第21話 南西の楔(前編)
少し話のストックがg減ってきたので1日1回のアップにさせてください。
明日からは朝の8時にアップ予定です。
魔王を部下にした碧が次に向かったのは、世界を縛る楔だった。
一本目を抜いた朝、碧は斧で手を切った。血は出たのに、痛みだけが来なかった。
二本目を抜いたあとは、恐怖が消えた。
誰も死なない。碧は負けない。それでも、碧の顔から何かが一つずつ減っていく。
失くした分は、わたくしが預かります。王女はそう言い、魔族の姫は、代わりに怒ると言った。
最強の料理人が、少しずつ人でなくなっていく二十話。
車は四台、一列になって荒れ地を走っていた。
碧の車の助手席には、エルフィリアが座っている。昨夜の取り決めで初日は女神ということになったのだが、その取り決めを誰がいつ決めたのかについて、碧は今朝も質問を受けなかった。
後部座席ではリュシェとミュウが地図を広げていた。
「この赤い印が、楔の位置でございますか。地図上で三箇所、印がございます」
「魔王殿が書いたものです」
リュシェが地図の一点を指した。
「旧レグナ盆地。五百年前は穀倉地帯の中心でございました。現在の人口はゼロと記録されております」
「何もない、とは」
「文字通りでございます。村が七つ、四百二十年前に全滅しております」
ミュウが窓の外を見た。
地平線まで、乾いた土が続いている。低木も生えていない。二日前に碧が土を作り直した範囲は、もう三十キロ後方だった。
「アオイ様。虫の音が、途中で切れています」
「三十キロ後ろから、聞こえません」
「はい」
「そこから先が、まだ死んでるんだな」
「はい。だから、あと何回やるんですか」
「やらなくて済むようにするために、楔を抜きに行ってる」
碧はハンドルに手を置いたまま答えた。
「楔を抜けば、地脈が戻る。地脈が戻れば、土は自分で治る。たぶん」
「たぶん」
「やったことがないので」
実際、確証は何もなかった。楔を抜けばどうなるかを知っている者は、この一行のどこにもいない。ヴァルガルドですら二万年かけて抜けなかったのだから、抜いたあとの記録が存在するはずもなかった。
後部座席で、二人が同時に黙った。
助手席のエルフィリアが、窓の外を見たまま小さく言った。
「わたしも、やったことがありません」
「女神様でもですか」
「千年、見ていただけです」
女神の横顔には、感情らしいものが出ていなかった。
碧はその横顔を三秒ほど見てから、前に視線を戻した。
助手席という位置は、こういうときに具合がいい。隣にいるのに正面から向き合わなくて済む。話しかけるのも、黙るのも、どちらも不自然にならない。
この人は時々、こういう顔をする。千年ぶんの無力さが、ふとした拍子に表に出てくる。
「じゃあ、今日が初めてですね」
碧は言った。
「二人とも初めてなので、失敗しても仕方ないです」
エルフィリアが、こちらを向いた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
旧レグナ盆地に着いたのは、正午前だった。
碧は車を止め、そして言葉を失った。
盆地ではなかった。穴だった。
直径にして二キロほど。深さは百メートルを超える。すり鉢状に落ち込んだ地形の底が、円形に平らになっていた。自然の地形ではありえない形だった。
「……これ、全部」
「陥没だ」
四台目から降りてきたヴァルガルドが、縁に立って言った。
「五百年前、ここは平らな穀倉地帯だった。ある日、地面が落ちた」
「一日で」
「一晩だ」
元魔王は、穴の底を指した。
「以来、毎年少しずつ広がっている。年に数メートルだが、五百年分だ」
碧は、縁から底を見下ろした。
底の中央に、何かが立っていた。
遠くて細部は見えない。ただ、黒い柱のようなものが、地面から垂直に突き出している。周囲には草の一本も生えていない。
「あれですね」
「あれだ」
「降ります」
碧が一歩踏み出すと、三方向から袖を掴まれた。
「お待ちください」
「アオイ様」
「アオイ」
リュシェとミュウとエルフィリアが、同時に掴んでいた。
碧は振り返り、それからため息をついた。
「一人で行きます。危ないので」
「危ないなら、なおのことです」
リュシェが言った。
「アオイ殿。あなたは半月前から一貫して、危ない場所へ一人で行かれます。わたくしはそれを半月見てまいりました」
碧は頷いた。
「そろそろ、一度くらいは連れていっていただきたい」
言い方は静かだったが、そこには半月ぶんの蓄積があった。この王女は宰相との対決でも奴隷市でも一歩も引かなかった人で、その人が置いていかれ続けることに耐えていたのだと、碧はいま気づいた。
碧は、返事に詰まった。
その横で、ミュウが耳を立てた。
「わたし、匂いでわかります。何かあれば、先に気づけます」
「わたしは、神です」
エルフィリアが最後に言った。
「あれは神を排除するために作られたものです。だからこそ、わたしが近くにいるほうが情報が取れます」
三人が、同時に碧を見た。
碧は少し考えて、それから降参した。
「……三人だけです。あとは上で待機」
背後で、ミリアが帳面を落とした音がした。
上に残ったのは七人だった。
ダインは最後まで食い下がったが、碧が「上から見ていてくれる人が要ります」と言ったところで引いた。ミリアは帳面を抱えたまま縁にへばりつき、そこから離れようとしない。ネフィリアは岩の上に腰を下ろし、ヴァルガルドは腕を組んで穴の底を睨んでいた。
底へ降りるのに、二十分かかった。
斜面はもろく、足をかけるたびに土が崩れる。碧が階段を作ろうとすると、エルフィリアに止められた。
「ここでは、なるべく力を使わないでください」
「なんでですか」
「あれが、反応します」
碧は黙って歩いた。
底に近づくにつれて、空気が変わった。
重い。魔素の濃度が上がっているのは肌でわかるが、それだけではなかった。音が吸われている。四人の足音が、鳴った端から消えていく。
ミュウが、途中で立ち止まった。
「アオイ様」
「どうした」
「匂いがしません」
「土の匂いか」
「違います。何の匂いも、しません」
少女の耳が、完全に伏せられていた。
「こんな場所、初めてです。匂いがない場所って、たぶんこの世にないはずなんです」
碧は自分の鼻では何も判別できなかった。ただ、この少女がここまで言うなら事実なのだろう。
匂いがないということは、そこで何も起きていないということだ。腐りもせず、育ちもせず、ただ止まっている。
碧は、そのまま底まで降りた。
そして、それを見上げた。
黒い柱だった。
高さは十メートルほど。地面から垂直に突き出していて、太さは大人が両腕で抱えられる程度。表面は完全に滑らかで、光をまったく反射しない。
碧は、それを見て最初に思ったことを口に出した。
「……釘ですね」
「釘」
「デカい釘です。頭が地面の上に出てて、残りが地中に刺さってる」
碧は柱の周囲を歩いた。
十歩で一周できる。その十歩のあいだ、足の裏から伝わってくる感触がずっと同じだった。地面のはずなのに、土を踏んでいる感じがしない。硬いものの上を歩いているのとも違う。踏んでいるという事実だけがあって、それ以外の情報が何も返ってこなかった。
地面との接合部に、隙間がない。溶接したようにも、生えているようにも見える。触れる前から、この物体がこの世界の素材でできていないことがわかった。
「エルフィリアさん」
「はい」
「これ、どれくらい刺さってますか」
女神は柱から五メートルの距離で足を止めていた。それ以上近づけないらしい。
「わかりません。ただ、わたしが見たときは」
彼女は言葉を選んだ。
「地脈の本流を貫いて、その下まで達していました」
「下」
「世界の底です」
碧は、柱に手を伸ばした。
止める声はなかった。三人とも、止めても無駄だと知っている。
触れた瞬間、耳鳴りがした。
音ではない。頭の中で、規則的な何かが鳴っている。時計の秒針に似ていた。等間隔で、正確で、感情がない。
そして、文字が見えた。
柱の表面に、それまでなかった文字列が浮かび上がっていた。言語理解の祝福が、それを勝手に翻訳する。
――観測点0-6。
――対象世界:第18期。
――安定度:基準値以下。継続監視中。
碧は、手を離した。
「アオイ?」
「……観測点、って書いてあります」
三人が、短く息を吸う音がした。
「六番目の観測点だそうです。この世界は第十八期で、安定度が基準値以下。継続監視中」
「監視」
リュシェの声が、掠れていた。
「誰がでございますか」
「書いてません」
碧は柱を見上げた。
「ただ、これは武器じゃないです。壊すために刺さってるんじゃない」
「では」
「測るために刺さってます」
言いながら、自分でも嫌な気分になっていた。壊しに来たのなら、まだ話が早い。壊す気すらない相手というのは、交渉の余地がないということだ。
「土が死んで、魔物が暴れて、人が減って。それは全部、副作用です。こいつはただ、この世界がどれくらい保つかを計ってるだけです」
盆地の底で、空気が動かなくなった。
やがて、エルフィリアが小さく言った。
「……温度計」
「え」
「鍋に温度計を差して、中身が煮えるのを見ているようなものです」
女神の声は、震えていた。
「鍋の中の人間が、どうなろうと」
碧は、柱に両手をかけた。
やることは決まっていた。ここへ来た目的はひとつしかない。
ただ、その前に一度だけ振り返った。三人が同じ距離に立ってこちらを見ている。エルフィリアが頷き、リュシェが頷き、ミュウが頷いた。順番も打ち合わせもない、ばらばらの頷き方だった。
それで充分だった。
抜く感触は、思っていたものと違った。
抵抗はあった。ただ、それは物理的な重さではない。引っ張ると、向こう側から同じ力で押し返してくる。生き物の反射に近かった。
碧は力を入れた。
最初は何も起きなかった。押しても引いても、この柱は地面と一体化しているようにしか感じられない。北の砦で二キロの城壁を建てたときより、はるかに手応えが重かった。
それでも碧は、力の入れ方を変えなかった。物を動かすのではなく、この柱と地面の関係をほどくつもりで手に力を込めた。
柱が、一センチ動いた。
その瞬間、頭の中の秒針が速くなった。
速くなっただけではない。音の質が変わった。それまで規則的に鳴っていたものが、明らかに何かを処理し始めている音になった。
――異常検知。
――観測点0-6に対する物理干渉。
――干渉源の特定を開始。
碧は、手を止めなかった。
二センチ。五センチ。十センチ。
地面が鳴り始めた。盆地全体が低く唸り、斜面のあちこちから土が崩れ落ちていく。崩れた土は底に届く前に細かい粒になって散った。
上で待機している面々が何か叫んでいる。口の形からすると、たぶん碧の名前だった。音はひとつも届かなかった。
――干渉源:未登録個体。
――権限照合……照合不能。
――警告。第18期における最大の逸脱値を観測。
碧の視界が、白くなった。
それでも手は離さなかった。
二十センチ。五十センチ。
そして、ある一点を越えた瞬間、抵抗が消えた。
抜けた。
長さ三十メートルを超える黒い柱が、地面から完全に抜け落ちて、盆地の底に横たわった。
その瞬間、地面が割れた。
五百年分、堰き止められていたものが、一斉に噴き出した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。
感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




