第5話 勇者の冠(後編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
第5話 勇者の冠(後編)
声が広場を渡った。自分の声が三万人に届いているという事実に、まだ慣れない。
「昨日、女神様から力をもらいました。たぶん、皆さんが想像しているより多いです」
どよめき。
「正直に言います。俺は、この世界のことをまだ何も知りません。魔王がどんな相手なのかも、どこで何人が困っているのかも知りません。だから、救いますとは言えません」
広場が、静かになった。
落胆の気配が混じっているのが、わかった。碧は構わず続けた。
「代わりに、いま言えることを言います」
碧は右手を持ち上げた。
この三日でわかったことがある。この世界の人間は、言葉よりも目の前で起きることのほうをずっと強く信じる。だったら、口で説明するより早い方法がひとつあった。
掌を上に向け、昨日の中庭でやったことを、もっと大きな規模でやった。
光が伸びた。
広がった。形を持った。木の天板が現れ、脚が生え、石の炉が組み上がり、そこに火が入った。鍋が生まれ、湯が沸いた。
壇の上に、屋台が一軒できていた。
広場が、悲鳴のような声で埋まった。
「これは、うちの店で使ってるのとだいたい同じやつです」
碧は鍋を叩いた。いい音がした。
「実家が洋食屋なんです。町の、小さい店です。俺はそこを継ぐつもりでいました」
誰も、声を出さなかった。
「だから、救えるかはわかりませんけど、飯なら作れます。困ってる人がいて、腹が減ってるなら、そこには行けます。それくらいなら、いまの俺でも約束できます」
碧は頭を下げた。
「今日から、しばらくお世話になります」
深く下げすぎたかもしれない、と下げながら思った。この世界で勇者と呼ばれる人間が民衆に頭を下げる作法があるのかどうか、誰にも確認していない。
一秒、沈黙があった。
それから、広場が割れた。
歓声ではなかった。もっと雑多で、もっと人間くさい音だった。笑い声と、泣き声と、叫び声と、名前を呼ぶ声が混ざり合って、区別がつかなくなっていた。
前列の老婆が、袖で目元を押さえていた。隣にいた娘らしき女が、その背中を黙ってさすっていた。
腕を組んで疑っていた中年の男は、組んだ腕をほどいて両手を口に当て、何かを繰り返し叫んでいた。碧の耳は、それを拾ってしまった。うちの店にも来てくれ、と言っていた。
肩車をされた子どもが、身を乗り出して屋台を指差していた。その子の父親は子を落とさないよう必死で、壇の上など見ていなかった。
三万人のうち、勇者を見に来た者がどれだけいて、ただの見物に来た者がどれだけいたのかは、もうわからなくなっていた。ただ、いま広場を満たしている音には、期待や要求ではないものが混ざっていた。
それは歓迎だった。
壇の下で、セルヴァンが空を見上げていた。
老人が何を思っていたのかは、碧にはわからない。ただ、その横顔は千年ぶんの重荷をひとつ降ろした人間のそれに見えた。
そして、王が笑っていた。声を上げて、腹の底から笑っていた。
「……陛下」
宰相ザルドスが、低く言った。
「よろしいのですか。あのような」
「よい」
王は笑いを収め、目尻を拭った。
「余は今日、良い王だったな」
壇を下りる直前、王が碧の耳元で短く言った。
「うまい飯というのは、政よりよほど人を黙らせるものらしい」
「うちの父の持論です」
「賢い父御だ。……アオイ殿、ひとつ助言を差し上げる」
王の声が、わずかに低くなった。
「今日の言葉を、宰相は必ず使う。飯を配る勇者という絵は、あの男にとって都合がよすぎる」
「使わせないほうがいいですか」
「いや。使わせてやりなさい」
王は前を向いたまま、口元だけで笑った。
「その代わり、どこで誰に配るかは、貴殿が決めればよい」
碧が壇を下りたとき、屋台は残したままにしておいた。
撤去しようとした兵を止めて、広場の隅に移した。炉の火は落としたが、鍋と天板はそのままだ。使いたい者が使えばいい。
後日、その屋台には王都の露店商が交代で立つようになり、誰が言い出したともなく「勇者の台所」と呼ばれるようになる。碧がそれを知るのは、ずっと先のことだった。
式典が終わり、城へ戻る通路を歩いていたときだった。
「アオイ殿」
声をかけられて振り向くと、そこに女性が立っていた。
薄い金の髪を後ろで編み上げ、濃い緑の衣をまとっている。年は碧より二つか三つ上に見えた。背筋の伸ばし方が、他の誰とも違った。訓練された姿勢ではなく、生まれたときから正しい位置に背骨がある人間の立ち方だった。
背後に控えていた侍従が、慌てて膝をつく。
「リュシエンヌ・ディ・グランヴェルと申します」
彼女は名乗り、わずかに首を傾けた。
「この国の、第一王女です」
碧は少し考えてから、会釈を返した。
「天野碧です」
「存じております。式典を拝見しました。……厨房の話をされるとは思いませんでした」
「すみません。用意してた原稿が飛びまして」
「謝らないでください」
リュシエンヌが、目を細めた。
「あれが原稿どおりでしたら、わたくしはここへ来ておりません」
言い方に、含みがあった。
碧は黙って続きを待った。彼女は一歩近づき、声の調子を落とした。
「率直に申し上げます。わたくしは、貴方に縁談を持ちかけるようにと父から言われております」
「……はあ」
「正確には、宰相からです。父は渋っておりました」
碧は思わず天井を見た。展開が早い。召喚されて三日目だった。
「お断りいただいて結構でございます」
「え」
「わたくしは、その命令を実行するつもりがございません」
リュシエンヌは、はっきりとそう言った。
「貴方を国に縛りつける道具として、わたくしの婚姻を使う。それが宰相の絵図です。わたくしは道具になるのが嫌なのではありません。貴方をそれで縛れると思われているのが、不愉快なのです」
碧は、目の前の王女を見直した。
この人は、たぶん怒っている。それも、自分のためではない怒り方をしている。
縁談を断りに来たのではない。断られる前提の縁談を持ち出した人間への抗議を、わざわざ本人の前でやってみせに来たのだ。手間のかかる誠実さだった。
「……わかりました。では、なんで来たんですか」
「顔を見に来ました」
あまりに率直な答えだったので、碧は反応が遅れた。
「顔」
「ええ。義務を課さない冠をなぜ国が授けるのか、と宰相に問うた人間の顔を」
リュシエンヌが、初めて笑った。
「三日でうちの宰相を黙らせた方は、貴方が初めてです。わたくしは十九年かけて一度も成功しておりません」
碧は、返す言葉を探した。
「……あの人、王女殿下にもああなんですか」
「わたくしにはもっと丁寧です。丁寧なぶん、始末が悪い」
リュシエンヌは通路の窓へ視線を移した。外はまだ祭りの続きのような騒ぎで、大通りから絶え間なく声が上がっている。
「アオイ殿。ひとつだけ、警告を差し上げます」
「はい」
「貴方はこの三日で、この国にとって最も価値のある存在になりました。価値のあるものは、必ず誰かに管理されます」
「管理」
「善意でも悪意でも、結果は同じです。気づいたときには、行きたい場所へ行く自由が消えている」
言い方に実感がこもっていた。碧は、それが誰の話なのかを察した。
目の前の王女も、生まれたときから価値のある存在として管理されてきた側の人間だった。
「覚えておきます」
「それだけでけっこうです」
次の言葉を探しているうちに、通路の奥から重い足音が近づいてきた。
甲冑の音だった。
現れたのは、大柄な男だった。年は四十半ば。短く刈った灰色の髪に、顔の左側を斜めに走る古い傷跡。近衛でも神官でもない、明らかに別格の気配をまとっている。
歩き方を見ただけで、碧の中の剣技の祝福が勝手に反応した。重心が一度も上下しない。足の裏が床を掴んでいる。この男は、たぶん走るより歩くほうが速い種類の人間だ。
男は碧の三歩手前で足を止め、そして片膝をついた。
「グランヴェル王国騎士団長、剣聖ダインと申します」
低い声だった。
「式典、拝見いたしました。あの屋台には、正直、参りました」
「……どうも」
「ひとつ、お願いがございます」
リュシエンヌが小さく息を吐き、こめかみを押さえた。
「団長。本日は式典です」
「存じております、姫様。ですので明日にいたしました」
「そういう問題ではございません」
ダインが顔を上げた。
その目に浮かんでいたのは、畏怖でも警戒でもなかった。もっと単純で、もっと厄介なものだった。
子どものような、純粋な期待だった。
「明日の朝、騎士団の演習場をお貸しいたします」
「……はい」
「一度、剣を交えていただきたい」
碧は、しばらく考えた。
断ることもできた。理由なら三つは思いつく。ただ、目の前の男の目を見ていると、断ったところでこの人は明日も明後日も同じ場所で待っているのだろうという確信があった。
「……勝てないと思いますよ」
「承知しております」
剣聖は、嬉しそうに笑った。
「だからこそ、見たいのです」
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




