第7話 創造魔法という反則(前編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
――夏の盛りまで、あと四日。
召喚されて五日目の朝、碧は自分の生活がどうにも落ち着かない理由をようやく特定した。
風呂に入っていないのだ。
正確には、毎晩盥に張った湯で身体を拭いている。それで清潔は保たれているし、誰も不便そうにしていない。だが碧にとって、湯に肩まで浸かるという行為は一日の終わりを告げる儀式のようなもので、それが五日間欠けていると、身体のどこかが仕事を終わらせてくれなかった。
だから何気なく訊いた。そして、風呂の話がまったく通じないことに気づいた。
「湯を、浴びるのでございますか」
ミリアの眉が、心底わからないという形に寄っていた。
「毎日か」
「毎日。無理なら二日に一回でもいいけど」
「……アオイ様。湯というのは、沸かすものでございます」
少女は指を折り始めた。
「薪を割り、水を汲み、釜にかけ、半刻沸かして、桶に移します。それを一人ぶん。城の者は全部で二百十四人おります」
碧は、黙った。
言われてみれば当たり前の話だった。四日間、自分は毎晩、湯を張った盥を部屋へ運んでもらっていた。運んでいたのは誰かだ。その誰かは、そのために薪を割り、水を汲み、釜の前に立っていた。
実家の店でも同じことがあった。客からすれば料理は出てくるものだが、出てくるまでには仕込みがあり、洗い物があり、ゴミ出しがある。碧はそれを知っている側の人間のはずだった。それでも、自分が客の側に回った途端に見えなくなっていた。
「……ごめん。考えてなかった」
「謝らないでください。勇者様に湯をお運びできるのは名誉でございますので、侍女たちは取り合いになっております」
「取り合い」
「昨日は籤引きでした」
碧は額を押さえた。
この国に来て四日。自分は毎晩、籤引きの景品になっていたらしい。
「ミリア。城の水は、どこから来てる」
「北の井戸が一本です。それと、雨水を溜める槽が三つ」
「使った水は、どこへ行く」
「……どこへ、とは」
その返しで、碧は理解した。
この城には、下水がない。
その日の午後、碧は城の裏手を歩いた。
案内したのは井戸番の男だった。五十がらみの、日に焼けた顔をしている。
「北の井戸は、代々この城の命でございます。夏でも涸れませぬ」
「水はきれいですか」
「きれいでございます。……ただ」
男は言い淀んだ。
「ここ十年ほど、夏になると濁る日がございます。濁った日に水を使うと、腹をやられる者が出ますので、その日は使わぬようにしておりまして」
「その日を、どうやって見分けるんですか」
「汲んでみて、濁っておれば、でございます」
井戸番の男は、そう答えてから、自分の言葉の頼りなさに気づいたように口を閉じた。
それはそうだろう、と碧は思った。水が濁っているかどうかを事前に知る方法など、この世界の誰も持っていない。持っていないから、毎年誰かが腹を壊す。壊した者は運が悪かったということになり、そこで話が終わる。
終わらせてきた期間が、十年ぶんある。
碧は井戸を覗き込んだ。
暗い。だが祝福を得た目には、水面のさらに下まで見えた。見えてしまった。
地下の水脈が、一本ではなかった。太い流れが北から来ていて、そこに南から細い流れが合流している。細いほうは、城の南側の斜面を伝ってきていた。
城の南側には、厨房がある。洗い場がある。厩がある。そして、使用人の住む棟がある。
碧は顔を上げた。
「井戸の南側、五十歩くらいのところに窪地がありますね」
「ございます。水捨て場でございます」
「使った水は、そこに捨てますか」
「左様でございます。昔からそのように」
答えが出た。
十年前あたりに城の人口が増えたか、あるいは雨の降り方が変わったかして、捨てた水が地下で井戸の水脈に届くようになった。夏に濁るのは、暑い時期のほうが水を多く使うからだ。
単純な話だった。単純だからこそ、誰も気づかないまま十年が過ぎていた。
「これ、直します」
「は」
「今日中に」
井戸番の男は、桶の縄を取り落としそうになった。
碧はまず、地面に座り込んだ。
掌を石畳につけ、目を閉じる。
創造魔法というのは、何もないところに物を出す力だと思っていた。だが四日間いじり回してみてわかったのは、それだけではないということだった。
この力は、地面の下に何があるかを先に教えてくる。
石畳の下に、粘土の層がある。その下に砂利。さらに下に岩盤。水脈は岩盤の割れ目を通っている。どこに何を通せば水がどう流れるかが、設計図としてまるごと頭に入ってきた。
この感覚を、碧は最初の三日間ずっと持て余していた。
物を出すだけなら、覚えることは少ない。形を思い描いて、そこに重さを置くだけだ。だが地面に触れた途端、頭の中へ流れ込んでくる情報量が一気に跳ね上がる。土の層、水の道、岩の割れ目、そこを通る力の向き。全部が同時に見える。
昨夜、寝る前にようやく気づいた。
この力は、たぶん物を出すための力ではない。世界がどう組み上がっているかを理解して、そこへ手を入れるための力だ。物が出るのは、その副産物にすぎない。
だとすれば、使い道はいくらでもある。
碧は目を開けた。
「ミリア。城の人に、今日の夕方まで裏手へ来ないように伝えてくれるか」
「危険でございますか」
「いや。びっくりすると思うから」
少女は数秒考えて、それから真顔で言った。
「全員、見たがると思います」
結果として、その予想は正しかった。
三時間後、城の裏手には百人以上が集まっていた。
止めても来る。止める役のミリアが止めきれず、最終的にリュシェが「見せてやりなさい」と言って許可を出した。王女自身も一番前で腕を組んでいる。
碧は、窪地の前に立った。
近づくと匂いがした。城の裏手にこれだけの人間が集まっているのに、誰も顔をしかめないのが妙だった。この匂いは、この城の人間にとって昔からそこにあるものなのだろう。
匂いに慣れるというのは、たいていの場合、危険に慣れるということだ。
「まず、ここを埋めます」
右手を地面に向ける。
窪地に溜まっていた汚水が、湯気も立てずに消えた。分解したのではない。碧はそれを水と、それ以外のものに分けただけだ。分けた水は透明になって地面へ染み、残りは乾いた土くれになって沈んだ。
群衆が、どよめいた。
「次に、道を作ります」
碧は城の南棟に向かって歩き出した。歩きながら、右手を後ろに流す。
石畳が音もなく割れ、下の土が沈み、そこに素焼きの管が現れた。管は碧の歩く速さで伸びていく。厨房の真下を通り、洗い場の下を抜け、厩の脇をかすめ、城壁の外へ向かって伸びていった。
群衆が、碧の後をついてきた。
誰も声を出さない。ただ、足元で石畳が割れて土が沈み、そこに管が生えてくるのを見ながら歩いている。ある者は手を合わせ、ある者は子どもを抱き上げて見せていた。
途中、厨房の裏を通ったとき、洗い場の女たちが手を止めてこちらを見ていた。碧は管を伸ばしながら、そのうちの一人に声をかけた。
「この下に、水を捨てる道を通しました。桶で運ばなくて済みます」
女は返事をしなかった。かわりに、隣の女の腕を強く掴んでいた。
城壁の外に出ると、そこは荒れ地だった。碧はそこに、深い槽を三つ作った。石で組み、内側を隙間なく塗り固め、底に細かい砂利と砂と炭の層を敷く。
「これは、汚れた水を溜めて、きれいにする場所です」
碧は説明した。誰も理解していない顔をしていたので、噛み砕いた。
「一つ目の槽で、重いゴミを沈ませます。二つ目で、ゆっくり流しながら細かいものを漉します。三つ目で、炭に通して匂いを取ります。ここまでやった水は、畑に撒けます」
実のところ、碧はこの仕組みを厳密に理解しているわけではなかった。中学の社会科見学で下水処理場に行き、そこで職員が説明してくれた話を覚えていただけだ。当時はさほど興味もなく、配られた冊子は帰りの電車で鞄の底に押し込んだ。
その半日が、いまこうして役に立っている。
役に立つと知っていたら、もっと真面目に聞いておいたのに、と碧は思った。
「畑に」
群衆の中から、声が上がった。老いた農夫だった。
「撒いて、よろしいのですか」
「むしろ、いいです。野菜がよく育ちます」
農夫は口を開けたまま固まり、隣の男に肩を揺すられていた。
次は、上だった。
碧は城へ戻り、北の井戸の横に立った。
「ここから、城の中へ水を引きます」
「引く、とは」
「桶で運ぶのをやめます」
碧は井戸の脇に塔を作った。
高さは十五メートルほど。基礎を岩盤まで打ち込み、石を積み上げ、上部に大きな槽を据える。そこへ井戸から水を汲み上げる仕掛けを組み込んだ。
動力は風にした。魔法で動かしてもよかったが、それだと碧がいなくなった瞬間に止まる。塔の上に四枚の羽根を載せ、王都に年じゅう吹いている西風を受けて回るようにした。
これなら、自分が明日この国を出ても動き続ける。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




