第9話 南の水(後編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
そこから先は、碧の記憶の中でも曖昧になった。
人が集まってきた。最初は十人、次に百人、気がついたときには通りが埋まっていた。誰かが叫び、誰かが走り、誰かが碧の服の裾を掴んだ。
碧は、順番に歩いた。
六つの井戸を全部回り、その全部を地下の本流まで届かせた。
それだけでは足りなかった。六つでは、どう配置しても三万五千人には届かない。だから碧は、通りごとに新しい井戸を掘っていった。角を曲がるたびに一つ、広場を見つけるたびに一つ。
数は数えていなかった。あとでミリアの記録を見たら、四十三と書かれていた。
井戸を掘るたびに、その通りの住人が家から出てきた。出てきて、水が出るのを見て、そして何も言えずに立ち尽くす。その繰り返しだった。
それから、下水を通した。
南の区画には、そもそも水を捨てる場所がなかった。使った水は路地に流すか、空き地に撒くしかない。撒いた水はそのまま地面に染み、井戸へ戻る。それが夏の匂いと、夏の病の正体だった。
城の裏手でやったのと、原理はまったく同じだった。違うのは規模だけだ。そして規模の違いは、碧にとって何の障害にもならない。
そのことが、かえって重かった。この程度のことで防げた死が、毎年何十人分も積み上がっていたのだ。
碧は通りの下に管を走らせ、南外壁の外へ導き、そこに城で作ったのと同じ三段の槽を据えた。今度は規模が違ったので、槽は九つになった。
作業のあいだじゅう、後ろから人がついてきた。
誰も何も言わない。ただ、歩いている。足音だけが増えていく。
最初のうち、碧はそれを居心地悪く感じていた。見世物になっているようで、手元が落ち着かない。
だが途中から、気にならなくなった。後ろを歩いている人々は、碧を見ていなかったからだ。彼らが見ていたのは、地面から湧いてくる水のほうだった。
昼を過ぎた頃、碧は一度だけ振り返った。
千人はいた。
列の先頭にいたのは、朝いちばんに桶を満たされた老人だった。その後ろに、洗濯物を抱えたままの女たちがいる。仕事を放り出してきた男たちがいる。歩けない者を背負ってきた若者がいる。
その中に、さっき治した子どもが母親に肩車をされていた。目が合って、子どもが小さく手を振った。
碧は手を振り返した。
そのとき初めて、碧は自分がひどく疲れていることに気づいた。魔力は一滴も減っていない。身体もどこも痛くない。にもかかわらず、疲れていた。
たぶん、これは別の種類の疲れだった。
問題が起きたのは、夕方だった。
水運びの組合が来た。
荷車が十台、男が四十人。先頭に立っていたのは、太った中年の男だった。仕立てのいい上着を着て、指に三つ指輪をはめている。
「これは、どういう了見でございましょうか」
男は丁寧な口調で言った。
「わたくしはバルダン。水運び組合の長でございます」
「天野碧です」
「存じ上げております。勇者様でいらっしゃる」
バルダンは、碧の後ろに集まった群衆をゆっくりと見渡した。
「ですが勇者様、これは商いの妨害でございます。わたくしどもは王家より認可を頂戴し、南の民に水を運んでまいりました。その水が不要になれば、わたくしどもの商いは立ちゆきませぬ」
言い方は柔らかかったが、背後に四十人を連れてきている時点で、これは交渉ではなく示威だった。それでもバルダンは棍棒を持った男を前に出さず、自分が先頭に立っている。度胸だけはある男らしい。
群衆から、怒声が上がった。
バルダンは動じなかった。慣れているのだ。
「四十人が路頭に迷います。その者らにも家族がおります。勇者様は善意でなさったことでしょうが、善意で職を奪われた者は、どこへ行けばよろしいのでしょうか」
碧は、その言い分を最後まで聞いた。
聞いてから、言った。
「あなたの言い分は、正しいです」
群衆が、ざわついた。バルダンの眉が動いた。
「俺は今日、四十人分の仕事を消しました。それは事実です」
「では」
「だから、別の仕事を用意します」
碧は右手を上げた。
この十分ほど、頭の片隅で設計を組み立てていた。バルダンの言い分がまっとうであることは、荷車を見た瞬間にわかっていたからだ。仕事を消すなら、消したぶんを返さなければならない。実家の店でも、父はよくそう言っていた。
通りの空き地に、建物が生えた。
長方形の、石造りの平屋だった。碧は続けて、その中に大きな槽をいくつも作り、管を通し、炉を据えた。
「ここは、洗い場です」
碧は言った。
実家の近所にあったコインランドリーを思い出しながら作った建物だった。もっとも、洗濯機は再現しなかった。動く仕掛けを増やせば、壊れたときに直せる人間がいなくなる。
「南には三万五千人が住んでいます。全員が毎日、洗濯をします。いまは井戸の順番待ちのせいで、三日に一度しかできない家が多い。ここなら、湯で洗えます」
「……湯」
「炉はもう組みました。薪ではなく、地熱を引いてます。止まりません」
碧はバルダンを見た。
「これを運営する人間が要ります。四十人でも足りないかもしれません。水を運んでいた人たちなら、水の扱いに慣れてるはずです」
バルダンの口が、半分開いたまま止まっていた。
「料金は、あなたたちが決めてください。ただし」
碧は群衆のほうを向いた。
「今日みたいな値段をつけたら、俺が同じものを隣にもう一軒建てます。ただで使えるやつを」
言ってから、碧は自分の口調が父に似ていることに気づいた。
実家の店の前に安売りの弁当屋が出たとき、父は同じような顔でこう言った。安さで勝とうとは思わない、と。その代わり、うちは同じ値段で盛りを増やす、と。
結局、弁当屋は三か月で撤退した。
通りが、爆発した。
笑い声と歓声と、罵声にも似た叫びが混ざり合う。バルダンは棒立ちのまま、自分の部下たちを振り返った。
四十人の男たちは、誰も荷車を守っていなかった。
全員が、建ったばかりの洗い場を見ていた。
「……勇者様」
バルダンが、絞り出すように言った。
「あなた様は、商人向きでいらっしゃる」
「褒め言葉として受け取っときます」
「褒めてはおりませぬ」
太った男は懐から手巾を出し、額を拭った。
「わたくしは今日、生まれて初めて、断りようのない商談をされました」
男は手巾をしまい、それからゆっくりと頭を下げた。深い礼ではなかったが、形だけのものでもなかった。
「洗い場の件、引き受けさせていただきます。……勇者様。ひとつだけ、よろしいでしょうか」
碧は小さく頷いた。
「なぜ、わたくしどもに任せるのです。潰してしまえば、それで済んだはずでございます」
「潰したら、四十人が明日から水売りより悪いことをやるからです」
バルダンの目が、わずかに見開かれた。
「南で水を売って稼いだ人たちが、仕事をなくしたあと何をやるか。俺にはわかりませんけど、いいことじゃないのは想像がつきます」
「……勇者様」
「あと、洗い場は儲かると思います。たぶん水売りより」
太った男は口を開け、それから何も言わずに荷車のほうへ戻っていった。
その背中を見送りながら、ミリアが小声で言った。
「アオイ様。あの方、笑っておられました」
その夜、碧が城へ戻ったのは深夜だった。
門をくぐったところで、リュシェが待っていた。フードは外している。外套の下は、いつもの緑の衣に戻っていた。
「アオイ殿」
「リュシェ様。今日は、すみませんでした。勝手に」
「謝る必要はございません」
王女は首を横に振り、それから懐から一通の書状を出した。
「三日と申し上げましたが、一日で済みました」
その言い方で、碧は察した。
一日で済んだのは、調べるのが簡単だったからではない。彼女がすでに答えを持っていて、確かめるべき一点だけが残っていたからだ。
碧は、その書状を受け取った。
昨夜の布袋の封蝋と、同じ紋章が押されていた。二頭の獣が、剣を支えている図案。
「これは」
「南方のカルヴァレス公国。我が国の属領ではなく、独立した小国です」
リュシェの声は、平坦だった。
「そして、その公国と我が国の交易を一手に取り仕切っているのが」
彼女は、そこで一度だけ言葉を切った。
言いたくないのではない。言った瞬間に後戻りができなくなることを、この王女は正確に理解している。それでも言うために、ここで一日待っていたのだ。
「宰相ザルドスでございます」
夜風が、門の松明を揺らした。
碧は書状をたたみ、リュシェに返した。
「リュシェ様。ひとつ聞いていいですか」
「なんなりと」
「俺を殺して、あの人に何の得があるんですか」
王女は、少し驚いた顔をした。
「……そこを疑問に思われますか」
「はい。あの人、俺を使いたがってるように見えました。殺したら使えません」
「鋭いご指摘です」
リュシェは書状を懐に戻し、夜空を見上げた。
「ですから、あの夜の三人は、殺すためではなかったのかもしれません」
「というと」
「試したのでしょう。あなたが本当に刃を通さないのかどうかを」
碧は、昨夜の短刀を思い出した。
震えていた刃。腹で受けた瞬間の、金属の音。あのとき碧は、避けるべきところを避けなかった。
その一部始終を、誰かが確かめたがっていたのだとしたら。
「……高い買い物ですね」
「金貨百枚です。あの方にとっては、書類一枚ぶんの値段でございましょう」
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第9話まで来てくださった方には、この話がどういう物語なのか、少し伝わったかもしれません。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




