第9話 南の水(前編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
――夏の盛りまで、あと三日。
南外壁通りを越えた瞬間に、匂いが変わった。
城下の中心部は、石と水と、焼きたてのパンの匂いがする場所だった。それが一本の通りを境にして、まったく別のものに入れ替わる。汗と、煮炊きの煙と、洗っていない布と、そしてその奥にうっすらと混ざっている腐敗の匂い。
碧は歩きながら、それを分析しようとして、途中でやめた。
嗅ぎ分けることに意味はない。こういう匂いは、水が足りない場所では必ず発生する。それだけの話だった。
「思ったより、静かですね」
「朝はこんなものです」
隣を歩くミリアが答えた。今日は神殿の衣ではなく、麻の質素な服を着ている。頭に布を巻いて髪を隠していた。
「働きに出る者は夜明け前に出ますので。残っているのは、年寄りと、子どもと、出られない者です」
「出られない者」
「怪我人と、病人です」
碧はそちらを見た。
ミリアは前を向いたまま歩いている。自分の生まれた場所を案内しているという感傷を、この少女は徹底して外に出さなかった。それがかえって、彼女がどれだけ覚悟してここへ来たかを伝えていた。
碧自身も、今日は城で借りた古い外套を羽織っていた。ミリアが選んだもので、肘に継ぎが当たっている。勇者の恰好で下町を歩けば、話を聞く前に騒ぎになるというのが彼女の判断だった。
もっとも、その判断が正しかったかどうかは、これから明らかになる。
後ろから、重い足音が二つ続いている。
剣聖ダインと、リュシェだった。ダインも私服だが、体格と歩き方だけはどうにもならない。すれ違う住人が一様に道を譲っていくので、かえって目立っていた。
「姫様。その恰好は無理がございます」
ダインが小声で言った。
「どこが無理ですか」
「背筋でございます」
リュシェは麻の外套を羽織り、フードを目深にかぶっていた。それ自体は上手い変装だったが、歩き方がどうにもならなかった。この王女は、疲れても背中を丸めるということをしない。
「姫様、少し猫背に」
「猫背というのは、どうやるのです」
「……そこからでございますか」
ダインが本気で頭を抱えていた。
リュシェは真面目な顔で背中を丸めようとして、そのたびに元に戻っている。十九年かけて叩き込まれた姿勢は、一日で崩せるものではないらしい。
碧は前を向いたまま、笑いを堪えた。
三つ目の角を曲がったところで、行列が見えた。
井戸だった。
石を積んだ小さな井戸の周りに、桶を持った人間が並んでいた。数えてみると、六十人はいる。列は通りの先まで伸びていて、どこが端なのか碧の位置からは確認できなかった。
並んでいるのは、ほとんどが女と子どもと老人だった。誰も喋っていない。喋る体力を温存しているというより、喋るような場所ではないと全員が承知している沈黙だった。
「これ、何時からですか」
「夜明け前からです」
ミリアが答えた。
「井戸は一日に汲める量が決まっております。底が見えたら、その日はもう出ません」
「出なかった人は」
「翌日の列に並びます。あるいは、買います」
「買う」
碧が聞き返したとき、通りの向こうから車輪の音が近づいてきた。
樽を積んだ荷車だった。引いているのは二人の男で、その横を三人の男が歩いている。歩いているほうは荷を持っていない。かわりに、腰に棍棒を下げていた。
行列の空気が、はっきりと変わった。
「水だ、水だよ」
荷車の男が声を上げた。
「北の井戸から汲んできた、澄んだ水だ。腹を壊さねえ水だよ」
列から何人かが離れ、荷車に近づいた。
碧は、そのやり取りを見ていた。
小さな瓶ひとつぶんの水と引き換えに、女が銅貨を三枚渡していた。渡す手が、少しだけためらっていた。硬貨を握り直し、それから諦めたように差し出す。その動作を、碧は実家の店でも何度か見たことがあった。
「ミリア。あれ、いくらだ」
「三バルズです」
「相場は」
「……パンが一つで、二バルズでございます」
碧は黙った。
水一瓶がパンより高い。しかも、その取引がこの人たちの並んでいるすぐ横で、当たり前の光景として行われている。
列に並んでいる者は、誰も荷車のほうを見ていなかった。見ないようにしている、という種類の目の逸らし方だった。
「あの水は、本物なのか」
「本物です。北の井戸の水を、許可を取って汲んでおりますので」
「許可」
「水運びの組合がございます。組合に入っていない者が北の水を売ると、そこの棍棒を持った方々が来られます」
碧は、荷車の脇の三人を見た。
彼らは商売の様子を眺めているだけで、何もしていない。何もしていないことに意味がある立ち方だった。
「リュシェ様」
「……存じておりました」
背後で、王女が低く言った。
「組合の認可は、王家が出しております。南の井戸が不足しているのは事実であり、北から水を運ぶ者がいなければ、南はもっと早く干上がります」
「必要なんですね」
「必要です。そして、必要であることが、値段を決める根拠になっております」
リュシェのフードの内側で、口元が歪んだ。
「わたくしは十五のとき、この仕組みを改めようとして、書類を三枚書きました。三枚とも、宰相の机の上で止まりました」
その声には、四年ぶんの苦さが詰まっていた。
碧は、この王女がなぜ昨日あれほど早く動いたのかを理解した。彼女はずっと前から、この国のどこかが腐っていることを知っている。知っていて、動かせずにいた。
「止められた理由は、聞きましたか」
「聞きました。時期尚早である、と」
「四年経ちましたね」
「ええ。いまも時期尚早だそうです」
行列の中ほどに、しゃがみこんでいる子どもがいた。
五つか六つだろうか。自分の背丈ほどもある桶を横に倒して、その縁に頭を預けている。
碧は足を止めた。
止めた理由は、治癒の祝福が勝手に働いたからだった。
子どもの身体の中が、見えた。
腸が炎症を起こしている。原因は水に混ざった何かで、それが三日ほど続いている。身体は水分を失い続けているのに、飲める水がないので補給ができない。
あと半日か一日で、この子は立てなくなる。立てなくなってから死ぬまでは、さらに二日かからない。
碧は、台帳で見た数字を思い出した。夏場の死亡者の多くが十歳未満。死因の欄は、疫の一字だけ。
この子は、その一字になる手前にいた。
「ミリア」
「……はい」
「あの子の親は」
ミリアが素早く周囲を見回し、それから列の前方を指した。
若い女が振り返り、子どもの様子を見て、また前に向き直った。列を離れられないのだ。離れれば順番を失う。
碧は歩いていった。
歩きながら、自分の中で何かが切り替わるのを感じた。
昨夜まで、碧はこの力の使い道を慎重に選ぼうとしていた。目立ちすぎれば政治に利用される。派手にやれば誰かの商売を壊す。だから順番を考え、影響を測り、いちばん角の立たない方法を探していた。
いま、その全部がどうでもよくなった。
子どもの前でしゃがむ。
「おはよう」
子どもは顔を上げなかった。力が残っていない。
「触るぞ」
碧は小さな背中に手を当てた。
治癒は、三秒で終わった。
炎症が引き、水分が満ち、体温が正常に戻る。傷んでいた腸の壁が組み直され、失われた分の血が作られ、目の下の隈まで消えていった。
子どもの目が開いた。焦点が合い、そして碧の顔を見て、ぽかんとした。
「おじさん、だれ」
「おじさんじゃない」
碧は立ち上がった。
そして、子どもの横に倒れていた桶を起こした。
右手を向ける。
桶の中に、水が満ちた。
周囲の空気が、止まった。
列の全員が、こちらを見ていた。
「……いま」
「水が」
「桶に、水が」
ざわめきが、波のように広がっていった。
碧はもう一つ手近な桶を取り、同じことをした。それから三つ目、四つ目。列の前のほうまで歩きながら、置かれた桶を次々に満たしていく。
水を出すこと自体は、なんの苦労もなかった。魔力は減らないし、手順もいらない。掌を向けて、そこに水があるべきだと思えばいい。
それが六日前まで当たり前にあった蛇口と、同じ機能しか果たしていないという事実に、碧は今さら腹が立った。
誰も止めなかった。誰も声を出せなかった。
列の先頭まで行ったとき、碧は井戸を覗き込んだ。
底が見えていた。水面が、ほとんど残っていない。
碧は井戸の縁に手を置いて、目を閉じた。
石は、手のひらの形にすり減っていた。何百年ぶんの、同じ場所に置かれ続けた手の跡だった。
地下が見えた。
この井戸は、細い水脈の端にかろうじて届いているだけだった。本流は、ここから二十メートル東の、地下十八メートルを流れている。掘った当時の技術では、そこまで届かなかったのだ。
碧は目を開けた。
「すみません。少し下がってください」
人が割れた。
碧は右手を地面に向けた。
石畳が沈み、土が退き、岩盤が割れる音がした。地面の下で何かが起きているのは全員にわかったが、上から見えるものは何もなかった。
十秒後、碧は手を下ろした。
「もう一回、汲んでみてください」
いちばん前にいた老人が、恐る恐る桶を下ろした。
縄が、いつまで経っても軽くならない。
老人が慌てて引き上げると、桶は満杯だった。水が縁から溢れ、石畳に落ちた。
老人は桶を抱え、それを何度も覗き込み、それから声を上げて泣いた。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




