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第8話 闇夜の刃(前編)

これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。


主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……

 ミリアが地図を抱えて戻ってきたのは、夜の鐘が二度鳴ったあとだった。

 扉を開けると、少女は息を切らしていた。腕にひと抱えぶんの巻物を載せ、その上に台帳を二冊重ねている。落とさないように顎で押さえているせいで、まともに喋れない状態だった。

「お、おまた、せ、しました」

「走ってきたのか」

「走って、おりませ、ん」

「息が上がってるぞ」

「歩幅を、広くしました」

 碧は巻物を受け取り、卓の上に広げた。

 王都の地図だった。城を中心に、街区が同心円状に描かれている。内側の三つの環は線が丁寧で、建物の一軒一軒まで描き込まれていた。ところが四つ目の環から外は、急に雑になる。通りの名前すら書かれていない区画があった。

「この外側は」

「下町でございます」

 ミリアが横から覗き込んだ。

「正確には、南外壁通りから南が全部そう呼ばれております。台帳の上では、四つの区に分かれているのですが」

「分かれてない書き方だな」

「はい。まとめて『南』でございます」

 碧は指で地図をなぞった。

 城下の中心部には、井戸の印が十七ある。内側の環だけで十七だ。

 指を南へ滑らせる。

 六つ。

 南の区画全部を合わせて、六つしかなかった。

「人口は」

「城下全体で、およそ八万。そのうち南に住んでいるのが、三万五千と記録されております」

「三万五千人で、井戸が六つ」

「はい」

 碧はしばらく地図を見つめた。

 単純な割り算をする気にもならない数字だった。城の敷地には、今日作った給水塔を別にしても井戸が二つある。そこに暮らしているのは二百人だ。

 この差は、誰かが悪意を持って作ったものではないのだろう。城は最初にそこへ建てられ、水のある場所に人が集まり、集まりきれなかった者が外側へ押し出されていった。それを何百年も繰り返した結果が、この地図だった。

 悪意がないほうが、たちが悪い。責める相手がいないからだ。

「ミリアの家は、どのあたりだ」

「ここです」

 少女は迷いなく一点を指した。地図の上では、通りの名前すら書かれていない場所だった。

「宿屋をやっていると言ってたな」

「はい。母が女将で、父は五年前に。わたしは十三のときに神殿に上がりました」

「なんで神殿に」

「読み書きができましたので」

 ミリアは台帳をめくりながら、あっさりと言った。

「宿には帳簿がございます。母が計算を嫌がるので、わたしがやっておりました。それを見た神官様が、記録係の見習いにならないかと」

「働き口としては、いいほうか」

「最上でございます。飯が三度出ますので」

 その言い方に、含みはなかった。事実を述べているだけの口調だった。

 碧は台帳に目を落とした。

 言語理解のおかげで、びっしり並んだ数字の意味が一瞬で頭に入る。南の区画の納税額、人口の推移、そして死亡記録。

 夏場の死亡者数が、他の季節の二倍以上あった。

 その多くが、十歳未満だった。

 死因の欄はほとんどが空白か、あるいは「疫」の一字だけで処理されている。役所にとって、南の区画で夏に子どもが死ぬのは、記録すべき事件ではなく毎年繰り返される天候の一種なのだ。

 碧は台帳を閉じた。閉じてから、自分の指先が冷えていることに気づいた。

「……ミリア」

「はい」

「明日、案内してくれるか」

 少女が顔を上げた。

 何かを言いかけて、口を閉じた。それから、小さく頷いた。

 そのとき、碧の首の後ろが、ちりりと熱くなった。

 最初は気のせいかと思った。今日は一日じゅう地面をいじっていたので、単に疲れが出ただけだろうと。

 だが、それは違った。


 感覚としては、油の温度が上がりすぎたときに似ていた。

 何も見ていない。何も聞こえていない。ただ、この部屋の空気の中に、さっきまでなかった密度が加わっている。

 碧は地図から目を離さないまま、ミリアの肩に手を置いた。

「そのまま、しゃがめ」

「え」

「いいから」

 ミリアが卓の下に身を沈めたのと、天窓の硝子が割れたのは同時だった。

 落ちてきたのは三つだった。

 人影だ。黒い布で全身を包み、目だけを出している。天窓から床までは五メートル近くあるはずなのに、着地の音がまったくしなかった。石の上に降りて、そのまま音も立てずに三方向へ散開する。

 訓練されている、という言葉では足りない動きだった。これは、この動作だけを何千回も繰り返してきた身体の動きだ。

 碧は立ち上がった。

 左の一人が、すでに間合いに入っていた。

 短刀が下から来る。腹を狙った角度だった。剣技の祝福が、その軌道を勝手に読み取る。刃先の高さ、手首の角度、踏み込みの深さ。全部が一瞬で図になった。

 碧は、動かなかった。

 避けられた。避けるべきだった。手も足も、身体のどこも動かそうと思えば動かせる状態にあった。それどころか、この距離なら相手の手首を掴んで短刀を奪うところまで、頭の中に道筋ができていた。

 だが、その一瞬に別の情報が入り込んできた。

 刃が、震えている。

 持ち手が震えているのだ。この距離で、この角度で、明らかに本職の技術を持っていながら、手が震えている。

 碧は、その刃を腹で受けた。

 金属が肉に当たる音がした。

 ミリアの悲鳴が上がった。

 短刀は、止まっていた。服は裂けている。だが皮膚に届いていない。刃先が碧の腹の表面で、見えない壁に押し当てられたように停止していた。

 黒い布の男が、息を呑んだ。

「……硬ぇ」

 若い声だった。予想していたより、ずっと若い。

 碧は男の手首を掴んだ。

「その刃、毒が塗ってあるな」

「っ」

「無駄だと思う。試してみるか」

 男が飛び退こうとした。碧は手を離してやった。

 同時に、右と背後から二つ来た。

 右の一人は吹き矢だった。細い針が三本、ほぼ同時に飛んでくる。狙いは喉と胸と太ももで、三本とも致命傷になり得る位置だった。

 碧は首を傾けることすらしなかった。針は狙いどおりの場所に当たり、そして跳ね返って床に落ちた。乾いた音が三度、続けて鳴った。

 背後の一人は、細い鋼線を首にかけてきた。

 碧はそれを両手で掴み、軽く引いた。

 引いた勢いで、背後の男が碧の頭上を越えて前方へ飛んだ。受け身を取ったのはさすがだった。

 三人が、部屋の三方に散って止まった。

 誰も動かない。

 碧は、自分の胸の内側にある感情を探していた。恐怖はなかった。怒りもなかった。ほんの少しだけ、いま起きていることを他人事のように眺めている自分がいて、それが不気味だった。

 三人の人間が本気で自分を殺そうとしている。それは間違いなく異常な事態のはずだった。なのに、心拍がひとつも上がっていない。

 力が強すぎると、恐怖まで奪われるのかもしれない。碧はそう思って、その考えをいったん頭の隅へ押しやった。

 碧は、そこで初めて口を開いた。

「毒は効きません。刃は通りません。たぶん、火も水も効きません」

 自分でも呆れるような台詞だった。

「そっちの手が尽きるまで待つので、終わったら話をしませんか」

 沈黙が落ちた。

 最初に動いたのは、吹き矢の男だった。

 懐から小さな瓶を取り出し、蓋を開け、口へ運ぶ。

 碧の身体が、考えるより先に動いた。

 三歩の距離を、一歩で詰めた。瓶を叩き落とす。中身が床にこぼれ、石が黒く変色した。

「飲むな」

「……離せ」

「なんでだ」

「失敗した者は、口を割る前に死ぬ。決まりだ」

 男の声は落ち着いていた。落ち着きすぎていた。

 碧は男の腕を掴んだまま、その顔を覆う布を見た。目だけが見えている。その目には、恐怖も憎しみもなかった。ただ、手順を実行しようとしている者の目だった。

「……あんた、いくつだ」

 男は答えなかった。

 かわりに、もう片方の手で舌を噛もうとした。

 碧は顎を掴んで止めた。そして、治癒の祝福を流し込んだ。

 男の身体が、跳ねた。

「なにを、した」

「毒を抜いた」

 碧は手を離した。

「さっき床にこぼしたやつと同じものが、あんたの血に混ざってた。たぶん常用してる。量を増やさないと動けなくなるやつだ」

 男が、自分の掌を見た。

 震えが、止まっていた。

 その震えは、恐怖によるものではなかったのだ。

「……なんで」

「いま、それどころじゃないだろ」

 碧は、残りの二人を見た。

 二人とも、動けずにいた。


 結論から言えば、三人は一晩じゅう碧の部屋にいた。

 縛りはしなかった。逃げようと思えば逃げられたはずだが、誰も逃げなかった。逃げる理由がなくなっていたからだ。

 碧は三人の布を外させた。

 いちばん年上で二十四。最年少は十七だった。碧よりひとつ下だ。三人とも痩せていて、そして全員が同じ種類の傷を持っていた。手首の内側と、足首と、首筋。何かで長く縛られていた跡だった。

 傷を見た瞬間、碧の中で治癒の祝福が勝手に働いた。

 手首の跡は鉄の枷によるもので、足首の跡は鎖だった。首筋のそれは首輪だ。しかも、つけられた時期が一度ではない。成長に合わせて何度も付け替えられている。

 つまり、子どもの頃から続いている。

「孤児です」

 最年長の男が、床に座ったまま言った。名をカイと名乗った。

「五つか六つの頃に集められて、組で育てられました。読み書きは教わっていません。刃と、毒と、屋根の渡り方だけ」

「組というのは」

「名前はありません。あるのかもしれませんが、我々は知らされていません」

 カイの説明は、事務的で、そして淡々としていた。

 組には百人ほどの子どもがいて、十五になるまでに半分以下に減るのだという。減った者がどこへ行ったのかは誰も訊かない。訊いた者もまた減るからだ。生き残った者は三人一組にされ、以後はその三人で仕事を受ける。

「三人一組なのは」

「一人が失敗したとき、残りの二人が始末するためです」


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


今日も1日よろしくお願いします。

2時間おきに計6本をお届けしたいと思います。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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