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第1話 召喚の光(前編)

これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。


主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……


本日は台風なので6回投稿しようかと思います。


 千年、待っていた。

 彼女の役目は、見ることだった。世界のいちばん高いところから下を見て、数えて、記録して、必要になれば呼ぶ。それ以外は何ひとつ許されていない。

 千年で、十七回それを繰り返した。十七回とも、うまくいかなかった。

 だから今日も同じようにするはずだった。器を選び、手順どおりに引き寄せ、規定の祝福を三つ渡す。四つ目を注げば器が壊れる。それが理である。

 ただ、彼女はもう三年、同じ一点だけを見ている。

 油と玉ねぎの匂いがする小さな店の、二階の窓だった。そこに一人の少年がいる。強くもないし賢くもない。ただ、店の閉まったあとの厨房で、誰も見ていないのに何百回も同じ作業を繰り返していた。玉ねぎを刻んでいた。飴色になるまで、鍋の前から動かなかった。

 彼女にはそれが、ひどく眩しかった。

 千年のあいだ、跪く者はいた。祈る者もいた。それでも顔を上げて目を見た者は、一人もいない。見られることのない存在が、誰かをずっと見ている。その滑稽さは本人がいちばんよく知っていた。

 窓の内側で、少年が鞄にノートを押し込んで立ち上がろうとしている。

 ――ああ、と彼女は思った。

 今日は、たぶん理を破る。



 六時間目の終わりを告げるチャイムは、いつ聞いても少しだけ間延びしている。

 天野碧はシャープペンを置き、ノートの端に書きかけていた買い物のメモを見下ろした。玉ねぎ、鶏もも、トマト缶を二つ。牛乳が切れかけていたはずだからそれも足しておく。明日は土曜で、店は昼から確実に混む。父が仕込みで手を取られる分、玉ねぎを刻むのは昔から碧の役目だった。

 三百個ほど刻んだ頃に涙が出なくなり、千個を越えたあたりで包丁の音が父と揃うようになった。褒められたことは一度もない。ただ去年の暮れに一度だけ、閉店後の厨房で父がぽつりと「お前の飴色は悪くない」と言った。あの一言を、碧はいまだに反芻している。

「碧、帰りどこ寄る?」

 前の席から振り返ったのは黒岩剛だった。背が高く、声がよく通り、教室の空気の半分くらいを持っていく男だ。中学からの腐れ縁でもある。

「いや、まっすぐ帰る。明日の仕込みあるし」

「またかよ。お前、高校生活の九割を厨房で終わらせる気か」

「九割は言い過ぎだろ。八割だ」

 黒岩が噴き出した。それにつられて隣の席の女子も笑い、窓際でスマホをいじっていた連中がこちらを見た。碧は鞄にノートを押し込みながら、ほんの少しだけ肩の力を抜く。

 自分が教室の中心にいる人間でないことは、とっくに理解していた。勉強は中の中、運動は中の下、顔も並み。強いて言えば人の話をちゃんと最後まで聞く癖があるくらいで、それは長所と呼ぶには地味すぎる。

 ただ、厨房に立っているときだけは違った。フライパンの中でバターが泡立つ音を聞いていると、世界が自分のために少しだけ速度を落としてくれる気がする。卵を落とす秒数、火を切るタイミング、皿に滑らせる角度。その一連を間違えずにやり遂げたとき、碧は自分が確かにここにいると感じられた。

 だから将来の話をされても困らなかった。継ぐつもりでいる。それ以外を考えたことがない。

 鞄を肩にかけて立ち上がったとき、足の裏がわずかに温かくなった。


 最初は日差しかと思った。

 西日が床を焼いていて、そこに立っていたのだと。けれど視線を下ろした碧の足元には、床板ではなく、見たこともない文字の輪が広がっていた。

 白く光る円。内側に幾重にも重なった環。環の隙間を埋め尽くす、直線と曲線で編まれた文字列。それは一瞬で描かれたのではなく、ずっと前からそこにあったものが浮かび上がってきたように見えた。

「……なんだこれ」

 声が出た瞬間、教室がざわついた。

「え、なにあれ」

「碧の足元、光ってね?」

「やばい、動画」

 誰かがスマホを構える。黒岩が椅子を倒しながら立ち上がるのが視界の端に映った。

「おい、天野! そこ動くな、いや動け、どっちだ!」

 どっちだ、は碧も聞きたかった。

 光が強くなる。床を透かして見える円の直径が、じわじわと広がっていく。机の脚が、通学鞄が、床に落ちていた消しゴムが、光の縁を越えた途端にそこにあることをやめた。消えたのではない。輪の外に押し出されるように、すう、と滑って退いていく。

 黒岩が手を伸ばした。指先が光の壁に触れた瞬間、彼の身体は見えない力に押し返されて後ろへよろけた。

「なんだよ、これ……!」

「下がれ」

 自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。

 伸ばされようとしていた何本もの手が止まる。碧は教室をぐるりと見渡した。三十人ぶんの顔が、驚きと好奇心と、少しの恐怖でこちらを向いている。

 巻き込みたくなかった。それだけははっきりしていた。

「たぶん、俺だけだ。近寄るな」

「馬鹿、そういう問題じゃ――」

 黒岩の言葉の続きは聞こえなかった。

 足元の光が跳ね上がり、視界を白く塗り潰した。浮遊感はなかった。落下でもない。ただ、立っている床だけがこの世からそっと抜き取られた。


 次に感じたのは、匂いだった。

 冷えた石と、古い蝋と、乾いた香草。実家の店で開店前に感じる、油が温まる前の空気に少しだけ似ている。それが碧の意識を引き戻した。

 瞼を開ける。

 高い。

 まずそう思った。天井が、遠い。学校の体育館より高く、そこに描かれた絵が霞んで見えるほどだった。白い石でできた円柱が何十本も立ち並び、その一本一本に蔦の彫刻が這っている。柱の間には色硝子の窓がはまり、差し込む光が床に赤と青の模様を落としていた。

 床には、教室で見たのと同じ文様が刻まれていた。ただしこちらは光ではなく、銀で象嵌されている。碧はその中心に立っていた。

 そして、囲まれていた。

 白い法衣の一団。銀の甲冑を着た男たち。壁際には旗を持った兵が並び、正面の段の上には金の縁取りの椅子が据えられている。数えるのをやめたくなる人数だった。百はいる。

 全員が、碧を見ていた。

 場が静まり返っているのは、誰も息をしていないからだと気づくのに数秒かかった。

 いちばん近くにいた法衣の老人が、震える手を胸に当てた。

「――来られた」

 その一言で、堰が切れた。

 歓声が神殿を揺らした。法衣の者たちが床に膝をつき、甲冑の男たちが剣を捧げ持つ。旗が振られ、誰かが膝を折り、誰かが祈りの言葉を叫んだ。音の壁が四方から押し寄せてきて、碧は思わず半歩後ずさった。

 そこで、おかしなことに気づいた。

 言葉が、わかる。

 彼らが口にしているのは明らかに日本語ではなかった。音の並びも、抑揚も、聞いたことがない。なのに意味が、頭の中でほどけるようにして届いてくる。翻訳されている感覚ですらない。最初から知っていた言語を聞いているようだった。

「静まれ!」

 段の上から声が飛び、波が引くように音が収まった。

 そこに立っていたのは、白と金の法衣をまとった老人だった。杖を持ち、髭を胸まで垂らしている。皺だらけの顔の中で、目だけが異様に若かった。

「召喚者よ。突然の招致、まずは詫びよう」

 老人が杖を床に突き、深く頭を下げた。それに倣って神殿中の人間が頭を垂れる。百人分の布と金属が同時に鳴る音を、碧は初めて聞いた。

「我が名はセルヴァン。グランヴェル王国、光明神殿の大神官を務めておる。……貴殿は、我らが千年守り続けてきた召喚の儀に応えてくださった」

 千年。

 その単語だけが、やけにくっきりと耳に残った。

「あの」

 碧は口を開いた。自分の声が思ったより落ち着いていて、少し驚く。

「状況を、順番に説明してもらえますか」

 セルヴァンが顔を上げた。皺の間で、目がわずかに見開かれる。

「順番に、と」

「はい。俺がどこにいて、何が起きて、あなたたちが何を望んでいるのか。順番に聞かせてください。全部聞いてから、考えます」

 沈黙が落ちた。

 甲冑の男たちが顔を見合わせている。法衣の一団の中で、誰かが小さく息を呑んだ。

 碧は自分が変なことを言った自覚がなかった。パニックになっても事態は改善しない。厨房で油が跳ねたときも、注文が十件詰まったときも、やることは同じだ。何が起きているかを把握して、手をつける順番を決める。それだけだった。

 セルヴァンの口元が、ゆっくりと緩んだ。

「……なるほど。これは」

 老人は杖を持ち替え、今度は姿勢を正して碧を見た。

「よろしい。順に申し上げる」


 話は、思っていたより素朴だった。

 ここはアルカディオンという世界の、グランヴェル王国という国。神殿は王都の中心にあり、碧が立っているのは千年前から使われてきた召喚陣の上。

 世界には魔素と呼ばれる力が満ちていて、それが乱れると魔物が凶暴化する。ここ十数年、その乱れが加速している。北の山脈を越えた先には魔王領があり、その軍勢がいつ南下してもおかしくない。人の手ではもう抑えきれない。

 北の国境ではこの三年で四つの村が地図から消え、西の街道は日暮れ以降の通行が禁じられて久しい。王国騎士団は編成のたびに規模を膨らませているが、それは強くなっているのではなく、損耗した分を埋めているだけだとセルヴァンは言った。老人の口調には、自分たちの限界を数字として突きつけられ続けてきた者特有の疲労がにじんでいた。

 だから、儀式を行った。

 異なる世界から、女神の祝福を受け取れる器を招く。この地の理から外れた場所で育った魂だけが、女神の力をそのまま受け止められるのだという。神殿はそのために千年ぶんの祈りと記録を積み上げ、召喚陣の銀線を一本たりとも欠かさぬよう磨き続けてきた。

 つまり碧は、千年かけて用意された釣り針にかかった魚だった。

「勇者」


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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