第7話 創造魔法という反則(後編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
その設計思想は、無意識のうちに選ばれたものだった。自分が去ったあとを前提に物を作っている。碧はそれに気づいて、少しだけ手を止めた。
槽が満ちたところで、碧は城へ向けて管を伸ばした。
管は城壁を貫き、廊下の下を走り、各階へ枝分かれし、厨房と洗い場と侍女の詰所と、そして二階の一室へ届いた。
碧はその部屋へ向かった。群衆もついてくる。
部屋は物置だった。埃をかぶった椅子と、脚の折れた机と、用途のわからない金具の箱が積み上げてある。碧は中の物を全部外へ運び出し、壁を削って平らにし、床を水に強い石へ張り替えた。
そこに、石造りの槽を据える。
大きさは、大人が三人並んで浸かれるくらいにした。実家の風呂より、はるかに大きい。
そして、管の端に金具を取り付けた。
「見ててください」
碧は金具をひねった。
水が、出た。
太い柱になって槽に落ちていく。勢いは止まらない。ひねり続けているあいだ、ずっと出続けている。
部屋の外に詰めかけた百人が、声を失った。
「……アオイ殿」
リュシェが、初めて感情のこもった声を出した。
「いま、何をなさいましたか」
「水道です。ひねれば水が出ます。閉めれば止まります」
「桶は」
「いりません」
王女の手が、わずかに震えていた。
碧は続けて、槽の底に別の金具を付けた。もう一本の管を、下の炉につながっている経路に接続する。
「こっちをひねると、湯が出ます」
「湯」
「沸かさなくていいやつです」
誰かが、悲鳴を上げた。
侍女の一人だった。その女性は両手で口を押さえ、それから崩れるように膝をついた。
「……薪を、割らなくて」
「割らなくていいです」
「毎日、二百人分を」
「もう、いりません」
周囲の侍女が次々に同じ姿勢になり、数分後には廊下じゅうが妙に静かになった。
碧は、その光景を見て立ち尽くした。
便利な道具を作っただけのつもりだった。だが、この城で毎日薪を割っていた人間にとって、それは十年分か二十年分の労働がまるごと消えるという意味だった。
「アオイ殿」
リュシェが、静かに言った。
「あなたは今日、この城の女たちを丸ごと味方にしました」
「今日もですか」
「今日もです」
リュシェは廊下の泣き声を見渡し、それから小さく息を吐いた。
「昨日は騎士団、今日は侍女。このままでは、来週には王都の全員が貴方の側につきます」
「そんなつもりは」
「ないのでしょうね。だから厄介なのです」
王女はそう言って、それ以上は何も言わなかった。
夜になる前に、碧は給水塔の下へ戻った。
羽根が、規則正しく回っている。その音を聞いていると、なぜか落ち着いた。
「たくさん、作りましたね」
振り向くと、エルフィリアが立っていた。
今日は姿を見なかった。神殿の者に聞いたら、朝から誰とも会っていないという。どこにいたのかを訊こうとして、碧はやめた。神様の予定を人間が管理するものでもない。
「怒られると思ってました」
「なぜです」
「世界の仕組みをいじった気がするので」
エルフィリアは塔を見上げ、それから首を横に振った。
「怒りません。むしろ、驚いていました」
「驚く」
「創造の力を持った者は、これまでにも何人かいました。みなさん、武器を作りました」
彼女は、羽根の回る音に耳を澄ませるような顔をした。
「剣を作り、鎧を作り、城を作った方もいます。水を流した方は、あなたが初めてです」
碧は、返す言葉を持たなかった。
「アオイ。ひとつだけ、覚えておいてください」
碧は短く頷いた。
「この力は、あなたが何を大事にしているかを、そのまま外に出す力です」
エルフィリアは碧を見上げた。夕暮れの光で、青い目が別の色に見えた。
「だから、隠せません。あなたがこれから何を作るかで、あなたがどういう人かが全部わかってしまいます」
「……怖いことを言いますね」
「怖くありません」
彼女は笑った。
「今日わかったのは、あなたが人の手間を減らしたい人だということです。わたしは、それを知れてよかったです」
その日の夜、碧は厨房にいた。
最後にひとつ、作りたいものがあったからだ。
「ハルカスさん。この部屋、使っていいですか」
調理長が案内したのは、厨房の奥の石室だった。夏でもひんやりしているが、それでも肉は三日ともたないという。
碧は壁に手を当てた。
仕組み自体は、理科の授業で習ったやつだった。気体を圧縮して、それを膨張させると熱を奪う。冷蔵庫の裏側が熱いのはそのためだ、と教師が話していたのを覚えている。
原理さえわかっていれば、あとは形を思い描くだけでよかった。部品の一つ一つがどう働くかを知らなくても、創造魔法のほうが勝手に整合を取ってくれる。便利すぎて、少し怖い。
石室の壁に管が走り、隅に箱が生まれ、そこから低い唸りが聞こえ始めた。
十分後、室温が下がった。
二十分後、碧が置いた水の入った器に、薄い氷が張った。
ハルカスが器を持ち上げ、氷を指で突いた。突いて、割れて、冷たいことを確かめて、それから厨房の床に座り込んだ。
「……夏に、氷が」
「作れます。あと、この部屋なら肉は十日もちます」
「十日」
「魚も運べます。港からここまで、何日ですか」
「三日でございます。ですので、この城では魚は塩漬けしか」
「なら、生のが食えます」
老人は両手で顔を覆った。
厨房に立つ人間にとって、扱える食材が増えるというのは、世界がひとつ広がるのと同じ意味を持つ。碧にはそれがわかった。わかるから、何も言わずに待った。
ハルカスはしばらくそのままでいて、やがて顔を上げると、涙も拭かずに言った。
「明日、港へ人をやります」
ミリアが横で、しきりに何かを書き付けている。碧が覗き込むと、走り書きの帳面だった。
「何を書いてるんだ」
「記録でございます」
「またか」
「またです」
少女は顔を上げた。目が異様に輝いていた。
「アオイ様。これ、城だけの話ではございません」
「うん?」
「王都の下町には、井戸が六つしかありません。夏に腹をやられて死ぬ子どもが、毎年おります」
碧は、手を止めた。
ミリアの声は震えていなかった。震えないように、あらかじめ何度も練習してきた者の言い方だった。彼女はたぶん、今日の午後からずっとこれを言う機会を探していたのだ。
ミリアは帳面を胸に抱えて、まっすぐに碧を見ていた。
「わたしの生まれた通りでも、三年前に二人」
沈黙が落ちた。
碧は石室の壁に背を預け、天井を見上げた。
四日間、自分の力をどう使うかをずっと考えていた。魔王を倒すのかもしれない。民を守るのかもしれない。そのどれもが遠すぎて、実感が湧かなかった。
だが、これは近かった。
井戸が六つしかない。水を捨てる場所がない。だから毎年、子どもが死ぬ。
それは自分に直せる問題だった。今日、たった三時間で直せた問題だった。
「ミリア」
「はい」
「下町の地図、手に入るか」
少女の目が、見開かれた。
「……ございます。神殿の記録庫に、税の台帳と一緒に」
「持ってきてくれ。あと、井戸の位置がわかるやつも」
「明日で、よろしいでしょうか」
「今夜がいい」
ミリアは帳面を落としそうになって、慌てて抱え直した。
それから深く頭を下げ、走って厨房を出ていった。足音が遠ざかり、途中で一度つまずいて、また走り出すのが聞こえた。
碧は石室に残り、薄く張った氷をもう一度見た。
この五日間でわかったことがある。自分がもらった力は、たしかに反則だった。ただ、反則を使って何をするかは、まだ誰にも決められていない。
同じ頃、城の三階では。
宰相ザルドスが、窓の外に立った塔を見上げていた。
手元の報告書には、この三時間に起きたことが箇条書きで記されている。汚水処理施設、給水塔、水道、湯の供給、冷蔵室。
そのどれにも、値段がついていなかった。
「……閣下」
背後の書記が、恐る恐る声をかけた。
「これは、どのように記録すればよろしいでしょうか。費用がかかっておりませぬので、支出の欄に書けませぬ」
「書かんでいい」
ザルドスは、窓を閉めた。
彼の頭の中では、すでに別の計算が動いていた。
あの若者は無尽蔵に価値を生む。生むが、対価を取らない。取らないということは、誰かが代わりに取れるということだ。
水道を他国へ売ればいい。冷蔵室の権利を商人に握らせればいい。そして、その全部を勇者の善意という包装で包めば、誰も文句を言わない。
宰相は微笑んだ。
「勇者殿には、もう少し働いていただこう」
問題があるとすれば、あの若者が金にまったく興味を示さないことだった。興味のない人間は買収できない。買収できない人間は、別の方法で動かすしかない。
ザルドスは書記を下がらせ、机の抽斗から一通の書簡を取り出した。封蝋には、この国のものではない紋章が押されている。
「……さて。どの順で使うか」
そのとき、窓の外で影が動いた。
ザルドスは気づかなかった。
城の屋根の上を、黒い布に身を包んだ影が三つ、音もなく滑っていた。向かう先は、二階の客間だった。
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隠岐群青




