第2話 女神エルフィリア(後編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
それから、唇を薄く開いた。
「……エルフィリア」
「エルフィリア」
「エルフィリアです。わたしの、名前です」
その瞬間、彼女の髪が淡く光った。
自分で言った自分の名前に驚いたように、女神は自分の胸元を押さえた。
「呼ばれたの、久しぶりです」
小さな声だった。碧にしか届かない音量だった。
「千年、誰もわたしの目を見なかったので」
碧は、その言葉の意味をすぐには掴めなかった。
掴めないまま、ただ一つだけわかったことがあった。目の前の存在は、百人に跪かれながら、ずっと一人だったのだ。
そのあと、しばらくは慌ただしかった。
神官たちが祝福の儀の準備に走り回り、騎士たちが倒れた旗を立て直し、割れて金で継がれた色硝子を見上げては誰かが泣いた。セルヴァンは補佐と何度も言い争い、そのたびに「前例がない」という単語が飛び交っていた。
碧はその輪の外に案内され、長い回廊を歩かされた。
回廊は片側が吹き抜けの柱廊になっていて、歩きながら王都を見下ろすことができた。神殿は丘の上に建っているらしく、白い石の街並みが扇のように下へ広がっている。屋根瓦の色はてんでばらばらで、赤も茶も灰もあり、そのちぐはぐさがかえって人の暮らしの厚みを感じさせた。
市場らしき広場に人だかりが見えた。荷車が並び、布の屋根が立ち、小さく見える人影が忙しく行き来している。距離があるのに、言語理解のせいか売り声の断片まで耳に届いた。今日の果物は安いと誰かが叫び、その隣で別の誰かが値切っている。
どこにでもある光景だった。
こんなに離れていても、生活の匂いというのは変わらないものらしい。碧はそう思って、それから唐突に、自分が明日の仕込みに間に合わないことを理解した。
玉ねぎは刻まれない。父は一人で厨房に立つ。母は碧の席を空けたまま、何度も店の扉を見るだろう。
胃の底が冷えた。
帰れるのかという問いを、碧はここまで一度も口に出していなかった。出せば答えが返ってくるからだ。そしてその答えが望むものでなかった場合、自分がどうなるのかを、まだ確かめる勇気がなかった。
いまは考えないことにした。刻む順番を間違えれば、料理は必ず失敗する。
回廊を抜けた先の控えの間に、碧は通された。
石の壁に厚い織物が掛けられ、低い卓と椅子が置かれている。窓の向こうに、緑の丘が見えた。壁の織物には麦の穂を束ねた図柄が縫い取られていて、端のほうだけ糸がほつれていた。長く使われてきた部屋らしかった。
卓の上に、食事が運ばれてきた。
運んできたのは、あの見習いの少女だった。
「ミ、ミリアと申します。お口に合うか、わかりませんが」
盆の上には、硬そうな丸パンが二つと、湯気の立つ椀が一つ。椀の中身は薄い茶色のスープで、豆と、細かく切った何かの葉が沈んでいた。
碧は、素直に腹が鳴った。
いただきます、と手を合わせてから匙を取る。ミリアが不思議そうにその仕草を見ていた。
一口飲んで、碧は動きを止めた。
「……うん」
「お、お口に合いませんでしたか」
「合う。味は悪くない。豆の炊き方は丁寧だし、出汁も取ってある」
碧はもう一口飲み、舌の上で豆を潰してから椀を置いた。
「ただ、塩が足りない。あと、たぶん火を止めるのが五分早い」
ミリアが目を丸くした。
「なぜ、それを」
「豆の芯が残ってる。あと十分弱火で置いたら、この豆はもっと甘くなる。塩はそのあとだ。先に入れると硬くなるから」
言ってから、碧は口を閉じた。
異世界に召喚されて三十分も経っていない人間が、出された食事に駄目出しをしている。我ながら、どうかしていた。
「……すみません。実家が飯屋なもので」
「飯屋」
「洋食屋です。まあ、その、料理を出す店です」
ミリアは洋食という言葉を知らないようだったが、料理を出す店という部分だけは理解したらしく、盆を抱えたまま何度も頷いた。
「わたしの家も、宿をやっております。厨房には母が立っておりまして、わたしも神殿に入るまでは芋を剥いておりました」
「じゃあ、同業だ」
「同業」
少女がその言葉を繰り返した。とんでもないことを言われたという顔をしていた。
碧はそれを見て、少し困った。勇者だ祝福だと騒がれる前に、自分がいちばん自然に他人と繋がれるのは結局この話題なのだと気づいてしまったからだ。
ミリアはしばらく碧を見つめ、それから盆を胸に抱えて、深く頭を下げた。
「厨房に、伝えてまいります」
「え、いや、そこまでは」
「伝えます」
少女の声には、妙な迫力があった。
彼女は扉の手前で振り返り、思い切ったように言った。
「アオイ様。わたし、二度も助けていただきました。ですから、これはお返しです。次にお持ちするときは、芯のない豆をお持ちします」
扉が閉まった。
碧は残ったパンを手に取り、ちぎって口に入れた。硬い。だが噛んでいるうちに麦の甘みが出てくる。悪くないパンだった。
窓の外では、鐘が鳴り始めていた。
三度、間を置いて、また三度。街の方々から人が神殿へ向かって歩いてくるのが見える。何か大きなことが起きたと、誰もが知ってしまったのだろう。
背後で、衣擦れの音がした。
振り返ると、いつの間にかエルフィリアが立っていた。扉は開いていない。
「……普通に入ってきませんね」
「あ。すみません、癖で」
彼女は少し慌てて、それから卓の向かいの椅子に、そっと腰を下ろした。神が椅子に座るという絵面に、碧は妙な感慨を覚えた。
「アオイ」
碧は頷いた。
「祝福の儀を、これから行います。その前に、一つだけ伝えておきたいことがあります」
エルフィリアの指が、卓の上で組まれた。細い指だった。神の指というより、長く机に向かってきた人間の指に見えた。
「この世界は、あなたが思っているよりずっと、あなたに期待します。勇者だと呼びます。救ってくださいと言います。断れば、失望します」
「でしょうね」
「わたしは、あなたにそれを背負ってほしくて力を渡すのではありません」
彼女は顔を上げた。
「背負わなくていいように渡すんです。嫌なら逃げられるだけの力を。行きたい場所へ行けるだけの力を。誰かに飯を作ってやりたいと思ったときに、そうできるだけの力を」
その言い方には、長く準備されてきた気配があった。今日この場で思いついた言葉ではなく、何十年も何百年も頭の中で組み立て直されてきた文章を、ようやく声に出した人の落ち着きがあった。
碧は、匙を置いた。
「……見てたんですか。さっきの」
「観測です」
「観測」
「観測です」
二人はしばらく黙った。
窓の外で鐘が鳴り続けている。遠くで人の声がする。世界がこれから大きく動こうとしている音が、厚い石の壁を透かして伝わってくる。
その音の中で、碧は自分の両手を見下ろした。玉ねぎの匂いがまだ残っている手だった。爪の形も、人差し指の付け根にできた古い胼胝も、昨日までと何ひとつ変わっていない。
この手が、これから何をすることになるのか。想像はつかなかった。ただ、少なくともこの手で誰かに飯を出せるうちは、自分は自分のままでいられるだろうという気がした。
その中で、碧は息を吐いた。
「わかりました。もらいます」
自分でも驚くほど、あっさりと言葉が出た。
断る理由を探せば、いくらでも出てきたはずだった。得体の知れない力を、得体の知れない相手から受け取る。しかも前例がないと専門家が青くなっている代物だ。まともな判断力があれば、もう少し渋るべき場面だった。
それでも碧が頷いたのは、目の前の相手が自分を利用しようとしていないことが、どうしても伝わってきてしまったからだ。この人は、碧に何かをさせるために力を渡そうとしていない。させないために渡そうとしている。
その順序の違いだけで、充分だった。
「……いいんですか」
「はい。ただ、条件を一つだけ」
碧は、まっすぐにエルフィリアを見た。
「壊れないって言うなら、信じます。でも、もし俺が壊れそうになったら、あなたが止めてください。ほかの誰でもなく、あなたが」
エルフィリアの目が、ゆっくりと見開かれた。
青の底で、何かが強く光った。
彼女は立ち上がり、胸に手を当て、千年ぶりに祈られる側ではなく約束する側になった顔で、はっきりと言った。
「誓います」
控えの間の扉が、外から叩かれた。
「アオイ殿。儀の支度が整いましてございます」
セルヴァンの声だった。その声は、朝と夕ほども違って聞こえた。
碧は立ち上がり、残っていたパンを最後まで口に入れて、きちんと飲み下してから扉へ向かった。
その背中に、エルフィリアの声がかかった。
「アオイ。わたし、ずっと考えていたことがあります」
「なんですか」
「三つでは、足りません」
彼女は、笑った。
初めて見る、屈託のない笑い方だった。
「四つでも、十でも足りません。あなたには、ぜんぶ差し上げます」
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




