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第21話 南西の楔(後編)

魔王を部下にした碧が次に向かったのは、世界を縛る楔だった。

一本目を抜いた朝、碧は斧で手を切った。血は出たのに、痛みだけが来なかった。

二本目を抜いたあとは、恐怖が消えた。

誰も死なない。碧は負けない。それでも、碧の顔から何かが一つずつ減っていく。

失くした分は、わたくしが預かります。王女はそう言い、魔族の姫は、代わりに怒ると言った。

最強の料理人が、少しずつ人でなくなっていく二十話。


 最初に来たのは、水だった。

 柱の抜けた穴から、透明な水が吹き上がった。高さ五十メートル。盆地の底を叩き、四方へ広がっていく。

 次に来たのは、光だった。

 地面の割れ目から、淡い緑の光が筋になって走り出した。一本ではない。無数の筋が同時に走り、盆地の底に網の目のような模様を描いていく。

 それは地脈の流れだと、碧は理解した。五百年のあいだ堰き止められ、行き場を失って淀んでいた力が、本来の道筋を思い出して走り出している。

 光の筋は斜面を駆け上がり、縁を越えて、地平線の彼方へ向かって伸びていった。

 そして、碧の身体が、その通り道になった。

「アオイ!」

 エルフィリアの声が、遠かった。

 碧は膝をついていた。

 身体の中を、途方もない量の何かが通過していく。痛みはない。熱もない。ただ、自分の輪郭がどんどん曖昧になっていく感覚だけがあった。

 このまま溶ける。

 そう思ったとき、頬に手が触れた。

 冷たかった。

 顔を上げると、エルフィリアがすぐ目の前にいた。

 近づけないはずの距離に、彼女は踏み込んでいた。柱がなくなったからなのか、それともこの人が無理を通したのか、碧には判断がつかなかった。

 女神の手は、両方とも碧の頬に添えられていた。

「アオイ。聞こえますか」

「……はい」

「いま、あなたは地脈と繋がっています。このままでは、人の形を保てません」

「どうすれば」

「わたしの力を流します。神格で上書きします。そうすれば、繋がりが切れます」

「やってください」

「ただ」

 エルフィリアの頬が、赤くなった。

「触れているだけでは、足りません。もっと直接、渡す必要があります」

 碧が、その意味を考える前に。

 女神は、碧の顔を両手で挟んだ。

 そして、自分の額を碧の額に合わせた。


 額が触れた瞬間、碧の頭の中から言葉が全部消えた。

 冷たいと思ったのは最初の一瞬だけだった。すぐに、そこから何かが流れ込んできた。

 流れ込んできたものを、碧は言葉にできなかった。

 力だとは思わなかった。もっと別の何かだった。千年ぶんの孤独と、待ち続けた時間と、初めて誰かに触れたときの戸惑いが、全部いっぺんに押し寄せてきた。

 溶けかけていた輪郭が、内側から作り直されていく。

 輪郭だけではなかった。

 碧の中で、何かが一段階だけ上がった感覚があった。半月前に祝福を受けたときの、あの底のない器に何かが注がれていく感触。あれと同じものが、いま内側から起きている。

 碧の身体が、人の形を取り戻した。

 どれくらいのあいだそうしていたのかは、あとから思い出せなかった。

 エルフィリアの指は碧の頬を押さえたまま少しも動かず、その手の力だけが徐々に強くなっていった。治療という名目で始まったものが、途中から別のものに変わっていたのは、たぶん二人とも気づいていた。

 額が離れたのは、数秒後だった。

 エルフィリアは碧の顔を挟んだまま、至近距離で目を閉じていた。それからゆっくり目を開けて、自分が何をしたのかを理解した顔になった。

「……あ」

「あの」

「治療です」

 女神は、即座に言った。

「いまのは、治療です。緊急措置です」

「わかってます」

「わかっていません」

「わかってますって」

「顔が赤いです」

「そっちもですよ」

「神は赤くなりません」

「さっきから赤いです」

「これは地脈の光の反射です」

「無理がありますよ」

 エルフィリアは反論の材料を探して数秒沈黙し、それから碧の胸に額を押しつけて動かなくなった。

 碧はその頭に手を置くべきかどうか三秒迷い、結局置いた。女神の肩が小さく跳ねたが、離れようとはしなかった。

 二人が言い合っているあいだに、盆地の底では水が溜まり始めていた。

 少し離れた場所で、ミュウが両手で目元を覆っていた。指の隙間からしっかり見ていた。見てはいけないものを見てしまった子どもの顔で、耳まで伏せている。

 リュシェは背を向けて立っていた。背筋は完璧に伸びている。王女としての姿勢を崩さないというより、崩したら何かが決壊するので崩せないという立ち方だった。

 耳だけが、真っ赤だった。

 やがて王女は、誰にともなく低い声で言った。

「……治療ならば、仕方がございません」

「そうです。治療です」

 エルフィリアが碧の胸から顔を上げずに答えた。

「では、次に同じことが起きた場合も」

「わたしが行います」

「なぜでございますか」

「神格を持っているのがわたしだけだからです」

「……卑怯でございます」

「事実です」

 碧は、二人のあいだで黙っていることにした。

 この話に参加して得をする未来が、ひとつも見えなかった。


 水は結局、盆地の三分の一ほどまで溜まったところで止まった。

 五百年前まで穀倉地帯だった場所に、直径二キロの湖ができたことになる。あとで魔族がここを何と呼ぶことにするのか、碧には想像がつかなかった。

 盆地から上がったとき、景色が変わっていた。

 荒れ地に、緑が走っていた。

 地脈の光が通った道筋に沿って、草が芽吹いている。目で追えるほどの速度で、緑の線が地平線へ向かって伸びていた。

 上で待っていた面々が、誰も口をきけずにいた。

 ミリアは帳面を開いたまま、一文字も書かずに立ち尽くしている。ダインが剣の柄から手を離し、初めて武装を忘れた顔をしていた。カイとセンとトウジは、生えてきた草を三人並んでしゃがんで見ていた。

 ヴァルガルドだけが、地面に膝をついていた。

 二万年生きた男は、生えたばかりの草を指で触れ、それを確かめるように何度も撫でていた。

「……戻った」

 元魔王の声が、掠れていた。

「五百年だ。五百年、戻らなかった」

「あと五本です」

 碧は言った。

「この大陸に、あと五本あります」

 声に出してみると、その数字は思っていたより現実的に響いた。一本で五百年ぶんが戻るなら、五本で何が戻るのか。

 計算する気にはならなかった。まず一本ずつだ。

 ヴァルガルドが顔を上げた。

「勇者。ひとつ確認したい」

「はい」

「抜くとき、何か見なかったか」

 碧は、盆地の底に横たわる黒い柱を振り返った。

「観測点0-6って書いてありました」

 ヴァルガルドの顔から、表情が消えた。

「……ゼロの六」

「知ってるんですか」

「いや」

 元魔王は首を振った。

「だが、番号がついているということは」

 男は、空を見上げた。

「ゼロの一から、順番にあるということだ」

 碧も、空を見た。

 昼の空は、どこまでも青かった。楔の抜けた影響なのか、大気の濁りまで薄くなっている。五百年ぶりの青かもしれなかった。

 その青のどこかに、九本目が刺さっている。

「エルフィリアさん」

「……はい」

 女神は、まだ顔が赤かった。

「天の上の一本、番号はいくつだと思いますか」

 エルフィリアは、しばらく答えなかった。

 それから、碧の袖を掴んだ。

「……考えたくありません」

「俺もです」

 碧は、その手を握り返した。

 指先は冷たかった。神の体温がどういう仕組みになっているのかは知らないが、少なくともこの人の手は緊張すると冷える。それがわかった程度には、碧はこの人を知り始めていた。

 少し離れたところで、リュシェが咳払いをひとつして、ミリアが帳面に「本日、額一件」と書き込み、ネフィリアがそれを覗き込んで初めて声を出して笑った。


 異変に気づいたのは、その夜だった。

 野営の支度をしながら、碧は薪を割っていた。手元が狂って、斧の刃が左の手のひらをかすめた。

 血が出た。

 碧はそれを見て、しばらく動かなかった。

 傷は浅い。回復魔法を使うまでもない。問題はそこではなかった。

「アオイ様」

 ミュウが、薪の向こうから顔を上げた。

 少女の耳が、まっすぐ立っている。

「血の匂いがします」

「ああ、ちょっと切った」

「……いつですか」

「いま」

「痛くないんですか」

 碧は、その問いに答えられなかった。

 痛くなかった。切った感触はあった。刃が入ったという事実は、手の皮膚がちゃんと伝えてきた。だがその先がない。

 痛いという情報が、どこにも届いていない。

 碧は右手で左の手のひらを押してみた。傷口が開く。血が増える。

 何もなかった。

「アオイ様」

 ミュウの声が、震えていた。

「やめてください」

 碧は手を止めた。

 少女は薪を放り出して駆け寄り、碧の左手を両手で掴んだ。獣人の体温が、傷の周りに伝わってくる。温度はわかった。触られているのもわかった。

 痛みだけが、なかった。

「……いつからですか」

「わからない」

 碧は、正直に答えた。

「今日の昼、楔を抜くまでは、たぶんあった」

 背後で、誰かが立ち上がる音がした。

 エルフィリアだった。

 女神の顔から、血の気が引いていた。碧はこの世界に来てから、この人がここまで青くなるのを一度も見ていない。

「アオイ」

 碧は短く頷いた。

「いま、なんと言いましたか」

「痛みが、ないです」

 エルフィリアは碧の手を取り、傷を見た。それから顔を上げ、何か言おうとして、口を閉じた。

「知ってますか」

「……いいえ」

「嘘が下手ですね」

「下手です」

 女神は碧の手を握ったまま、俯いた。

「わたしにも、わかりません。ただ」

「ただ」

「たぶん、これで終わりではありません」

 焚き火が、静かに爆ぜた。

 碧は自分の左手を見下ろした。血は止まりかけている。治すのは簡単だ。三秒もかからない。

 ただ、治す前に確かめておきたいことがあった。

 碧は傷口をもう一度押した。何も起きなかった。

「アオイ様」

 ミュウが、その手を押さえた。

「わたしが、代わりに痛がります」

「え」

「アオイ様が痛くないなら、わたしが痛いと言います。だから、確かめるのはやめてください」

 碧は少女の顔を見た。

 金色の目が、泣きそうになっていた。

 それを見て初めて、碧は自分が何かを失ったのだという実感を持った。


――記録係ミリアの業務記録 十六日目

 楔:〇の六(旧レグナ盆地)抜去。残り八本。

 アオイ様:左手に切り傷一。痛みの報せ、なし。預かり手、ミュウさん(匂い)。

 額、一件(治療)。

 女神様の立てられた指:通算二本。意味は不明。

 以上でございます。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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