第10話 審査不能(前編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
――夏の盛りまで、あと二日。
朝の騎士団宿舎は、思っていたより賑やかだった。
中庭で朝の稽古をしている者がいて、井戸端で洗濯をしている者がいて、その脇で兜を磨きながら言い争っている者がいる。軍隊というより、寮の朝に近い空気だった。
碧が門をくぐると、稽古の音が止まった。
「勇者殿!」
「おはようございます」
「昨日の南の話、聞きましたぞ! 井戸を四十三本と!」
「四十三でしたか。数えてませんでした」
そう答えた途端、中庭の全員が笑った。誰かが「数えてない」と繰り返し、それがまた笑いになった。
碧はこの三日で、騎士団の中に妙な立ち位置を確保してしまっていた。畏怖されているというより、面白がられている。あの昼飯以来、彼らは碧を「よくわからないが飯を作る人」として処理することに決めたらしい。
目的の場所は、宿舎の端の小部屋だった。
扉を開けると、三人が立ち上がった。
カイ、トウジ、そして三人目のセンという名の青年。全員、支給された騎士団の稽古着を着ている。黒装束を着ていたときより、だいぶ人間らしく見えた。
「おはよう。眠れたか」
「……寝ました」
カイが答えた。声にわずかな戸惑いがある。
「十二時間ほど」
「十二時間」
「起こされなかったので」
碧は言葉を選ぶのに失敗して、黙った。
この三人にとって、起こされずに眠るという経験そのものが、たぶん初めてだったのだ。
「飯は出たか」
「三度、出ました」
「食えたか」
「トウジが吐きました」
トウジが小さくなった。碧が見ると、少年は耳まで赤くして俯いた。
「急に量が入ったからだと思います」
「胃が慣れてないんだな。しばらく粥でいこう。俺が作るから」
「……なぜ、そこまで」
カイの声が硬くなった。
「我々は、あなたを殺しに来ました」
「知ってる」
「使い道があるとお考えですか。情報を吐かせるとか、組を潰す手駒にするとか」
「そういう話を、いま俺としたいか」
碧は椅子を引いて座った。
「したいなら付き合う。でも、いまは飯の話をしたい。どっちがいい」
三人が黙った。
沈黙を破ったのは、意外にもトウジだった。
「……粥に、塩を入れてもらえますか」
「入れる」
「二回、入れてもらえますか」
「なんでだ」
「一回だと、足りないので」
碧は笑った。カイが天を仰いだ。センは無言のまま、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
城へ戻ると、リュシェが待っていた。
今日は王女の装いに戻っている。手には書類の束があり、その一番上を碧に差し出した。
「本日の予定でございます」
「ミリアの仕事を取らないでください」
「ミリアは神殿の記録庫で調べ物をしております。昨日の下水の設計図を写しておきたいと」
「あいつ、寝てるのか」
「寝ておりません」
リュシェは眉ひとつ動かさずに言った。
「午後には寝かせます。それより、本日の件です」
差し出された書類には、見慣れない紋が押されていた。剣と天秤を組み合わせた図案だった。
「冒険者ギルド。本日、そこへ登録していただきます」
「登録。なんでですか」
「必要だからでございます」
王女は書類を卓に置き、指で一点を叩いた。
「アオイ殿。現在、あなたの身分は非常に曖昧です。王国の臣下ではない。神殿の所属でもない。かといって民でもない。この状態は、宰相にとって都合がよすぎます」
「曖昧だと、何が起きますか」
「必要なときだけ勇者と呼び、都合が悪ければ何者でもないと言える。両方の札を向こうが握っております」
碧は書類を手に取った。
「ギルドに登録すると、どうなりますか」
「ギルドは国家に属さぬ組織でございます。大陸のすべての国に支部があり、どの国の法よりギルドの規約が優先されます。そこに籍を置かれるのであれば、あなたは冒険者アオイという国際的な身分をお持ちになります」
「王国から出ていきやすくなる、ということですか」
「……ええ」
リュシェは目を伏せた。
「それも、含みます」
碧は、書類をたたんだ。
この人は、自国の利益を損なう提案を自分から持ってきている。それがどういう意味なのかを、碧は理解しないふりをすることにした。
「行きましょう」
冒険者ギルド王都支部は、中央広場から二本外れた通りにあった。
思っていたより、ずっと大きい。三階建ての石造りで、正面の扉は馬車が通れるほどの幅がある。建物の横には馬繋ぎ場と、解体場らしき小屋があった。
扉を押すと、中は酒場だった。
正確には、一階の半分が酒場で、残りの半分が受付になっている。朝だというのに十数人が席を埋めていて、そのうち何人かは明らかに昨夜から飲み続けていた。
碧が入った瞬間、店内の視線が集まった。
そして、すぐに散った。
碧は少し拍子抜けした。王都では顔が知られすぎて、どこへ行っても人だかりができる。ここでは、誰も気にしていない。
「ここの連中は、他人に興味がございません」
後ろからダインが言った。今日も護衛としてついてきている。
「面倒事の種になりますので。相手が誰であれ、絡まぬのが作法でございます」
碧は受付へ向かった。
カウンターの内側にいたのは、十七、八に見える受付嬢だった。栗色の髪を後ろで束ね、緑の制服を着ている。書類の山に埋もれながら、驚くべき速度で羽根ペンを動かしていた。
「ご用件は」
顔を上げずに言った。
「登録をお願いします」
「新規ですね。こちらの用紙にご記入を。字が書けない場合は口頭で伺います」
差し出された用紙を、碧は受け取った。
氏名、年齢、出身地、得意分野、既往症。ごく事務的な項目が並んでいる。碧は羽根ペンを取り、書き始めた。
出身地の欄で、手が止まった。
「……ここ、どう書けばいいですか」
「出身地が不明な方は、不詳で結構です」
「不詳にします」
受付嬢が、そこで初めて顔を上げた。
目が合った。
彼女の表情から、ゆっくりと動きが消えていった。
「……あの」
「はい」
「失礼ですが、お名前を」
「天野碧です」
羽根ペンが、カウンターに落ちた。
後ろの書類の山が崩れた。
「え、えええ、勇者様!?」
酒場が静まり返った。
さっきまで誰も見ていなかったはずの十数人が、一斉にこちらを向いた。
「ちょ、ニナ、いま何て言った」
「勇者って言ったぞ」
「あの光の柱の?」
受付嬢は真っ赤になって立ち上がり、それから慌てて頭を下げ、その拍子に額をカウンターにぶつけた。
碧は反射的に治癒をかけた。
「あ、痛くない」
「すみません、勝手に」
「い、いえ、ありがとうございます、じゃなくて、失礼いたしました!」
ニナと呼ばれた受付嬢は、何度か深呼吸をして、それから職務の顔に戻った。
この切り替えの速さは、たぶんこの職場で鍛えられたものだ。酔った冒険者と、報酬を値切る依頼主と、帰ってこなかった者の家族を、毎日同じカウンターで相手にしていれば、誰でもこうなる。
登録手続きは、すぐに問題にぶつかった。
「ランク判定を行います」
ニナがカウンターの脇にある台を示した。
黒い石の台座の上に、平たい円盤が据えられている。表面に無数の目盛りが刻まれていて、中心が淡く光っていた。
「魔力測定盤です。手を置いていただければ、保有魔力量を計測します。あわせて実技審査を行い、FからAまでのランクを決定いたします」
「Aが最高ですか」
「Sもございますが、大陸全体で十二名です。王都支部には一名も」
「なるほど」
碧は、その円盤を見つめた。
嫌な予感が、はっきりとあった。
「あの、これ、壊れたことは」
「ございません。二百年使っております」
「二百年」
「ギルドの財産でございます」
碧は手を引っ込めた。
「やめておきます」
「え」
「たぶん壊れます。神殿の水晶が三つ砕けたので」
ニナが目を瞬いた。それから、困った顔をした。
「……ですが、測定なしでは登録が」
「そこをなんとか」
「規約でございますので」
若い受付嬢は、職務に忠実だった。
碧はダインを見た。ダインは肩をすくめた。リュシェは面白そうにこちらを見ている。助ける気はないらしい。
「わかりました。やります。壊れたら弁償します」
「弁償できる額ではございません」
「じゃあ、直します」
「直せるものでは」
「直せます。たぶん」
碧は、円盤に手を置いた。
最初の一秒は、何も起きなかった。
目盛りの光が、中心から外へ向かって広がっていく。ゆっくりと、一つずつ。
十の目盛りを越えたところで、速度が上がった。
二十、三十、五十。
ニナの顔から表情が消えた。
「……五十は、A級の水準です」
光は止まらない。
七十、九十、百。
ニナの手が、書きかけの書類から離れていた。酒場の客が椅子を引いて立ち上がる音が、背後で次々に鳴っている。誰も声を出さないのは、声を出す段階をとっくに通り過ぎてしまったからだった。
目盛りは、百までしか刻まれていなかった。
光が百を越え、目盛りのない外周へ達した。そこで円盤が、高い音を立てて鳴り始めた。
「と、止めてください!」
「止め方がわかりません」
「手を離してください!」
碧は手を離した。
離したが、光は止まらなかった。
円盤の表面に、蜘蛛の巣のような亀裂が走った。中心から外へ。一本、三本、十本。
そして、砕けた。
破片は飛ばなかった。円盤はその場で崩れ、黒い砂になって台座の上に積もった。
酒場が、完全な無音になった。
ニナが、砂の山を見下ろしていた。
「……二百年」
「すみません」
「二百年、壊れたことがなかったんです」
「本当にすみません」
碧は台座に手をかざした。
やり方は考えなくてもわかった。この円盤を構成していた物質は、いま目の前の砂として全部残っている。失われたのは形だけだ。形だけなら、戻せる。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




