第8話 闇夜の刃(後編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
ミリアが水差しを取り落としそうになった。
「今夜も、そうだったのか」
「はい。トウジが最初に動いて、しくじりました。本来であれば、我々二人がトウジを」
カイはそこで言葉を止め、自分の手を見下ろした。
「……できませんでした。あなたが、先に毒を抜いてしまったので」
碧は黙って聞いていた。
口を挟まなかったのは、挟むべき言葉が見つからなかったからだ。同情を口にするのは簡単だが、この三人が欲しがっているものがそれだとは思えなかった。
ミリアは卓の陰から出てきて、いつの間にか三人に水を配っていた。この少女の度胸は、どこか常軌を逸していると碧は思った。つい一時間前まで刃物を持って踏み込んできた相手に、こともなげに水を渡している。
もっとも、彼女なりの理屈はあるようだった。あとで訊いたら「喉が渇いた人には水を出すものです」と言われた。宿屋の娘の答えだった。
「依頼主は」
「知りません。我々に知らされるのは、場所と、顔と、期限だけです」
「前金は」
「これです」
カイは懐から布袋を出した。中身は金貨だった。碧は数えなかったが、ミリアが覗き込んで手を止めたので、相当な額らしい。
碧は袋そのものを見た。
口を閉じている紐に、蝋の封がついていた。押された紋章は、二頭の獣が向かい合って、中央の剣を支えている図案だった。
覚えのある意匠ではなかった。ただ、グランヴェル王国の紋章とは明らかに違う。この国の紋は、鍵と麦だ。
「これ、どこの紋だ」
「存じません」
そのとき、廊下から足音がした。
複数だった。走っている。
扉が開いて、剣聖ダインが飛び込んできた。抜き身を提げている。その後ろに近衛が十人、さらにその後ろに、寝間着の上に外套を羽織っただけのリュシェがいた。
部屋の中を見て、全員が止まった。
止まるのも無理はなかった。彼らが想定していた光景と、目の前にある光景が噛み合っていなかったのだろう。血もなければ悲鳴もない。かわりに、割れた天窓から夜風が入ってきているだけだった。
割れた天窓。床に落ちた針と鋼線。黒装束を脱いだ三人の若者。そして、その真ん中で水を配っているミリア。
「……アオイ殿」
ダインの声が、ひどく低かった。
「ご無事でございますか」
「無事です。誰も怪我してません」
「そこにおる者たちは」
「客です」
部屋が、しんとした。
「アオイ殿」
リュシェが一歩前に出た。声が冷たかった。
「その者たちは、あなたを殺しに来たのでしょう」
「はい」
「なぜ生かしておいでですか」
「殺す理由がないからです」
碧は、床に座った三人を見た。
「毒が効きませんでした。刃も通りませんでした。この人たちは、失敗した時点で全部終わってます。俺がここで殺したら、それは処刑じゃなくて後始末です」
「……」
「あと、こいつら、たぶん飯を食ってません」
碧は最年少の少年を指した。名をトウジと名乗った十七歳は、ミリアから受け取った水を両手で持ったまま、ずっと膝を震わせていた。
リュシェは長く黙っていた。
この王女は、感情で物を言う人ではない。いま彼女の頭の中では、碧の判断を認めた場合に生じる面倒と、認めなかった場合に生じる面倒が、天秤にかけられているはずだった。
それから、深く息を吐いた。
「……父上に、なんと報告すれば」
「王様なら、たぶん怒らないと思います」
「怒りません。父上は面白がります。困るのはわたくしのほうです」
王女は前髪をかき上げ、それから初めて実務的な口調になった。
「団長。この三名を、あなたの預かりにできますか」
「牢ではなく、でございますか」
「牢に入れれば、明日には口を塞がれて死にます。城の牢に手が伸びないと思うほど、わたくしは楽観的ではありません」
ダインが顎を撫でた。
「騎士団の宿舎に空きがございます。三名程度なら、目も届きますな」
「では、そのように」
碧は卓の上の布袋を取り、リュシェに差し出した。
「これ、前金だそうです。封蝋を見てください」
王女は袋を受け取り、蝋の紋章に目を落とした。
そして、動きを止めた。
三秒。碧はその三秒を、はっきりと数えた。
リュシェの顔から、表情という表情が消えていた。血の気が引いたのではない。感情を出さないという訓練が、反射的に作動した顔だった。
「……リュシェ様」
「これは」
彼女は袋の口を閉じ、それを外套の内側へしまった。
「お預かりします」
「知ってる紋なんですね」
「存じません」
嘘だ、と碧は思った。
この二日でわかったことがある。この王女は、嘘をつくときだけ返事が早い。
「リュシェ様」
「アオイ殿」
彼女は顔を上げた。目だけが、まっすぐだった。
「三日、お待ちいただけますか」
「三日」
「確かめねばならぬことがございます。確かめもせずに口にすれば、それは告発ではなく中傷になります」
碧は、その言い方に引っかかった。
告発、と彼女は言った。単に紋章の持ち主を調べるだけなら、そんな単語は出てこない。つまりリュシェは、すでに誰が関わっているかの見当をつけている。
碧は、頷いた。
この人は逃げようとしているのではない。逃げ道を潰しに行こうとしている。
「わかりました。待ちます」
「……助かります」
リュシェは踵を返し、扉の手前で一度だけ振り返った。
「アオイ殿。ひとつだけ申し上げます」
「はい」
「今夜のことを、恐ろしいと思いましたか」
碧は少し考えて、正直に答えた。
「思いませんでした。それが、いちばん怖いです」
王女はしばらく碧を見て、それから何も言わずに出ていった。
夜が明ける前、碧は三人に飯を食わせた。
厨房を借りて、余っていた肉と根菜で煮込みを作った。ハルカスが起き出してきて手伝おうとしたので、寝ていろと言って追い返した。
三人は、しばらく椀を見ていた。
最初に匙を取ったのは、最年少のトウジだった。
少年は椀を持ったまま、長いこと中身を見ていた。警戒ではない。何をすればいいのかを知らない顔だった。粥なら知っている。これは粥ではない。
トウジは肉ごと汁を掬って、粥と同じように飲み込もうとした。
飲み込めなかった。
肉が喉に引っかかって、少年は噎せた。碧が背中を叩くと、口の中のものを手のひらに吐き出しかけて、慌てて戻した。
噛むという工程が要るのだと、そこで初めて気づいたらしい。
トウジは、肉を噛んだ。
一回。二回。三回。
噛むほどに何かが出てくることに、少年は明らかに混乱していた。粥は噛んでも何も出てこない。口の中で味が変わっていくという経験そのものが、この十七歳にはなかった。
四回目の咀嚼で、動きが遅くなった。
それから、顔を上げずに食べ続けた。一口ごとに噛む回数を数えているような、ひどく慎重な食べ方だった。食べながら、声を殺して泣いていた。
「……すみません」
カイが言った。
「こいつ、味のあるものを食ったことがないんです」
「ないって、何を食ってたんだ」
「粥です。何も入っていないやつを、朝と夜に」
碧は鍋の火を落とした。
落としてから、ずいぶん長いあいだ、何も言えなかった。
言いたいことは山ほどあった。組を潰す、と言うのは簡単だ。その気になれば、たぶん明日にでもできる。だが、それを口にすればこの三人は自分を恩人として扱い始める。碧はそれを望んでいなかった。
この三人に必要なのは、新しい主人ではない。
そう考えている自分に、碧は少しだけ苦笑した。召喚されて六日目にして、随分と偉そうなことを考えるようになったものだ。
「おかわり、あるから」
結局、出てきたのはその一言だけだった。
言葉というのは、こういうときにまるで役に立たない。碧はそれを、実家の店でも何度か経験していた。仕事を失くした常連客が黙って座っていた夜も、父はただ大盛りにしただけだった。
カイが顔を上げた。
「……なぜ、我々に食わせるのです」
「鍋が余ったからだ」
「そういう話ではございません」
「じゃあ、こういう話だ」
碧は鍋の縁を指で叩いた。
「うちの店の決まりで、腹を減らしてる客は追い返さない。金がない奴は皿を洗わせる。あんたらは客じゃないけど、まあ、似たようなもんだ」
「……皿を、洗えばよろしいのですか」
「洗ってくれるなら助かる」
三人は顔を見合わせた。
それから、無言で立ち上がった。
暗殺者三人が並んで皿を洗っている光景を、碧は生涯忘れないだろうと思った。ミリアがまた帳面を出そうとしたので、今度はきっちり止めた。
洗い物が終わる頃には、窓の外が白み始めていた。
トウジという名の少年が、最後の椀を拭きながら、独り言のように言った。
「……あの。明日も、皿はありますか」
碧は手を止めた。
そこにあったのは、命乞いでも取引でもなかった。もっと単純で、もっと切実な問いだった。
「ある」
碧はそう答えた。
「毎日ある。うんざりするほどある」
少年は椀を棚に戻し、それから小さく頷いた。
夜が、明けていた。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




