↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/42

第9話 南の水(前編)

これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。


主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……

――夏の盛りまで、あと三日。


 南外壁通りを越えた瞬間に、匂いが変わった。

 城下の中心部は、石と水と、焼きたてのパンの匂いがする場所だった。それが一本の通りを境にして、まったく別のものに入れ替わる。汗と、煮炊きの煙と、洗っていない布と、そしてその奥にうっすらと混ざっている腐敗の匂い。

 碧は歩きながら、それを分析しようとして、途中でやめた。

 嗅ぎ分けることに意味はない。こういう匂いは、水が足りない場所では必ず発生する。それだけの話だった。

「思ったより、静かですね」

「朝はこんなものです」

 隣を歩くミリアが答えた。今日は神殿の衣ではなく、麻の質素な服を着ている。頭に布を巻いて髪を隠していた。

「働きに出る者は夜明け前に出ますので。残っているのは、年寄りと、子どもと、出られない者です」

「出られない者」

「怪我人と、病人です」

 碧はそちらを見た。

 ミリアは前を向いたまま歩いている。自分の生まれた場所を案内しているという感傷を、この少女は徹底して外に出さなかった。それがかえって、彼女がどれだけ覚悟してここへ来たかを伝えていた。

 碧自身も、今日は城で借りた古い外套を羽織っていた。ミリアが選んだもので、肘に継ぎが当たっている。勇者の恰好で下町を歩けば、話を聞く前に騒ぎになるというのが彼女の判断だった。

 もっとも、その判断が正しかったかどうかは、これから明らかになる。

 後ろから、重い足音が二つ続いている。

 剣聖ダインと、リュシェだった。ダインも私服だが、体格と歩き方だけはどうにもならない。すれ違う住人が一様に道を譲っていくので、かえって目立っていた。

「姫様。その恰好は無理がございます」

 ダインが小声で言った。

「どこが無理ですか」

「背筋でございます」

 リュシェは麻の外套を羽織り、フードを目深にかぶっていた。それ自体は上手い変装だったが、歩き方がどうにもならなかった。この王女は、疲れても背中を丸めるということをしない。

「姫様、少し猫背に」

「猫背というのは、どうやるのです」

「……そこからでございますか」

 ダインが本気で頭を抱えていた。

 リュシェは真面目な顔で背中を丸めようとして、そのたびに元に戻っている。十九年かけて叩き込まれた姿勢は、一日で崩せるものではないらしい。

 碧は前を向いたまま、笑いを堪えた。


 三つ目の角を曲がったところで、行列が見えた。

 井戸だった。

 石を積んだ小さな井戸の周りに、桶を持った人間が並んでいた。数えてみると、六十人はいる。列は通りの先まで伸びていて、どこが端なのか碧の位置からは確認できなかった。

 並んでいるのは、ほとんどが女と子どもと老人だった。誰も喋っていない。喋る体力を温存しているというより、喋るような場所ではないと全員が承知している沈黙だった。

「これ、何時からですか」

「夜明け前からです」

 ミリアが答えた。

「井戸は一日に汲める量が決まっております。底が見えたら、その日はもう出ません」

「出なかった人は」

「翌日の列に並びます。あるいは、買います」

「買う」

 碧が聞き返したとき、通りの向こうから車輪の音が近づいてきた。

 樽を積んだ荷車だった。引いているのは二人の男で、その横を三人の男が歩いている。歩いているほうは荷を持っていない。かわりに、腰に棍棒を下げていた。

 行列の空気が、はっきりと変わった。

「水だ、水だよ」

 荷車の男が声を上げた。

「北の井戸から汲んできた、澄んだ水だ。腹を壊さねえ水だよ」

 列から何人かが離れ、荷車に近づいた。

 碧は、そのやり取りを見ていた。

 小さな瓶ひとつぶんの水と引き換えに、女が銅貨を三枚渡していた。渡す手が、少しだけためらっていた。硬貨を握り直し、それから諦めたように差し出す。その動作を、碧は実家の店でも何度か見たことがあった。

「ミリア。あれ、いくらだ」

「三バルズです」

「相場は」

「……パンが一つで、二バルズでございます」

 碧は黙った。

 水一瓶がパンより高い。しかも、その取引がこの人たちの並んでいるすぐ横で、当たり前の光景として行われている。

 列に並んでいる者は、誰も荷車のほうを見ていなかった。見ないようにしている、という種類の目の逸らし方だった。

「あの水は、本物なのか」

「本物です。北の井戸の水を、許可を取って汲んでおりますので」

「許可」

「水運びの組合がございます。組合に入っていない者が北の水を売ると、そこの棍棒を持った方々が来られます」

 碧は、荷車の脇の三人を見た。

 彼らは商売の様子を眺めているだけで、何もしていない。何もしていないことに意味がある立ち方だった。

「リュシェ様」

「……存じておりました」

 背後で、王女が低く言った。

「組合の認可は、王家が出しております。南の井戸が不足しているのは事実であり、北から水を運ぶ者がいなければ、南はもっと早く干上がります」

「必要なんですね」

「必要です。そして、必要であることが、値段を決める根拠になっております」

 リュシェのフードの内側で、口元が歪んだ。

「わたくしは十五のとき、この仕組みを改めようとして、書類を三枚書きました。三枚とも、宰相の机の上で止まりました」

 その声には、四年ぶんの苦さが詰まっていた。

 碧は、この王女がなぜ昨日あれほど早く動いたのかを理解した。彼女はずっと前から、この国のどこかが腐っていることを知っている。知っていて、動かせずにいた。

「止められた理由は、聞きましたか」

「聞きました。時期尚早である、と」

「四年経ちましたね」

「ええ。いまも時期尚早だそうです」


 行列の中ほどに、しゃがみこんでいる子どもがいた。

 五つか六つだろうか。自分の背丈ほどもある桶を横に倒して、その縁に頭を預けている。

 碧は足を止めた。

 止めた理由は、治癒の祝福が勝手に働いたからだった。

 子どもの身体の中が、見えた。

 腸が炎症を起こしている。原因は水に混ざった何かで、それが三日ほど続いている。身体は水分を失い続けているのに、飲める水がないので補給ができない。

 あと半日か一日で、この子は立てなくなる。立てなくなってから死ぬまでは、さらに二日かからない。

 碧は、台帳で見た数字を思い出した。夏場の死亡者の多くが十歳未満。死因の欄は、疫の一字だけ。

 この子は、その一字になる手前にいた。

「ミリア」

「……はい」

「あの子の親は」

 ミリアが素早く周囲を見回し、それから列の前方を指した。

 若い女が振り返り、子どもの様子を見て、また前に向き直った。列を離れられないのだ。離れれば順番を失う。

 碧は歩いていった。

 歩きながら、自分の中で何かが切り替わるのを感じた。

 昨夜まで、碧はこの力の使い道を慎重に選ぼうとしていた。目立ちすぎれば政治に利用される。派手にやれば誰かの商売を壊す。だから順番を考え、影響を測り、いちばん角の立たない方法を探していた。

 いま、その全部がどうでもよくなった。

 子どもの前でしゃがむ。

「おはよう」

 子どもは顔を上げなかった。力が残っていない。

「触るぞ」

 碧は小さな背中に手を当てた。

 治癒は、三秒で終わった。

 炎症が引き、水分が満ち、体温が正常に戻る。傷んでいた腸の壁が組み直され、失われた分の血が作られ、目の下の隈まで消えていった。

 子どもの目が開いた。焦点が合い、そして碧の顔を見て、ぽかんとした。

「おじさん、だれ」

「おじさんじゃない」

 碧は立ち上がった。

 そして、子どもの横に倒れていた桶を起こした。

 右手を向ける。

 桶の中に、水が満ちた。

 周囲の空気が、止まった。

 列の全員が、こちらを見ていた。

「……いま」

「水が」

「桶に、水が」

 ざわめきが、波のように広がっていった。

 碧はもう一つ手近な桶を取り、同じことをした。それから三つ目、四つ目。列の前のほうまで歩きながら、置かれた桶を次々に満たしていく。

 水を出すこと自体は、なんの苦労もなかった。魔力は減らないし、手順もいらない。掌を向けて、そこに水があるべきだと思えばいい。

 それが六日前まで当たり前にあった蛇口と、同じ機能しか果たしていないという事実に、碧は今さら腹が立った。

 誰も止めなかった。誰も声を出せなかった。

 列の先頭まで行ったとき、碧は井戸を覗き込んだ。

 底が見えていた。水面が、ほとんど残っていない。

 碧は井戸の縁に手を置いて、目を閉じた。

 石は、手のひらの形にすり減っていた。何百年ぶんの、同じ場所に置かれ続けた手の跡だった。

 地下が見えた。

 この井戸は、細い水脈の端にかろうじて届いているだけだった。本流は、ここから二十メートル東の、地下十八メートルを流れている。掘った当時の技術では、そこまで届かなかったのだ。

 碧は目を開けた。

「すみません。少し下がってください」

 人が割れた。

 碧は右手を地面に向けた。

 石畳が沈み、土が退き、岩盤が割れる音がした。地面の下で何かが起きているのは全員にわかったが、上から見えるものは何もなかった。

 十秒後、碧は手を下ろした。

「もう一回、汲んでみてください」

 いちばん前にいた老人が、恐る恐る桶を下ろした。

 縄が、いつまで経っても軽くならない。

 老人が慌てて引き上げると、桶は満杯だった。水が縁から溢れ、石畳に落ちた。

 老人は桶を抱え、それを何度も覗き込み、それから声を上げて泣いた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。