第6話 騎士団、全滅(無傷) 前編
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
――夏の盛りまで、あと五日。
翌朝、扉を叩く音はいつもより早かった。
開けると、ミリアが立っていた。盆は持っていない。かわりに、昨日までとは違う衣を着ていた。神殿の見習いが着る生成りの貫頭衣ではなく、濃い藍色の、袖口を絞った実用的な仕立てのものだった。
「おはようございます、アオイ様」
少女は背筋を伸ばし、やたらと改まった調子で言った。
「本日付をもちまして、わたしミリアは、アオイ様付きの世話役を拝命いたしました。任期の定めはございません」
「世話役」
「はい。神殿からは籍を抜かず、日中はアオイ様のお側に控えます。食事、衣、日程、案内。それから、その、通訳のようなものも」
「通訳。俺、言葉わかりますけど」
「言葉ではなく、作法のほうです」
ミリアは真顔だった。
「昨日、大広場で民に頭をお下げになりました。あれ、この国では王でもいたしません」
「……まずかったか」
「まずくはございません。民は泣いて喜んでおりました。ただ、貴族が三人ほど気絶いたしました」
碧は天井を仰いだ。
三日で三人も人を気絶させたらしい。
「というわけで、これからは先にわたしに聞いてください。止めるべきときは止めますので」
「頼もしいな」
「はい」
ミリアは胸を張った。それから急に自信をなくしたように、小声で付け足した。
「……あの、本当にわたしでよろしかったのでしょうか。神殿には、もっと位の高い方が」
「ミリアがいい」
「え」
「昨日の朝、豆の芯の話を厨房に持っていったのは君だ。あれ、地味に難しいことだぞ」
碧は扉に寄りかかった。
「勇者が変なことを言ってました、で流してもよかった。でも君は調理長のところへ行って、怒られる覚悟で伝えた。そういう人が側にいるほうが、俺は助かる」
ミリアは、しばらく身動きを取らなかった。
それから両手で口を押さえて、その場にしゃがみこんだ。
「おい。どうした」
「……なんでもございません。いま、覚悟を決めておりますので、少しお待ちください」
碧は待った。
十秒ほどして、少女は立ち上がった。目が赤かったが、声はしっかりしていた。
少女は懐から折り畳んだ紙を取り出し、大げさな仕草で広げた。そこには細かい字で一日分の予定が書き込まれていて、余白には注意書きまで添えられている。昨夜のうちに作ってきたものらしい。
「本日の予定を申し上げます。午前、騎士団演習場にて剣聖ダイン様との立ち合い。午後、陛下との会食。夕刻、神殿にて――」
「待った。午前のやつ、もう決まってるのか」
「団長が夜明け前から演習場を掃き清めておられるそうです」
「夜明け前」
「はい。石畳を磨いておられるとか」
碧は、昨日見たあの大きな背中を思い出した。
断れる雰囲気では、どうやら最初からなかったらしい。
騎士団の演習場は、城の西側にあった。
碧が到着したとき、そこはすでに人で埋まっていた。周囲を囲む石段の観覧席に、甲冑姿の男たちがぎっしりと座っている。ざっと見て三百人。
「今日は非番の者まで出てきております」
ミリアが横で説明した。
「本来、団の演習は非公開です。ですが昨日の夜、団長が全員に招集をかけられたそうで」
「非公開のところに三百人」
「団長のお考えでは、これは演習ではなく歴史なのだそうです」
演習場の中央に、ダインが立っていた。
昨日の甲冑ではなかった。稽古用の革当てだけを着けている。肩の筋肉の付き方が布越しにもわかった。四十半ばという年齢を、身体のどこにも感じさせない立ち方だった。
「よくおいでくださいました」
ダインが一礼した。
「石畳を磨いたと聞きました」
「四十年ぶりでございます。新兵の頃は毎朝やっておりましたので、身体が覚えておりました」
また四十年だ、と碧は思った。
大神官の膝も、調理長の鍋も、同じ長さだった。この国では、ひとつの仕事が人ひとりの一生ぶんの単位になっているらしい。
「得物をお選びください」
ダインが手を向けた先に、木剣の並んだ架台があった。長さも重さもさまざまで、二十本はある。
碧は近づき、一本手に取った。振ってみる。
軽すぎた。
別の一本を取る。今度は重心が手前すぎる。さらに別のを取る。柄の太さが合わない。
五本目を置いたところで、碧は手を止めた。
自分が何を「合わない」と判断しているのか、自分でもわかっていなかった。木剣を握った経験など一度もない。なのに、握った瞬間に正解との差分が出てしまう。
「……すみません。作ってもいいですか」
「は」
碧は掌を上に向けた。
光が伸び、固まる。
現れたのは、一本の木剣だった。ごく普通の、装飾のない樫の剣。ただし長さも重心も握りの太さも、碧の手にぴたりと収まっていた。
観覧席が、どよめいた。
「……いま、作られましたか」
「はい。すみません、こっちのほうが早かったので」
ダインは木剣をしばらく見つめ、それから深く息を吐いた。
「一本、いただいてもよろしいか」
「え」
「終わったあとで結構です。孫に見せたい」
碧は返答に困り、結局、頷いた。
二人は向かい合った。
観覧席の三百人が、ぴたりと黙った。
ダインが構える。上段でも中段でもない、右肩の前に剣先を浮かせた独特の形だった。
その瞬間、碧の中で何かが勝手に動いた。
見えた、という感覚に近い。ダインの構えが持っている選択肢が、頭の中に一枚の図として広がった。この位置からは十二通りの手がある。うち七つは踏み込みを伴い、三つは誘い、二つは下がりながらの斬り上げ。どれを選んでも、最初の一歩は左足から入る。
碧は、それを知りたくなかった。
知ってしまうと、この人が三十三年かけて積み上げたものを、こちらが最初から全部開いて見ていることになる。それは失礼な気がした。
「……ダインさん」
「はい」
「俺、ずるいです」
ダインの眉が動いた。
「たぶん、あなたが何をするか全部わかります。昨日もらった力なので、俺の実力じゃありません」
「存じております」
「昨日、あの屋台をご覧になって、それでも立ち合いたいんですか」
「だからこそでございます」
剣聖は、構えを崩さずに言った。
「わたくしは十二の年から剣を握り、三十三年かけてここまで参りました。その三十三年が、一晩で越えられるものだと知りました」
「……」
「それは絶望でございましょうか。わたくしは、そうは思いませなんだ」
ダインの声が、わずかに熱を帯びた。
「わたくしは剣が好きなのです。ですから、剣の果てにあるものを見てみたい。自分が辿り着けぬ場所でも、誰かがそこに立っているのなら、見ておきたいのです」
碧は、木剣を握り直した。
この人は、たぶん自分と同じ種類の人間だった。父が包丁を握るときの顔を、碧はよく知っている。
「わかりました」
碧は構えた。
剣技の祝福が、自然に身体を動かした。ダインより半歩低い位置に重心が落ち、剣先が斜め下に向く。見たこともない構えだったが、身体はそれを最適だと判断していた。
「――参る」
ダインが動いた。
速かった。観覧席で椅子の鳴る音がした。左足からの踏み込み、右肩の前から滑り出す斬り下ろし。碧の予測どおりの一手目だった。
そして、予測していても速い。
碧は木剣をわずかに傾けた。
ダインの剣が、その面を滑った。受けたのではなく、進む方向を三度ほど変えただけだ。剣聖の剣は碧の肩の横を通り抜け、地面へ向かった。
姿勢が、崩れる。
だが崩れきる前にダインは踏みとどまった。そのまま左へ回り込み、二手目。下からの斬り上げ。
碧はまた、剣先の角度を変えた。
三手目。ダインは回転を利用して剣を持ち替え、右の逆手から突いてきた。予測の十二通りには含まれていない動きだった。
碧の目が、初めて見開かれた。
それでも、身体は間に合った。半歩引いて、突きの軌道を外へ流す。
四手目はなかった。
ダインの木剣が、宙を舞っていた。
碧の剣先が、剣聖の胸当ての中央に、触れるか触れないかの位置で止まっている。
演習場が、完全な無音になった。
やがて、乾いた音がした。ダインの木剣が地面に落ちた音だった。
「……三合」
ダインが呟いた。
「三合、持ちました」
男は膝を折った。がくりと落ちたのではなく、丁寧に、自分の意思で地面につけた。
「アオイ殿。いまの三手目、いかがでございましたか」
「あれだけ、読めませんでした」
その一言を聞いた瞬間、剣聖の顔が崩れた。
四十半ばの、顔に傷のある大男が、子どものように笑っていた。
「あの手は、三十年前に自分で考えたものでございます。誰にも教えたことがございませぬ」
「なるほど」
「生涯で一度きり、使いどころを待っておりました」
ダインは地面に手をつき、そこで肩を震わせた。
碧はその場に立ったまま、どう声をかけるべきか迷った。
観覧席から、拍手が起きた。一人が始めて、十人になり、百人になり、三百人になった。誰かが立ち上がり、全員が立ち上がった。
「――恐れながら!」
騒ぎが収まりかけた頃、観覧席から声が飛んだ。
若い騎士だった。二十代半ばだろうか。顔が赤い。
「団長と三合というのは、我々にはわかりませぬ! 我々の物差しでは測れませぬ!」
「では、どうしたい」
ダインが立ち上がり、振り返った。
「我らにも、お相手いただきたく!」
どよめきが起きた。同調する声が次々に上がる。
碧はミリアを見た。ミリアは首を横に振った。止めるべき場面だという合図らしい。
だが、止めなかったのはダインのほうだった。
「よかろう。アオイ殿、いかがでございますか」
「何人ですか」
「百」
演習場が静まった。
ダインは真面目な顔で言った。
「中途半端な数では、言い訳が残ります。全員でかかって、全員で負けたほうが、あとが楽でございます」
碧は、少し考えた。
断る理由はあった。三百人の前で百人を相手にするのは、明らかに見世物だ。宰相あたりが見ていれば、確実に政治的な材料にされる。
だが、ここで曖昧にしておくと、この三百人はこれから先ずっと自分を測り続ける。
「条件が二つあります」
碧は言った。
「ひとつ。誰も怪我をさせません。刃は使いません、剣の腹だけで触れます」
「承知」
「ふたつ。終わったら、全員で昼飯にしましょう。俺が作ります」
演習場が、変な静まり方をした。
ダインが、噴き出した。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




