第1話 召喚の光(後編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
碧はその単語を口の中で転がした。漫画でもゲームでも散々見てきた二文字で、あまりにも聞き慣れているせいで、かえって現実味がひとつも伴わなかった。目の前の老人が本気で言っているのは表情を見ればわかる。わかるからこそ、自分の身体がまだその重さを受け取れずにいるのだと碧は思った。
「左様。貴殿はこれより、我らが女神より祝福を賜る。剣も魔法も、この地の常識を超える力を」
「もらえなかったら?」
セルヴァンの眉が動いた。
「……なんと?」
「もし俺が、その祝福をもらえなかったらどうなりますか」
神殿の空気が、目に見えて硬くなった。
甲冑の一人が何か言いかけて、隣の男に肘で止められる。法衣の一団は互いに視線を交わし、誰も口を開かない。
答えが返ってこないということは、そういうことだった。
碧は息を吐いた。不思議なことに、怒りは湧いてこなかった。千年ものあいだ追い詰められ続けた末に、最後の手段として見も知らぬ誰かを引きずり出す。その判断に至るまでの過程が理解できてしまうあたりが、いちばん厄介なところだった。
閉店間際に十人の団体が入ってきた夜のことを、なぜか思い出した。父は文句ひとつ言わずに火を入れ直し、碧は黙って玉ねぎを刻み始めた。理不尽を呑み込む手つきだけは、この家で十八年かけて覚えてきたものだった。
「わかりました。続けてください」
「……よろしいのか」
「よくはないです。でも、ここで怒っても腹が減るだけなので」
誰かが、ぷっと噴き出した。
最前列で膝をついていた、まだ十代に見える見習いの少女だった。慌てて口を押さえたが遅い。周囲の視線が集まり、少女は耳まで赤くなって床に額をつけた。
碧は思わず笑ってしまった。
そうだ。腹は減っている。六時間目の終わりに帰るつもりだったのだから、当たり前だった。
セルヴァンが咳払いをひとつして、杖を掲げた。
「では、まず貴殿の資質を測る。祝福を受ける器がどれほどのものか、儀の前に把握せねばならぬ」
法衣の者が二人がかりで運んできたのは、黒い石の台座に据えられた拳大の水晶だった。曇りはひとつもなく、磨き抜かれた面が神殿の光をそのまま跳ね返している。近づくと、内側で細かな光の粒がゆっくりと渦を巻いているのが見えた。
その粒の回り方を、碧はなんとなく美しいと思った。鍋の中で澄んだスープが対流するときの、あの静かな動きによく似ていた。
「手をかざされよ。痛みはないと伝えられておる」
言われた通りに右手を持ち上げる。掌を下にして、水晶の真上でそっと止めた。
指先が面の上に差しかかった瞬間、内側で回っていた光の粒が一斉に動きを止めた。
嫌な予感がした。厨房で鍋の底が焦げつく直前の、あの空気の変わり方とよく似ていた。
次の瞬間、水晶の内側で白い光が爆発した。台座が跳ね、それを支えていた法衣の男が悲鳴を上げて手を離す。水晶の表面に、根のような亀裂が走った。
「陛下の御前だぞ、何をして――」
叫びかけた騎士の声を、鋭い音が切り裂いた。
亀裂が広がる。台座が傾く。碧が身体を引くのと、水晶の載った台座が床に倒れるのは同時だった。
そして、その真横にいたのが、さっき笑ってしまった見習いの少女だった。
少女は動けていなかった。目を見開いたまま、倒れてくる石の台座を見上げている。声も出ていない。
考えるより先に身体が動いた。
碧は踏み込み、少女の肩を掴んで引き寄せ、空いた手で台座を受け止めた。
受け止めて、しまった。
石の塊は、大人二人がかりで運んできたものだった。それが片手に乗った。重さはあった。けれどそれは、寸胴鍋を持ち上げるときの重さと大差なかった。
神殿が、しんと静まり返った。
碧は自分の右手と、その上に載っている石の塊を交互に見比べた。腕は震えていないし、息も乱れていない。指先に感じているのは、重さというより手のひらを押し返してくる面積の広さだけだった。
おかしい、と頭のどこかが冷静に告げている。二人がかりで運ばれてきたものを片手で支えられるほど、自分の身体は都合よくできていなかったはずだ。
ゆっくりと膝を折って台座を床に下ろす。石が石に触れる低い音が、神殿の高い天井まで昇っていってから、ひとまわり大きくなって返ってきた。
「……だい、じょうぶ?」
腕の中の少女に訊く。彼女は何度か瞬きをして、それから壊れた玩具のようにこくこくと頷いた。
その瞬間、堰が切れた。
「あり得ん」
「祝福も受けておらぬのに、あの重量を」
「見たか、あの踏み込みを。騎士団の誰にできる」
ざわめきが渦を巻く。騎士たちが一歩前に出て、法衣の一団が互いの袖を掴んで何か囁き合っている。碧を見る目つきが、明らかに変わっていた。
感心。畏怖。計算。そして、隠しきれない興奮。
その中で、セルヴァンだけが動かなかった。
老人は砕けた水晶を見下ろし、それから碧を見て、もう一度水晶を見た。杖を握る手の甲に、浮き上がった血管が震えている。
「……大神官様」
補佐らしき男が、恐る恐る声をかけた。
「測定値は」
「出ておらぬ」
「え」
「出ておらぬのだ。上限を超えたのではない。あの水晶は、そもそも読み取ることを拒んだ」
セルヴァンが顔を上げた。
その目に浮かんでいたのは、歓喜でも恐怖でもなかった。ただひたすらに、理解が追いつかない者の顔だった。
「千年で一度もない。歴代十七人の召喚者、誰一人として」
「十七人」
碧は聞き返した。
老人の肩が、びくりと跳ねた。
「……いや。言葉の綾でござる」
嘘だ、と思った。
根拠と呼べるものは何ひとつない。ただ、あの一瞬の肩の跳ね方は、単なる言い間違いをした人間のものではなかった。言ってはいけないと自分に言い聞かせてきたことを、うっかり口から滑らせてしまった人間の反応だった。
碧は口を閉じた。ここで食い下がったところで、返ってくるのは体よく整えられた説明と、警戒の目だけだろう。覚えておけばいい。玉ねぎと同じだった。今日刻む分だけを刻んで、明日の分は明日の朝に刻めばいい。
そのとき、空気が変わった。
最初に気づいたのは、音が消えたことだった。
ざわめきが止んだのではない。人々は口を動かしている。なのに、何も聞こえない。
次に、光が落ちた。色硝子から差していた赤と青の模様が、床から吸い上げられるように消えていく。神殿は闇に沈まなかった。ただ、すべての色が薄れて、白に近づいていった。
誰かが天井を指差した。
碧も見上げた。
天井が、ない。
絵が描かれていたはずの遥か高みに、そこだけ世界を切り取ったような穴が開いていた。いや、穴ではない。天井という概念が、その一点だけ丁寧に剥がされている。
そこから、光が降りてきた。
まっすぐには落ちてこなかった。雪のように、あるいは風のない日の灰のように、幾重にも渦を巻きながらゆっくりと高度を下げてくる。床に届いた光は跳ね返ることなく、銀の象嵌の線を選んで流れ込み、召喚陣の文様を外側から順に灯していった。
灯った部分から、床の冷たさが消えていくのがわかった。石が温まったのではない。冷たいという感覚そのものが、そこだけ丁寧に取り除かれていた。
神殿中の人間が、一斉に床に伏した。
セルヴァンさえも、杖を投げ出して膝をついていた。老人の唇が、声にならない祈りの形に動いている。
碧だけが立っていた。
膝を折らなかったのではない。折るという発想が湧く前に、光の中心が形をとり始めていたからだ。
銀の髪が、先に見えた。
光そのものを丁寧に梳いて束ねたような、途方もなく長い髪だった。それが重さを持たないまま宙に大きく広がり、渦の速度に合わせてゆっくりと降りてくる。続いて細い肩が、白い腕が、どこまでが裾なのか目で追えない衣が、順番に像を結んでいった。
碧はその一連を、まばたきも忘れて見ていた。綺麗だと思う前に、これは自分が見ていい類のものではないのではないか、という後ろめたさが先に来た。
そして、目が開いた。
碧は、息を忘れた。
青だった。空とも海とも違う。もっと深くて、もっと静かで、底に何か途方もないものを沈めている青。
少女に見えた。自分と同じくらいの年格好。けれど、その目の奥にある時間の量だけが、外見とまるで釣り合っていなかった。
彼女はゆっくりと床に降り立った。裸足だった。細い足の指が石に触れた瞬間、神殿の空気が春先の昼のように一段階だけ暖かくなり、色硝子から差していたはずのない花の匂いが、どこからともなく漂った。
そして女神は、伏している百人を見なかった。
顔を上げることすらしなかった信徒も、跪いた騎士も、震える大神官も。そのどれも視界に入れず、まっすぐに碧を見た。
見て、そのまま動かなくなった。
数秒。
女神の白い頬に、ゆっくりと朱が差した。
それは光の加減ではなかった。耳の先まで、はっきりと赤くなっていた。
「……あ」
女神の唇が動いた。
千年ぶりに言葉を思い出したような、頼りない音だった。
「あ、えっと、その」
視線が泳ぐ。手が意味もなく髪に触れ、慌てて下ろされ、また持ち上がる。
伏していた者たちが、何が起きているのかわからずに顔を上げ始めた。セルヴァンが呆然と口を開いている。
碧は、どう反応すればいいのかわからないまま立っていた。
女神と呼ばれる存在が、目の前で、明らかに動揺している。
やがて彼女は、両手をぎゅっと胸の前で握った。深く息を吸い、それを全部吐き出して、もう一度碧を見上げた。
赤い顔のまま、それでもまっすぐに碧の目を見て、女神は言った。
「……わたし、決めました」
その声は、さっきまでの頼りなさが嘘のように澄んでいた。神殿の隅々まで届く声でありながら、どこか一対一で話しかけられているような響きを持っていた。
誰も、身じろぎひとつしなかった。
「この人に、ぜんぶ差し上げます」
大神官の杖が、音を立てて床に転がった。
その乾いた音だけが、千年ぶんの祈りを積み上げてきた神殿の中を、ゆっくりと端まで転がっていった。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




