第3話 過去最大の祝福(後編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
亀裂が、なかったことにはならなかった。かわりに、割れ目の内側から細い金の線が湧き出して、ぴたりと石を継いだ。
継ぎ目は残った。金の線が、文字の上を走っている。
背後で、息を呑む音がした。
振り返ると、エルフィリアがそこに立っていた。両手で口元を押さえて、目を大きく見開いている。
「いま、それ」
「あなたの真似です」
碧は継ぎ目を指した。
「壊れたことごと残して直すほうが、きれいなんでしょう」
エルフィリアの目が、みるみるうちに潤んだ。
彼女は何か言おうとして、言葉にならず、慌てて顔を背けた。銀の髪が揺れて、赤い耳を隠した。
その様子を、広間中が見ていた。
そして、誰も彼女を咎めなかった。咎める以前に、全員が理解の外にいた。
「大神官よ」
王が、ようやく口を開いた。
「祝福の数を、正確に記録せよ」
「……八でございます」
「八」
「言語理解、創造、神聖、攻撃魔法全系統、剣技、回復、治癒。そして魔力の無限」
セルヴァンが指を折り終えたとき、祭壇の脇で小さな声がした。
「……ひとつだけ、渡せなかったものがあります」
エルフィリアだった。
誰に向かって言ったのでもない。記録係の羽根ペンが止まり、老人が顔を上げたときには、女神はもう口を閉じていた。
碧も、訊かなかった。
セルヴァンは指を折りながら数え、最後の一本を折ったところで手を止めた。
「陛下。理を申し上げます。四つ目で器は壊れます。五つ目で魂が形を失います。六つ目以降は、記録すら存在いたしませぬ」
「では、いま目の前にいるのは何だ」
「……わかりませぬ」
老人は正直に言った。
「千年、この神殿は答えを持っておりました。本日、初めて持ち合わせがございませぬ」
老人はそう言って、深く息を吐いた。
その拍子に身体が傾き、補佐が慌てて支えた。セルヴァンは支えられるのを嫌がって腕を振りほどこうとしたが、その動きの途中で顔をしかめ、右の膝を押さえた。
「大神官様」
「なんでもない。古い傷だ。雨の前に痛むだけのこと」
碧は、その膝を見ていた。
見えてしまった、と言うほうが正しい。治癒の祝福を受けた目には、その膝の内側で何が起きているのかが、透かし絵のように浮かんで見えた。四十年近く前に砕けた骨が、そのまま正しくない形で固まっている。周りの筋が毎日それを庇い続け、庇うことでさらに歪んでいる。
碧は歩み寄った。
「触ってもいいですか」
「は」
「膝です。たぶん、直せます」
広間が、またざわついた。
セルヴァンは碧を見上げ、それから自分の膝を見下ろし、しばらく黙っていた。老人にとってその痛みは、もう生活の一部だったのだろう。取り除いていいものかどうかを、本気で迷っている顔だった。
「……お願い申し上げる」
碧は膝をつき、法衣の上からそっと手を当てた。
難しくはなかった。むしろ、やり方を考える必要がないのが不気味なほどだった。歪んで固まった骨をいったんほどき、正しい位置へ並べ直し、庇い続けて硬くなった筋をゆるめる。手順は全部、最初から頭の中にあった。
数秒で終わった。
セルヴァンは、しばらく動かなかった。
それから、恐る恐る体重をかけた。かけて、支えられることに気づいた。もう一度かけた。今度は立ち上がった。杖を使わずに。
老人は、自分の両足で祭壇の前に立っていた。
「……四十年」
声が、割れていた。
「四十年でござる。儀のたびに、膝をつくのがどれほど――」
そこで言葉が途切れた。
法衣の一団のあちこちで、袖を掴み合う音がした。騎士の何人かが兜の位置を直すふりをして顔を隠した。回廊の見物人が手すりから身を乗り出し、いま何が起きたのかを互いに確かめ合っている。
碧は立ち上がり、広間の隅に目を向けた。
そこにミリアがいた。盆を抱えて、壁際で小さくなっている。
その右手の甲に、古い火傷の痕があった。宿の厨房で負ったものだろう。皮膚が引き攣れて、指の動きを少しだけ妨げている。
碧は歩いていった。
ミリアが青ざめて後ずさろうとするのを、目で止めた。
「手、出して」
「わ、わたしは、そのような」
「痛むだろう。冬とか」
少女の動きが止まった。図星だったらしい。
差し出された小さな手に、碧は指を触れた。引き攣れが解け、色が戻り、何もなかったように皮膚が繋がるまで、三秒もかからなかった。
ミリアは自分の手を見つめ、握って、開いて、もう一度握った。
それを三度繰り返してから、両手で口を押さえた。声は出さなかった。
その沈黙が、広間の空気を決定づけた。
畏怖が、別の何かに変わった瞬間だった。神官たちは跪くのではなく立ち上がり、騎士たちは剣を捧げるのではなく拳を掲げ、回廊の人々は名を叫び始めた。まだ碧の名前を誰も正確に知らないのに、叫ぼうとしていた。
畏怖でも歓喜でもない、もっと生々しい感情が回廊から降ってきていた。碧はそれを、はっきりと感じ取った。
商人が算盤を弾く音。役人が誰かの名を書き留める音。どこかの誰かが、この状況をどう利用するかを考え始める音。
言語理解が拾ってしまう。
拾いたくないものまで、全部。
「……アオイ」
エルフィリアが、人混みをすり抜けて小声で寄ってきた。
「顔が、怖いです」
「すみません。慣れてなくて」
「聞こえすぎるんですね」
「はい」
碧は目を閉じ、それから開いた。
「でも、便利なので慣れます。包丁と同じです。最初は指を切るけど、そのうち手が覚える」
エルフィリアが、ぷっと噴き出した。
神の笑い声を、広間の全員が初めて聞いた。
その瞬間、蝋燭の炎がふわりと膨らみ、天井の絵が一段明るくなった。誰かがそれを見て、また泣き出した。
「女神様」
セルヴァンが、震える声で問いかけた。
「お教えいただきたい。なにゆえ、これほどの祝福を」
エルフィリアの笑いが、止まった。
彼女は姿勢を正し、咳払いをひとつして、はっきりとした口調で答えた。
「適性です」
「……適性、でございますか」
「はい。極めて高い適性が認められましたので、規定に従い、相応の祝福を付与いたしました。以上です」
「規定と申されますと、いかなる」
「規定です」
エルフィリアの耳が、また赤くなっていた。
補佐の神官が、隣の同僚の袖を引いて何か囁いた。碧の耳が、望まないのに拾った。
――女神様、嘘をつくのが下手すぎる。
碧は天井を見上げた。見上げて、笑いを堪えた。
事情はまだ何ひとつわかっていない。帰れるのかも、この力を何に使うべきかも、十七人の話が何なのかも。
それでも、この場にいる誰よりも嘘が下手な神が自分の隣に立っているという一点だけは、妙に心強かった。
顔を戻すと、ミリアがまだ自分の手を握ったり開いたりしていた。その向こうでセルヴァンが、周囲に支えられるのを断りながら何度も膝の屈伸を繰り返している。老人は同じ動作を十回ほど続けたあと、とうとう若い神官に窘められていた。
碧はその光景を見て、ようやく少しだけ実感が湧いた。
得体の知れない力をもらってしまった。返し方もわからない。けれど、その力で誰かの半生ぶんの痛みを消せたのなら、今日のところはそれで充分だった。
その日の夕刻。
王都から北へ千二百キロ離れた、黒い石で組まれた城の玉座の間で。
魔王ヴァルガルド・ノクスは、窓の外を見ていた。
南の空に、光の柱が立っていた。もう消えているはずのものが、空気の中に残像として焼きついたまま消えない。魔王領の空はいつも厚い雲に塞がれているのに、その柱の通り道だけは雲が綺麗に割れていた。
魔素の流れが、その方角へ向かって静かに傾いでいる。
ヴァルガルドはこの世界の千二百年のあいだに、この流れが一方向へ傾ぐのを何度か見てきた。そのたびに南で勇者が立ち、そのたびに北で誰かが死に、そのたびに世界はわずかに痩せていった。十七回繰り返した数え方を、彼はもう記憶の奥に沈めている。
だが今回の傾きは、これまでのどれとも違っていた。
奪う流れではない。注がれている流れだった。
注がれたものは、いずれどこかで取り立てられる。この世界の仕組みがそういうものであることを、ヴァルガルドは誰よりも長く知っていた。
「陛下」
背後で、炎将ガルムが膝をついた。
「南方より報告。人間どもが、勇者を召喚した模様」
「知っている」
ヴァルガルドは窓から目を離さなかった。
「知っておられた、とは」
「感じた、と言い直そう」
魔王は立ち上がった。
この世界で千二百年を生きた男の顔に浮かんでいたのは、怒りでも警戒でもなかった。
それは、長く待ち続けた者が、ようやく地平の向こうに影を見つけたときの顔だった。
「ガルム。急ぎ、南へ向かえ」
「討ち取りに、でございますか」
ガルムの声には、期待が混じっていた。炎将にとって、南へ向かう命令はこれまで常にそういう意味だった。
「いや」
ヴァルガルドは、ゆっくりと首を横に振った。
「兵は連れるな。一人で行け。武器も抜くな」
「……陛下」
「確かめに行け」
魔王は窓から離れ、ようやく炎将のほうを向いた。その顔を見た瞬間、ガルムは反論の言葉を全部飲み込んだ。
「あれが、我らを終わらせてくれる者かどうかを」
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
女神の次は、王女。ここから、ヒロインが一人ずつ増えていきます。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




