一は商売目当てらしい。
通路の壁越しにも、人の声は絶え間なく届いてきた。
言語理解が働くせいで、聞き分けたくないものまで聞き分けられてしまう。光の柱は神の怒りだったという噂を真顔で語る者がいた。勇者というのは三年で死ぬものだと子どもに説明している父親がいた。今日のうちに顔を覚えておけば孫に自慢できると笑っている老人がいた。
どれも悪意ではなかった。ただ、自分がもう完全に他人の話題になっているのだと、碧は理解した。
広場の中央に、木で組まれた壇が据えられていた。その上に国王グレイル三世が立ち、傍らに宰相ザルドスが控えている。壇の下に神殿の一団が並び、セルヴァンが先頭に立っていた。老人は今日も杖を持っていない。
鐘が鳴った。
三万の声が、一斉に止まった。
「グランヴェル王国の民よ」
王の声が広場に響いた。拡声の術が使われているのだろう、遠くの通りまで届いているのが音の返り方でわかる。
「一昨日の夜、余の王都に光の柱が立った。皆も見たであろう」
どよめきが波のように広がった。
「あれは災いではない。神殿が千年守り続けてきた召喚の儀が、ついに応えられた証である」
波が、歓声に変わった。
その歓声の質が、碧には少し意外だった。喜びだけではない。安堵が混じっていた。この国の人々は、光の柱が何かの前触れではないと言ってもらえるのを、二日間ずっと待っていたのだ。
王は片手を上げ、それを静めた。
「されど余は、この場で嘘を言わぬ」
声の調子が変わった。
「召喚とは、要するに他所の世界から人を攫うことである。余はそれを承知で命じた。詫びても足りぬ。それが我が国の、千年ぶんの罪である」
広場が、静まり返った。
碧は通路の陰で、思わず身を乗り出した。王がそこまで言うとは思っていなかった。壇の下で、宰相ザルドスの眉がわずかに動いたのが見えた。
この演説は、事前の原稿にはなかったのだ。
「その上で、余は民に紹介したい」
王が、こちらへ手を差し伸べた。
「出てきていただけるか、アオイ殿」
通路の兵が道を空けた。
碧は息を吸い、それから歩き出した。
壇に上がった瞬間、音の壁が来た。
歓声というより、衝撃だった。三万の人間が同時に声を上げると、空気そのものが押してくる。碧は思わず半歩下がりそうになり、踏みとどまった。
見渡す。
顔が、見える。
言語理解のせいなのか、それとも別の祝福のせいなのか、碧の目は遠くの顔まで一人ひとり拾ってしまった。前列で泣いている老婆。肩車をされた子ども。腕を組んで疑わしげにこちらを見ている中年の男。抱えた赤ん坊をあやしながら背伸びをしている母親。
三万人が、全員それぞれの一日を生きている。
碧はその事実に、少しだけ膝が笑いそうになった。
王が振り返り、侍従が捧げ持つ台から何かを取り上げた。
冠だった。
金ではなかった。銀とも違う。鈍い色の金属に、細い線が幾重にも編まれている。飾り石はひとつもない。
「これは千年前、初代の召喚者のために作られたものである」
王が言った。
「以来、十七人が被った。そして十七人とも、これを返さぬまま消えた」
碧は、冠を見た。
細い線の一部が、いくつも切れて繋ぎ直されていた。何度も壊れ、そのたびに誰かが直してきた痕跡だった。継ぎ方は一定ではない。太く不格好に巻いてある箇所もあれば、細工師の手で精密に編み直された箇所もある。
十七人ぶんの時間が、この輪のなかに残っていた。
被った者たちが何を思って被り、どういう最期を迎えたのか、碧には何もわからない。わからないまま、その続きに自分の頭が入ろうとしている。
「アオイ殿。余はこれを、義務として渡すのではない」
王の声が、少しだけ低くなった。
「返してもらうために渡す」
広場が、ざわついた。
この国の人間にとっても予想外の言葉だったらしい。壇の下でセルヴァンが目を見開き、宰相ザルドスの指が外套の裾をわずかに握り込んだ。
碧は顔を上げた。
「……返す」
「左様。十七人は返せなかった。貴殿には、いつか余の孫の孫あたりに、笑って返しに来ていただきたい。それが余の願いである」
広場の空気が、変わった。
碧は数秒、動けなかった。
この王は、逃げ道を塞ぎに来たのではなかった。逆だった。戻ってこいと言っている。渡した冠を返しに来られる程度には、生きて、自由でいろと言っている。
思い出したのは、昨日の宰相の言葉だった。冠は形式にすぎない。義務を課すものではない。
あの言い方は嘘ではなかった。ただ、あの男は本当の意味を知らなかっただけだ。
「……わかりました」
碧は膝をついた。
この二日で、一度もやらなかった動作だった。神殿でも、儀式でも、宰相の前でも、碧は膝を折らなかった。
広場が、どよめいた。
王が冠を、碧の頭に置いた。
軽かった。拍子抜けするほど軽い。重さで人を縛るための道具ではないのだと、被った瞬間にわかった。
三万の声が、爆発した。
歓声が収まるまで、たっぷり一分かかった。
やがて誰かが叫んだ。
「勇者様! ひと言ください!」
その一声に、周囲が続いた。声がうねりになって押し寄せてくる。
王が碧を見た。目で、好きにしろと言っていた。
碧は前に出た。
何を言うかは、昨夜のうちに考えてあった。民の不安を和らげ、王家を立て、神殿に配慮し、それでいて何も約束しない。侍従が持ってきた草案は、そういう見事な文章だった。
その全部が、いまはどこかへ飛んでいた。
三万人の顔を一度でも見てしまうと、誰かが書いた無難な言葉を読み上げる気には、どうしてもなれなかった。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




