第6話 騎士団、全滅(無傷) 後編
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
百人が並ぶのに、五分かかった。
選抜の必要はなかった。三百人のうち、われこそはと名乗り出た者がちょうど百人を超えたところでダインが手を上げて締め切ったからだ。漏れた者たちが本気で悔しがっているのを見て、碧はこの国の騎士という職業の性質をひとつ理解した。
半円状に広がった騎士たちの前に、碧は一人で立った。木剣を右手に提げただけの、構えらしい構えも取っていない姿勢だった。それが油断でも挑発でもなく、単に構える必要がないだけなのだと気づいた者から順に、顔つきが変わっていった。
「かかってこられよ」
ダインの合図で、最初の一人が飛び出した。
その男が地面に転がるまで、〇・五秒もかからなかった。
碧は動いていない。ように見えた。実際には半歩だけ踏み出し、木剣の腹で相手の足首の内側を軽く払っている。人間は片足の支点を失うと、勢いがあるほど派手に転ぶ。
二人目と三人目が同時に来た。
碧は間に入った。左の男の剣を腹で押し上げ、その反動で右の男の胸を軽く突く。押し上げられた剣は持ち主の頭上を通り、突かれた男は尻餅をついた。
この時点で、観覧席の空気が変わっていた。歓声が消え、かわりに低い唸りのようなざわめきが広がっている。三百人の騎士が、目の前で起きていることの意味を計算しようとして、その計算がうまくいかずにいる音だった。
そこから先は、流れ作業になった。
碧は歩いていた。走っていない。半円の左端から右端へ向かって、ただ歩きながら、通りすがりに一人ずつ触れていく。剣の腹が肩に当たる。膝の裏に当たる。手首に当たる。そのたびに騎士が倒れるが、誰一人として痛がっていない。倒れた本人たちが、いちばん驚いた顔をしていた。
三十人を越えたあたりで、誰かが叫んだ。
「囲め! 一斉にかかれ!」
残りの七十人が、同時に距離を詰めた。
碧は、そこで初めて足を止めた。
七十人が同時に距離を詰めてくる音は、それまでの一対一とはまるで別種の圧力を持っていた。甲冑がこすれ、革が軋み、石畳が七十対の足に叩かれる。包囲というのは囲まれた側の視界を先に殺すものなのだと、碧は初めて身体で理解した。
息を吸う。
剣技の祝福が、その七十通りの軌道をまとめて一枚の図に並べ替えた。どこを通せば全部に触れられるのか、答えは最初から示されている。
そして、回った。
一回転だった。それ以上でも以下でもない。木剣が円を描き、その円の内側に入っていた七十人分の武器が、全部同時に宙へ跳ね上がった。
七十本の剣が空を舞い、ばらばらの高さで弧を描き、ほとんど同時に地面へ突き刺さった。
演習場の中央に、七十本の剣が生えた林ができていた。刺さった角度が不揃いなせいで、それはまるで誰かが長い時間をかけて据えた記念碑のように見えた。
誰も倒れていない。誰も怪我をしていない。ただ、全員が武器を失って立っていた。
沈黙が、十秒続いた。
立ったまま武器を失った七十人は、自分たちが何をされたのかを誰も説明できずにいた。痛みもなければ衝撃もない。ただ、握っていたはずのものが手の中から消えていた。
最初に動いたのは、最も若い騎士だった。彼は地面に刺さった自分の剣を引き抜き、まじまじと刃を見て、それから声を上げて笑い出した。その笑い声が引き金になった。
悲鳴に似た歓声が、観覧席を吹き飛ばした。
昼、演習場に屋台が三台生えた。
碧が創造したものだった。鍋と天板と炉。材料は城の厨房から運ばせた。調理長ハルカスが自ら台車を押してきて、ミリアがその横で采配を振っている。
「玉ねぎ、あと二十! 肉は塊のまま! 鍋は大きいほうを!」
「ミリア、声が通るな」
「宿屋の娘ですので」
「肉と豆の煮込みにします。腹に溜まるやつを」
碧はそう宣言してから、鉄板に油を引いた。
作り方は簡単だった。ただし簡単なものほど、手順を飛ばすと露骨に落ちる。
肉を塊のまま鉄板へ落とす。じゅ、と短い音がして、すぐに大きな音に変わった。脂が溶けて鉄の上を滑り、焦げて、煙を上げる。その煙が演習場の風に乗って観覧席まで流れると、三百人が一斉にそちらを向いた。
表面が茶色く固まったところで取り出す。中は生でいい。あとで煮るからだ。
肉を引き上げた鉄板には、焦げと脂が残っている。そこへ玉ねぎを落とすと、しゃっ、と水の音がした。
飴色になるまでの時間だけは、祝福があっても短縮できなかった。糖が変わるのに必要な時間は、この世界でも変わらないらしい。
二十分ほどで、匂いが変わる。刺す匂いが抜けて、甘い匂いだけが残る。この瞬間だけは何度やっても飽きなかった。
そこへ酒を注ぐ。
鉄板が鳴って、白い湯気が顔の高さまで噴き上がった。焦げが浮いて溶ける。水で伸ばし、焼いた肉を戻し、豆と根菜を放り込む。三百人分ともなれば鍋の数が最大の障害になるはずだったが、鍋が足りないなら作ればよかった。碧は炉の前で四つ目の鍋を創造しながら、この力のいちばん幸福な使い方はたぶんこれだろうと思った。
騎士たちは最初、遠慮していた。
勇者に飯を作らせて自分たちが食うという構図に、全員が居心地の悪さを感じていたらしい。列の先頭で押し付け合いが起き、最終的にいちばん年かさの古参兵が代表として椀を受け取った。
男は、立ったまま食い始めた。
速かった。兵の食い方である。いつ呼ばれるかわからない身分の人間は、座らないし、味わわない。三十年以上そうやって食ってきた男の身体は、熱いものを熱いまま流し込む動作を完璧に習得していた。
三口で、椀の半分が減った。
そこで、手が止まった。
止まったこと自体が異常だった。この男が飯の途中で手を止めたのは、たぶん三十年で初めてのことだ。周囲の若い騎士が何事かと振り返るほど、その静止は目立った。
男は口の中のものを、ゆっくり噛んだ。
それから、石段に腰を下ろした。
座って食うために、である。
二人目は、匂いに負けた。
列の三番目にいた若い騎士で、こちらは古参兵とは逆だった。最初の一口を入れた瞬間に姿勢が崩れ、二口目からは匙を持ち直す暇も惜しいという食い方になった。肉を噛み、汁をすすり、息をする間に次を口へ運ぶ。勇者への遠慮はどこかへ消えていた。
三人目は、何も考えずに受け取った。前の二人を見ていたからだ。
十分後、演習場は無言になっていた。
甲冑姿の三百人が、石段に座って黙々と椀を傾けている。誰も喋らない。喋る時間を惜しんでいるという種類の沈黙だった。
音はしていた。匙が椀に当たる音、すする音、噛む音。それが三百人分、重なって低い唸りのようになっている。
おかわりを求める列が屋台の前に伸び、その列に並ぶことを恥じている者は一人もいなかった。兜を脱いだ男たちが、汗と脂で光った顔で椀を差し出してくる。
その光景を、碧は屋台の内側から眺めていた。
「……これ、どういう絵面なんだ」
「歴史でございます」
隣でミリアが真顔で言った。
「わたしはそう記録いたします」
「やめろ」
そのとき、演習場の入口が騒がしくなった。
人垣が割れて、濃い緑の衣が現れた。
リュシエンヌだった。
騎士たちが一斉に椀を置いて立ち上がろうとするのを、彼女は手で制した。それから真っ直ぐ屋台へ歩いてきた。
「アオイ殿」
「リュシエンヌ様。どうも」
「長い」
「は」
「その呼び方です。長すぎます」
王女は、当然のことを指摘するような顔で言った。
「リュシェと。わたくしを名で呼ぶ者は、この城に四人しかおりません。五人目になってください」
碧は、一瞬だけ動きを止めた。
昨日の今日である。しかも縁談は断られている。それでいてこれは、どう考えても踏み込んだ申し出だった。
「……いいんですか」
「わたくしが決めることです」
リュシェは椀を一つ取り、両手で受け取った。
ひとくち飲んで、目を丸くする。
「これは」
「騎士団の残りものですけど」
「城の厨房より旨いのですが」
「調理長には言わないでください」
「言います」
王女は椀を抱えたまま、石段のほうを振り返った。
三百人の騎士が、黙って食事をしている。武具を脇に置き、兜を外し、誰も碧を警戒していない。
「アオイ殿」
リュシェの声が、少しだけ低くなった。周囲に聞かせるつもりのない音量だった。
「今日の午前、あなたは騎士団を丸ごと味方にしました」
「そんなつもりは」
「つもりの有無は関係ありません」
彼女は椀の縁を指でなぞった。
「宰相は、今日の演習を三階の窓から見ておりました。いまごろ報告書を書いているでしょう。武力、民衆人気、神殿の支持。三つとも、たった四日で揃ってしまった」
碧は、石段の上の三階窓を見上げた。
誰もいない。ただ、窓が半分だけ開いていた。閉め忘れたのではなく、見ていたことを隠すつもりがないのだと碧は受け取った。あの男はたぶん、こちらが見上げることまで織り込んでいる。
「厄介ですか」
「厄介です」
リュシェは間を置かずに言い、それから少しだけ言い直した。
「正確には、あなたにとって厄介になります。力のある者が何もしないでいると、人は勝手に意味を読み取るものです。今日の昼食ひとつにしても、明日には十通りの解釈が王都を回っているでしょう」
「飯を作っただけなんですが」
「ええ。ですから厄介なのです」
リュシェは椀を空にして、それを碧に返した。
「ですから、しばらくわたくしが張り付きます。よろしいですね」
「……質問の形になってませんけど」
「なっておりません」
王女は、昨日と同じように目を細めて笑った。
その背後で、剣聖ダインが三杯目をよそっていた。三杯目に気づいた古参兵たちが露骨に呆れた顔をしているのに、当の本人はまったく意に介していない。
碧は鍋の底をさらいながら、自分でも意外なほど気分がいいことに気づいた。
百人を無傷で倒したからではない。倒した相手が全員、いま自分の作ったものを旨そうに食っているからだった。厨房から見える景色として、これ以上のものはそうそうない。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
次回「創造魔法という反則」、主人公がようやく、この力のいちばんの使い道を見つけます。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




