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第4話 帰り道について(前編)

これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。


主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……


あっ、7回になっちゃった 笑


――夏の盛りまで、あと七日。



 目が覚めたとき、碧はまず天井を見て、自分がどこにいるのかを思い出すのに三秒かかった。

 高い天井に、蔓草の彫刻。厚い織物の垂れ幕。窓には硝子がはまっていて、そこから朝の光がまっすぐに差し込んでいる。自室の低い天井でもなければ、店の二階の日焼けした壁紙でもない。

 王城の客間だった。

 昨夜、儀式が終わったあとにここへ通された。正確には、通されるまでに一時間半かかった。誰が案内役を務めるかで神官と侍従と近衛がそれぞれ譲らず、最終的に三者そろって同行するという妙な結論に落ち着いたからだ。

 寝台から身を起こす。

 そして、また違和感に行き当たった。

 身体が軽い。昨日の疲れが残っていないどころか、一年ぶんくらいの疲労がまとめて抜けたような感覚がある。ためしに肩を回してみた。二年前に肉を運んで痛めた右肩が、音も引っかかりもなく回った。

 自分の身体でありながら、自分の身体ではないようだった。

 碧はしばらく掌を見つめ、それから寝台の縁に腰かけて、大きく息を吐いた。

 夢ではない。それだけは確定した。

 扉が控えめに叩かれたのは、そのときだった。


「し、失礼いたします」

 入ってきたのはミリアだった。両手で抱えた盆を、落とさないよう慎重に運んでくる。

 盆の上には、昨日と同じ椀が載っていた。ただし中身の色が違う。湯気の立ち方も違う。

「朝餉をお持ちいたしました。その、厨房に、伝えましたので」

「伝わったのか」

「伝わりました」

 ミリアは卓に盆を置き、それから両手を前で組んで、まっすぐに立った。緊張しているというより、判定を待っている職人のような立ち方だった。

 碧は匙を取り、豆をひとつ掬って口に入れた。

 噛む。

 芯が、ない。

 豆は舌で押せば崩れるところまで炊けていて、そのぶん豆そのものの甘みが前に出ていた。塩は後から入れたのだろう。角が立っていない。出汁の輪郭がはっきりして、葉物の青い匂いが最後に鼻へ抜けた。

 碧は二口目を飲み、三口目を飲んで、椀を置いた。

「うまい」

 ミリアの肩が、はっきりと跳ねた。

「昨日のは味は悪くなかったけど、今日のは料理になってる。誰が炊いた」

「調理長のハルカスです。六十二になります。昨夜、わたしがお言葉をお伝えしましたら、たいそう怒りまして」

「怒られたのか。悪いことをした」

「いえ、違います」

 ミリアが首を横に振った。その勢いで頭巾がずれ、慌てて直す。

「わたしにではなく、ご自分に怒っておられました。四十年近くやってきて豆の芯に気づかなかったのかと、一晩じゅう厨房で豆を炊き直しておられて。今朝は目が真っ赤でした」

 碧は、思わず笑った。

 同じ人種だ、と思った。世界が違っても、厨房に立つ人間の骨格は変わらないらしい。

「あとで礼を言いに行く」

 ミリアはそこで、帳面をめくる手を止めた。

「アオイ様。ひとつ、申し上げてもよろしいでしょうか」

「なんだ」

「南では、夏の盛りに毎年子どもが死にます」

 少女の声は、いつもの報告の調子だった。

「井戸の水が濁るのが、その時期でございます。昨年は十九人、一昨年は二十三人」

「……今年は」

「今年の夏の盛りは、あと七日でございます」

 碧は、匙を置いた。

「調理長は、たぶん倒れます」

「倒れるのか」

「倒れます。昨夜から、お礼を言われたらどうしようと言い続けておりましたので」

 ミリアの口調が、昨日よりほんの少しだけ柔らかくなっていた。

 碧は残りを飲み干し、両手を合わせた。ごちそうさまでした、という日本語の音を、ミリアはじっと聞いていた。意味はわからないはずなのに、彼女は真似をして、ぎこちなく手を合わせた。

 そのまま礼を言いに行くと告げたら、ミリアは本気で止めにかかった。それでも押し切って厨房へ下りていくと、扉の前で待ち構えていた白髪の男が、碧の顔を見た瞬間に床へ両膝をついた。

「お召し上がりいただき、恐悦の極みでございます」

「顔を上げてください。豆、うまかったです」

 調理長ハルカスは、顔を上げなかった。

 かわりに肩が震え始めた。碧が困っていると、周囲にいた下働きの少年たちが口々に説明を始めた。調理長は昨夜、豆を四回炊き直したのだという。三回目で厨房の全員が寝かせようとしたが、老人は頑として譲らなかったらしい。

「三十九年、同じ炊き方をしておりました」

 ハルカスが、床を見たまま言った。

「疑ったことが、一度もございませんでした」

「気づいた人がいなかっただけだと思います」

「気づかなかったのは、わたくしでございます」

 碧は、その言い方に覚えがあった。

 父も同じことを言う。店に来た客がひとこと感想を漏らしただけで、その晩の仕込みが全部作り直しになる夜が何度もあった。母は呆れていたが、碧はそれを見て育った。

 だから碧は、老人の前にしゃがんだ。

「じゃあ、ひとつだけ。次は豆を水に浸けるとき、水を一度替えてみてください。えぐみが抜けます」

 ハルカスの顔が、勢いよく上がった。

 その目はもう、勇者を見る目ではなかった。厨房の人間が、厨房の人間を見る目だった。


 朝食のあと、碧は城の中庭に出た。

 力の確認をしておきたかったからだ。昨日もらったものが何なのか、自分でも把握できていない。把握できていないものを身体の中に抱えたまま人前に出るのは、刃を裸で持ち歩くのに似ている気がした。

 中庭は思ったより広かった。石畳に囲まれた芝生があり、端に菜園があり、井戸があり、離れた場所で庭師らしき老人が薔薇の枝を切っている。

 菜園を見て、碧は少しだけ安心した。城の中庭に畑があるというのは、この国の王家がまだ地面から完全には離れていないという意味に思えたからだ。実家の裏にも、母が勝手に作った小さな畑がある。大葉と葱と、毎年うまくいかないトマトが植わっていた。

 碧はまず、掌を上に向けた。

 昨日の匙を思い出す。何もないところに、輪郭を思い描いて、そこに重さを置く。

 光が生まれ、伸び、固まった。

 掌の上に、包丁が一本あった。

 碧は目を細めた。柄の握り具合、刃の反り、重心の位置。全部、家で使っている牛刀そのままだった。思い描いたものが寸分違わず出てくるらしい。

 試しに菜園へ歩いていき、しゃがみこんだ。葉物が何列か植わっている。その一番端の、明らかに育ちすぎて硬くなった一株を抜いた。

 石畳の上に置き、刃を当てる。

 音が、違った。

 包丁が野菜を切る音というのは、実は野菜が潰れる音を含んでいる。それがない。刃が入っていく抵抗そのものが存在せず、葉は自分から二つに分かれたように見えた。

 碧は、手を止めた。

 千切りを十本ぶん刻んだところで、自分がどれくらいの速さで手を動かしていたのか思い出せなくなった。目で追えるはずの動きが、追えていない。

「……お、おおお」

 背後で声がした。

 振り返ると、庭師の老人が鋏を落として口を開けていた。

「いまの、いまのはなんでございますか」

「すみません、勝手に野菜を」

「そこではございません! その手つきでございます!」

 老人はよろめきながら近づいてきて、石畳の上の千切りを凝視した。

「幅が、全部おなじでございます。一本たりとも違わぬ」

「そういうふうに切ったので」

「この庭を預かって三十二年になりますが、そのような切り口は見たことがございませぬ」

 碧は返答に困った。

 この世界の人間は、どうやら一度始めた仕事を死ぬまで続けるらしい。厨房でも、庭でも、神殿でも同じだった。

 結局、刻んだ葉は庭師が丁重に布へ包んで持ち帰った。厨房に献上するのだという。碧は止めたが、老人は聞かなかった。


 午前の遅い時間、碧は神殿の記録庫へ呼ばれた。

 案内したのはセルヴァンだった。老人は杖を持っていなかった。持つ必要がなくなったからだ。歩く速度が昨日の倍になっていて、後ろの補佐が小走りになっていた。

 記録庫は、神殿の地下にあった。

 階段は思っていたより深く、燭台の光が届く範囲だけが順番に現れては後ろへ流れていった。壁の石は上階より古く、表面が波打つほど摩耗している。何百年ぶんの人の手が、同じ場所を撫で続けた跡だった。

 下りきった先に広がっていたのは、碧の想像を超える量の棚だった。天井まで届く書架が奥へ奥へと続き、その全部に革綴じの冊子が詰まっている。空気はよく乾いていて、ほのかに墨と獣皮の匂いがした。湿気を嫌う書物のために、どこかで常に風を回しているらしい。

「千年ぶんでござる」

 セルヴァンが言った。

「召喚の記録、祝福の記録、魔素の観測、魔王領の動向。書き続けてまいった」

「読んでいいんですか」

「本来ならば、大神官と王以外は触れることも許されませぬ」

 老人は、碧を見た。

「が、昨日をもってその規則は意味を失いました。貴殿は好きに読まれるがよい」

 碧は書架に近づき、背表紙に指を滑らせた。

 言語理解のおかげで、文字は全部読める。読めるがゆえに、量の暴力が直接襲ってきた。目に入る端から意味が流れ込んでくるので、一歩歩くごとに数十年分の情報が頭をかすめていく。

 碧は目を閉じ、意識して視線を絞った。

 知りたいことは、ひとつだけだった。

「大神官。聞きたいことがあります」

「なんなりと」

「帰る方法は、ありますか」

 記録庫が、静かになった。

 補佐の神官が、手元の燭台を取り落としそうになった。セルヴァンは動かなかった。ただ、背中がわずかに強張ったのがわかった。

「……その問いが来るのは、当然でござる」

「昨日から我慢してました。答えによっては、こっちの態度も変わるので」

「正直に申し上げる」


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


今日も1日ありがとうございました。

初日から「ブックマーク」をいただけて涙が……。

明日も同じペースで8時から2時間おきのペースで投稿しようかと思います。

今日も1日、お付き合いくださいましてありがとうございました。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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