第2話 女神エルフィリア(前編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
大神官の杖が転がりきって止まるまで、神殿の誰ひとりとして動かなかった。
碧は、目の前の少女を見ていた。
銀の髪は床に届いてもなお余り、光の残滓を含んだまま石の上に広がっている。白い衣の裾がどこで終わっているのか、何度目で追っても掴めなかった。ただその中心にいる顔だけが、やけにはっきりと人間くさい。
耳まで赤い。
神の顕現というものを碧は今日初めて見たが、少なくとも自分が想像していたそれとは、根本的に何かが食い違っていた。
「めっ、女神様」
沈黙を破ったのはセルヴァンだった。老人は膝をついたまま、転がった杖に手を伸ばすことすら忘れて声を絞り出す。
「ただいまの御言葉は、いかなる意味にございましょうか」
「意味、ですか」
女神が瞬きをした。
「意味は、その、言葉のとおりです」
「そのとおり、とは」
「ですから」
彼女は胸の前で握っていた手を、ほどいたり結び直したりしている。言葉を探しているというより、口から出したい言葉が多すぎて渋滞を起こしているように見えた。
やがて女神は、覚悟を決めたように顔を上げた。
「この方にお渡しする祝福に、上限を設けません。以上です」
神殿が、爆発した。
悲鳴に近い声があちこちで上がった。法衣の一団が一斉に何かを叫び、騎士たちが立ち上がろうとして甲冑をぶつけ合う。壁際の旗が倒れ、誰かがそれを踏んだ。祈りとも抗議ともつかない音の塊が、高い天井に当たって降ってくる。
その振動が、まずかった。
神殿というのは祈りを集めるために建てられている。石と硝子と鉄でできた巨大な器であり、内側の音を逃さないように設計されている。そこへ百人分の絶叫と、女神の顕現でまだ張り詰めたままの空気が同時に押し寄せた。
頭上で、ぴしり、と硬い音がした。
碧が見上げたとき、色硝子の一枚に白い線が走っていた。女神の顕現に耐えきれなかったのか、枠ごと歪んでいる。線は一本から三本に増え、網のように広がり、そして砕けた。
赤と青の破片が、高さ十数メートルから降ってきた。
真下にいたのは、さっき台座から助けた見習いの少女と、膝をついたままのセルヴァンだった。二人とも上を見ていない。
碧は考えなかった。
床を蹴り、三歩で距離を潰し、左腕で少女の頭を抱え込み、右手を空へ向けて突き出した。
突き出して、それからようやく、自分が何をしようとしたのか理解した。
手で受け止めるつもりだった。ガラスの雨を。素手で。
馬鹿だ、と思った。
思った瞬間、破片が止まった。
碧の頭上、ちょうど手を伸ばして届くあたりの高さで、数百の色硝子が空中に縫い留められていた。落下が止まったのではない。重さという性質そのものを、誰かが途中で取り上げたような静止だった。
赤が、青が、緑が、光を透かしてゆっくりと回っている。破片の一つ一つが、そこに浮かんだまま向きを変えていた。
神殿から、音が消えた。
碧は自分の右手を見た。何も握っていない。何も唱えていない。ただ突き出しただけの手のひらが、まだ空を向いている。
「……いま、俺が」
「はい」
すぐ後ろで声がした。
振り返ると、女神が立っていた。いつの間に移動したのか、手が届く距離にいる。近くで見ると背は碧より頭ひとつ低く、見上げてくる目の中で光の粒が流れていた。
「あなたです。わたしは何もしていません」
「でも俺、魔法とか」
「知らなくてもできます。祝福はもう、始まっていますから」
女神は破片を見上げ、そっと指を振った。
浮いていた色硝子が、一枚ずつ順序よく上昇していく。砕けた枠の位置に戻り、割れた線を内側から埋めるようにして継がれ、やがて元の一枚の絵に戻った。継ぎ目は残っていた。絵の中の花に、細い金の線が何本も走っている。
それは修復というより、割れた器を金で継いだ跡のように見えた。
「壊れたものを、なかったことにはしません」
女神が言った。
「壊れたことごと、残して直します。そのほうが、きれいだと思うので」
碧は、返す言葉を持たなかった。
かわりに自分の右手をもう一度見た。何をしたのか自分でもわからないまま、あれだけの量の硝子を空中に縫い留めた手だ。力が入った感覚もなければ、何かを消費した感覚もない。ただ手を伸ばしただけで世界の側が勝手に譲ってくれたような、居心地の悪い手応えだけが残っていた。
嬉しいとは思えなかった。便利だとも思えなかった。自分の身体に自分の知らない機能が勝手に増設されていく気味の悪さのほうが、いまは勝っていた。
腕の中で、見習いの少女が震えていた。恐怖ではなく、たぶん別のもので震えていた。碧が腕を緩めると、彼女はその場に崩れるように座り込み、両手で顔を覆った。
「……申し訳、ございません。二度も」
「いや、こっちこそ乱暴に掴んで悪かった。どこか痛くないか」
少女が首を横に振る。碧は膝を折って目線を合わせ、彼女の肩と腕を軽く確かめてから立ち上がった。
その一連を、神殿中が見ていた。
法衣の者たちが、騎士たちが、倒れた旗を踏んだまま動けずにいる兵が、誰一人として声を出さずに碧を見ていた。畏れとも感心ともつかない、名前のつけにくい視線だった。
「……見たか」
騎士の一人が、隣の男に囁いた。
「祝福の儀を、まだ受けておられぬのだぞ」
「見た。だが、そこじゃない」
年かさの騎士が、低く言った。
「あの御方は、真っ先に神官の子を庇いに走った。大神官様でもなく、ご自身の身でもなく」
セルヴァンが、ようやく杖を拾った。
老人は立ち上がろうとして膝が言うことを聞かず、隣の補佐に支えられながら、それでも背筋だけは伸ばした。
「――お名前を、うかがってもよろしいか」
その問いは、女神ではなく碧に向けられていた。
「天野碧です」
言ってから、こちらの世界では順序が違うだろうかと思い直した。
「アマノが家の名で、アオイが俺の名前です」
「アオイ殿」
セルヴァンが、その音を確かめるように繰り返した。
「アオイ殿。無礼を承知で申し上げる。貴殿はいま、女神より無制限の祝福を賜ると宣されました。これは、千年の記録に一行たりとも前例のないことでござる」
「どのくらい前例がないんですか」
「祝福は、三つまで」
老人の声が、わずかに掠れた。
「それが理でござる。人の器には限りがあり、四つ目を注げば内側から壊れる。歴代の召喚者はみな、それを承知のうえで三つを選び取ってこられた」
セルヴァンは記録に残る選択をいくつか挙げた。剣技と身体強化と直感を選んだ者がいた。炎の魔法と結界と治癒を選んだ者がいた。言語と交渉と幸運という、戦いにまるで向かない三つを選んだ変わり者もいたという。どの召喚者も、残りの人生をその三つだけで戦い抜くことになった。
「選ぶというのは、捨てるということでござる。二十いくつの若者に、生涯捨て続けるものを決めさせる。我らは千年、それをやってまいった」
老人の口調には、自慢めいたものが一切なかった。むしろその逆で、長く続けてきた行いを恥じている者の響きがあった。
碧は眉を寄せた。
「壊れるって、どうなるんですか」
セルヴァンは答えなかった。
答えないという答えを、碧は今日すでに一度もらっている。
「なるほど」
碧はそれ以上訊かず、隣を見た。
女神は、床の一点を見つめたまま動かなかった。
「あなたは、それを知っていて言いましたか」
「……はい」
「じゃあ、俺は壊れるんですか」
「壊れません」
顔を上げた女神の目から、さっきまでの動揺が消えていた。青が深くなっていた。
「あなたなら壊れないと、わたしにはわかります。千年ぶん、ずっと視てきましたから」
「千年」
「……あ」
女神の顔が、また赤くなった。今度は首筋まで。
「い、いまのは違います。違わないですけど、そういう意味ではなく、職務上の、その、観測です」
「観測」
「観測です」
碧の横で、補佐の神官が小さく「女神様が言い訳をしておられる」と呟き、隣に肘で突かれていた。
碧は、笑いそうになるのを堪えた。
神が言い訳をし、その言い訳を部下に見抜かれ、それでも押し通そうとしている。この場にいる百人の中で、いちばん取り繕えていないのが最上位の存在だという事実が、妙に可笑しかった。
状況はまったく整理できていない。元の世界に帰れるのかもわからないし、この人たちが自分をどう使うつもりなのかもわからない。それでも、この目の前の相手が嘘をつける性格をしていないことだけは、なんとなくわかった。
息を吸って、吐く。
「名前を、聞いていいですか」
女神が、きょとんとした。
「名前、ですか」
「はい。さっきから、みんなあなたを女神様としか呼ばないので」
神殿の空気が、また止まった。
法衣の一団のうち何人かが、ひゅっと喉を鳴らした。セルヴァンが目を見開き、補佐の袖を掴んでいる。
女神は、しばらく動かなかった。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




