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第3話 過去最大の祝福(前編)

これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。


主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……


※初日からブックマークをありがとうございました!これを励みに頑張ります!


 祝福の儀が行われるのは、神殿の中央に据えられた大祭壇だった。

 碧が通されたとき、そこはすでに人で埋まっていた。法衣の一団が円を描くように並び、その外周を騎士が固め、二階の回廊には神官でも騎士でもない者たちが押し寄せている。身なりのいい男女、帳簿を抱えた商人らしき一団、記録を取るための筆記具を構えた者。

 王都中の耳目が、この一点に集まっていた。

 無理もない、と碧は思った。千年かけて準備してきた儀式が、今日ようやく実を結んだのだ。しかも召喚された当人は、祝福を受ける前から石の台座を片手で受け止め、割れた硝子を宙に止めてみせている。噂は儀式が始まる前から街へ流れ出していた。

 祭壇の正面、一段高い場所に金の縁取りの椅子が据えられ、そこに一人の男が座っていた。

 五十をいくつか過ぎたあたりだろうか。豊かな髭を蓄え、赤い外套を肩に掛けている。目つきは柔和だが、その柔和さは長年かけて作り込まれたもののように見えた。

 男は碧を認めると、椅子から立ち上がった。

 その瞬間、広間の全員が膝をついた。

「グランヴェル王国国王、グレイル三世である」

 名乗ったのは本人ではなく、傍らに控えていた痩せた男だった。細い顎と、隙のない笑みを持っている。

「宰相ザルドスと申します。以後、お見知りおきを」

 碧は会釈した。

 膝をつかなかったのは、つくべきかどうかを判断する材料がなかったからだ。周囲がざわついたが、王は片手を上げてそれを制した。

「よい。この御方は我が臣ではない」

 低く、よく通る声だった。

「召喚者殿。まずは詫びねばならぬ。断りもなく招き、事情も説明せぬうちに儀へ引き出す。我らの都合である。恥じておる」

「……はい」

 碧は素直に頷いた。恥じているというのが本心かどうかは、まだ判断できなかった。ただ、少なくとも取り繕おうとはしていない。

「その上で頼みたい。この国を、この世界を、見てやってはくれぬか。救えとは言わぬ。まず見て、それから決めてほしい」

 その言い方は、碧の予想からわずかに外れていた。

 救えと言われると思っていた。断りにくい形で。

「見てから決めていいなら、見ます」

「よかろう」

 王は満足げに頷いた。

 その横で宰相ザルドスの笑みがわずかに深くなったのを、碧は見逃さなかった。王の言葉は誠実だったが、誠実な言葉を誠実なまま運用するかどうかは別の人間が決める。厨房でも同じだった。いい食材を仕入れてくる人間と、それを無駄にする人間は、たいてい別々にいる。

 碧は覚えておくことにした。今日の分だけを刻んで、明日の分は明日刻む。

 王が祭壇の中央へ目を向けた。

 そこにエルフィリアが立っていた。

 彼女が来てから、祭壇を囲む蝋燭の炎はすべて縦にまっすぐ伸びたまま揺れていない。空気が動いていないのではなく、動くことを止められている。


「――始めます」

 エルフィリアの声が、広間の隅々まで届いた。

 碧は言われるまま、祭壇の中央の円に立った。足元の銀線が、ひとりでに淡く灯る。

 彼女が正面に立ち、白い手を持ち上げた。

「アオイ。少し、しゃがんでくれますか」

「え」

「背が、届かないので」

 広間の空気が、わずかに緩んだ。どこかで小さく笑った者がいて、慌てて咳払いに変えていた。

 碧は膝を折り、目線を下げた。エルフィリアの指先が、そっと額に触れる。

 冷たくはなかった。温かくもなかった。ただ、触れられた場所から、自分の輪郭が外へ広がっていくような感覚があった。

「言語理解」

 エルフィリアが、最初の言葉を置いた。

 額の奥で、何かがほどけた。

 広間のざわめきが、急に立体的になった。誰がどの方向で何を言っているのか、聞き分けられる。回廊の商人が隣の男に囁いた「これは投資になる」という一言も、壁際の若い兵が漏らした「神様って喋るんだな」という呟きも、全部拾えた。

 それどころか、祭壇の縁に刻まれた文字が読めた。千年前の言葉で「ここに希望を置く」と書かれていた。

「創造」

 二つ目。

 今度は、掌の内側に重さが生まれた。

 何もないところに、何かを置ける。そういう確信が、理屈を飛ばして手に宿った。碧は無意識に指を開き、そして握り直した。

「神聖」

 三つ目。

 広間が、ざわついた。

「三つだ」

「三つ目が通った。器は」

「……壊れておらぬ」

 エルフィリアは止まらなかった。

「攻撃魔法、全系統」

 四つ目。

 悲鳴が上がった。

 碧の身体の中で、九つの色が同時に灯った。火、水、風、土、雷、氷、光、闇、そして名前のつけられていない何か。どれも、使い方を教わっていないのに使い方だけがわかる。

「剣技」

 五つ目。

 見えた。

 膝をついたままの体勢で、碧の目は広間中の騎士の構えを拾っていた。誰の重心が前に寄りすぎているか、誰の肩に古い怪我を抱えているか、誰の握りが正しいか。そして、それを上回る手が自分の中に何十通りも並んでいるのがわかった。

 妙な感覚だった。碧はこれまで一度も剣を握ったことがない。にもかかわらず、握り方も振り方も間合いの潰し方も、まるで十年かけて身体に叩き込んだあとのような滑らかさで揃っていた。父の包丁さばきを横で見て覚えた時間が、そのまま何十年分も上乗せされたような感触に近い。

「回復」

 六つ目。

 これは、わかりやすかった。傷ついたものを元へ戻す道筋が、地図のように頭の中へ広がった。切れたものは繋がり、折れたものは接ぎ、失われたものは埋まる。

「治癒」

 七つ目。

 六つ目とは質が違った。こちらは傷ではなく、傷を生んでいる原因のほうへ手を伸ばす力だった。病を、毒を、呪いを、心の歪みを、その根の部分から引き抜いて捨てられる。

 碧の頭に、なぜか最初に浮かんだのは戦場ではなかった。膝を悪くして長く立てなくなった祖母の顔だった。

 もう、誰も声を出さなかった。

 法衣の一団は祈るのをやめていた。騎士たちは剣を捧げる姿勢のまま動かなくなっていた。宰相ザルドスの笑みが、初めて形を崩していた。

 セルヴァンだけが、掌を目の上に載せて震えていた。

 エルフィリアの指が、まだ額から離れない。

「そして」

 彼女の声が、そこで一段だけ低くなった。

「魔力を、無限に」

 広間から、音が消えた。

 次の瞬間、碧の足元の銀線が白く沸騰した。

 光が柱になった。

 天井を突き抜け、空へ抜け、王都のどこからでも見えるだろう太さで立ち上がった。回廊の硝子が一斉に鳴り、蝋燭の炎が横倒しになり、旗が全部倒れた。誰かの帽子が飛んでいくのが視界の端に見えた。

 碧は、その中心にいた。

 光の柱の内側は、驚くほど静かだった。外で何が起きているのかは音として届いてこない。まるで厚い雪の中に立っているようで、その静けさの中で、自分の心臓の音だけがゆっくりと数えられた。

 熱くはなかった。苦しくもなかった。

 ただ、自分という器に注がれ続けている何かが、いつまで経っても縁に届かないのだけがわかった。注いでも注いでも、底が見えない。器が大きいのではない。底が、そもそもないのだ。

 その感覚の中で、碧は一つのことを思った。

 ――これ、返せないやつだ。

 光が収まるまでに、たっぷり十秒かかった。


 静寂が戻ったとき、最初に動いたのは測定の担当をしていた神官だった。

 彼は震える手で、予備の鑑定水晶を掲げた。今度のものは先ほどより一回り大きく、台座ごと銀で補強されている。

 碧が指を向ける前に、水晶は砕けた。

 破裂音すらなかった。ただ、内側から砂になった。

「……三つ目です」

 神官が、抜け殻のような声で言った。

「予備が、あと一つしかございません」

「やめておけ」

 セルヴァンが顔から手を離し、掠れた声で止めた。老人の頬は濡れていた。

「もはや測る意味がない。測れる物差しが、この世界に存在せぬ」

 広間が、ゆっくりと騒がしくなった。

 最初は囁きだった。それが呟きになり、声になり、やがて誰かが叫んだ。

「王よ! 御覧になられましたか!」

「見た」

 グレイル三世は立ったままだった。片手で椅子の背を掴んでいる。その手の甲が白くなっていた。

「余は、歴史の只中に立っておる」

 碧は、ゆっくりと立ち上がった。

 立ち上がって、自分の身体の軽さに驚いた。疲労がない。そればかりか、朝からの肩の凝りや、昨日の仕込みで痛めた手首の違和感まで消えていた。

 試しに、右手を開いてみる。

 掌の上に、光の粒を置くつもりで意識を向けた。

 粒が生まれた。

 次に、その粒を形にするつもりで指を動かした。

 光は伸びて、細い針になり、針は厚みを持って、やがて一本の匙になった。掌に転がった匙は、銀ではない何かでできていて、けれど確かな重さと冷たさを持っていた。

 碧は掌の匙を指で回し、その重さを確かめた。使える。飾りではない。これで本当にスープが掬える。

 異世界で得た絶大な力の使い道として、最初に匙を作った人間はおそらく自分が初めてだろう。そう思うと、少しだけ可笑しかった。

 碧はそれを卓ではなく懐にしまい、それから祭壇の縁に目をやった。

 そこには、さっきの光で走った亀裂があった。千年前の文字の、ちょうど「希望」の部分を横切っている。

 碧は指先を向けた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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