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第20話 旅立ちと、はじめての夜(後編)

召喚された高校生・天野碧が女神から授かった祝福は、八つ。過去最大の記録だった。


だが碧が最初にしたのは、飢えた四千人に鍋を出すことだった。

水を通し、土を戻し、魔王すら部下にして、碧は世界を縛る楔を一本ずつ抜いていく。

抜くたびに、碧は何かを失う。痛みを、恐怖を、味を、眠りを、怒りを。


失った分を預かると言ったのは、そばにいることを選んだ者たちだった。

最強の料理人と、彼を欠けさせない少女たちの物語。


 宴が終わったあと、碧は城の最上部へ登った。

 魔王城の尖塔の上は、風が強かった。

 眼下に城下町の明かりが散っている。二日前より、確実に数が増えていた。水が通り、土が戻り、人が動き始めている。

 背後で、衣擦れの音がした。

「アオイ」

 エルフィリアだった。

 女神は碧の隣に立ち、同じように街を見下ろした。

「増えましたね」

「増えました」

「二日で、四十万人が食べられるようになりました」

「まだです。あと一年くらいかかります」

「一年でできるなら、充分です」

 エルフィリアは、そう言って笑った。

 それから、少しだけ黙った。

「アオイ。ひとつ、白状することがあります」

 碧は小さく頷いた。

「わたしは、あなたを帰す方法を知っています」

 碧は、女神のほうを向いた。

 半月近く前、神殿の柱廊で同じ話をした。力が足りないから今はできないと、この人は言った。

「力が足りない、という話は本当です」

 エルフィリアは、街を見たまま続けた。

「でも、もうひとつ理由があります」

「聞きます」

「わたしが、帰したくないからです」

 風が吹いた。

 銀の髪が流れて、碧の腕に触れた。

「半月前、あなたに祝福を渡したとき、わたしは八つ数えました」

 女神は、そう言った。

「本当は、九つ目がありました」

 碧は、顔を上げた。

 あの日、祭壇でセルヴァンが指を折り終えたあと、この人が誰にともなく漏らした一言があった。渡せなかったものがある、と。あれから半月、碧はそれを一度も訊いていない。

「渡せなかったのは、何ですか」

「あなたを、帰す力です」

 エルフィリアは、街を見たまま答えた。

「九つ目として用意してありました。渡すつもりでした。渡せば、あなたはいつでも元の世界へ戻れました」

「渡さなかったんですね」

「渡しませんでした。そして、渡すはずだった分を、自分の中で潰しました」

 女神の声は、震えていなかった。

「潰したぶん、わたし自身も道をつけられなくなりました」

「あれは、事故ではありません」

「……わざと、ですか」

「わざとです」

 エルフィリアは、碧のほうを向いた。

 青い目が、まっすぐにこちらを見ていた。

「千年待ちました。やっと会えた人を、九日で帰したくありませんでした。だから、帰せない状態にしました」

 碧は、何も言わなかった。

 言うべき言葉が、いくつも浮かんで、そのどれも違う気がした。

「怒ってくれて構いません」

 女神は、そう言った。

「神が人間にやっていいことではありません。わたしは掟を破りました。あなたの人生を、勝手に決めました」

「エルフィリアさん」

「はい」

「俺、怒ってないです」

 碧は、そう答えた。

 自分でも意外なほど、するりと言葉が出た。

「……なぜですか」

「たぶん、俺も帰らないからです」

 碧は、街の明かりを見下ろした。

「この半月で、四千人を治して、三万を止めて、四十万人の土を作り直しました。で、まだ足りてません。全然足りてない」

「アオイ」

「帰ったら、たぶん毎日それを考えます。あのとき帰らなければって」

 実家の厨房に立って、玉ねぎを刻みながら考えるのだろう。

 ここで刻んでいる自分が、向こうの世界では何人を救えたのかを。それは父の包丁の音より大きく、毎日聞こえ続けるはずだった。

 北の砦の谷のことも、たぶん考える。あの一秒で確かめなかったものが、谷の足跡の中に混ざっていたのかどうか。子どもの靴が片方、土に埋まっていた。答えの出ない数を、碧はまだ一つ持っている。

 碧は、女神のほうを向いた。

「だから、帰りません。あなたのせいじゃないです」

 エルフィリアの目に、光るものが溜まった。

 それが落ちる前に、彼女は碧の胸に額を預けた。

 碧は、少しだけ迷ってから、その背中に手を回した。

 女神の身体は、驚くほど軽かった。重さがないわけではない。ただ、千年ぶんの何かがそこに詰まっているにしては、あまりに小さかった。

「アオイ」

「はい」

「今夜、一緒にいてもいいですか」

 碧の動きが、止まった。

「……えっと」

「寝るだけです」

 エルフィリアが、顔を上げた。耳まで赤かった。

「わたし、眠ったことがありません」

「ないんですか」

「神は眠りません。必要がないので」

 女神は、碧の胸から少しだけ身体を離した。

「でも、食べることも必要ありませんでした。あなたに食べさせてもらって、初めて味を知りました」

 彼女は、碧の袖を掴んだ。

「眠るのが、どんなものか知りたいんです。一人で試すのは、たぶん無理です」

 碧は、しばらく考えた。

 それから、頷いた。

「わかりました。じゃあ、毛布を作ります」

「……それだけですか」

「あとは、枕も要りますね」

「アオイ」

「なんですか」

「あなたは、時々ものすごく鈍いです」


 その夜、魔王城の一室で。

 碧は寝台の端に座り、エルフィリアはその隣で、毛布にくるまって横になっていた。

 最初の三十分、女神は目を開けたままだった。

「眠れません」

「目を閉じてください」

「閉じています」

「じゃあ、何も考えないでください」

「無理です」

「なんでですか」

「隣に、あなたがいるので」

 碧は、天井を見上げた。

 どうしたものかと三十秒ほど考えた。理屈で眠らせる方法を持っていない以上、やれることは限られている。

 結局、碧が子どもの頃に母が歌っていた歌を、小さく口ずさむことになった。歌詞はうろ覚えだったので、半分は作った。

 三曲目の途中で、隣の呼吸が変わった。

 碧は、口を閉じた。

 千年生きてきた創世の女神が、初めて眠っていた。

 碧が毛布を直そうとしたとき、彼女の手がわずかに動いた。

 眠ったまま、指を二本立てている。

 何を数えているのかは、碧にはわからなかった。

 寝息は、ひどく静かだった。

 碧はその寝顔をしばらく見ていた。

 起きているときの、赤くなったり言い訳をしたりするこの人しか知らなかった。眠っている顔は、ただの少女だった。千年も二万年も、その顔のどこにも書かれていない。

 碧は毛布を肩まで引き上げてやった。

 窓の外では、魔王領の空に、久しぶりに星が見えていた。


 翌朝、魔王城の門前に十一人が並んだ。

 車は四台に増えていた。

 見送りに出たのは、城下の住人ほぼ全員だった。十二万人が沿道を埋め、誰も声を上げずに立っている。魔王領では、それが最大の敬意の示し方らしい。

「行き先は決まっているのか」

 ヴァルガルドが訊いた。従者の装いをした元魔王は、腰に剣を一本だけ下げている。

「まず、南西の楔を抜きます」

 碧が答えた。

 位置はヴァルガルドが把握している。距離にして三百キロ。車なら半日もかからない。

「そのあとは」

「決めてません」

「決めんのか」

「はい」

 碧は車に乗り込み、それから振り返った。

 助手席にエルフィリア。後部座席にリュシェとミュウ。二台目にミリアとダインとネフィリア。三台目にカイとセンとトウジ。四台目にヴァルガルドが一人で乗り、その狭さに文句を言っていた。

「半月前、俺は教室にいました」

 碧は言った。

「明日どこにいるかなんて、たぶん誰も決められません。だから決めません」

 エルフィリアが、隣で笑った。

「ただ、腹が減った人がいたら、そこに行きます」

 碧は、車を出した。

 沿道の十二万人は最後まで声を出さなかった。

 ただ全員が、頭を下げた。

 魔王領の荒れ地に、四台の車が走り出す。

 三十分ほど走ったところで、碧は車を路肩に停めた。

 後続の三台も止まる。ヴァルガルドが窓から顔を出し、何事かと訊いた。

「昼です」

 碧はそう答えた。

 何も片付いていなかった。楔は九本とも刺さったままで、灰区から連れ出された子どもたちも見つかっておらず、天の上の一本が何なのかも誰も知らない。

 それでも、生えたばかりの麦畑の横で、十一人が座って飯を食った。

 碧が作ったのは、昨日の残りの煮込みと、その場で焼いたパンだけだった。

 煮込みは一晩置いたぶん、昨日より旨くなっている。冷めるときに味が中へ入るからだ。温め直すと、肉の脂が表面に浮いて金色の輪をいくつも作った。

 パンは炉を出して、その場で焼いた。生地を落とすと、じゅ、と音がして端から膨らんでいく。焼けてくると、あの匂いが立ち上る。小麦が焼ける匂いには、人の警戒心を解く成分が入っているのだろうと碧は本気で思っている。

 割ると湯気が出た。中がまだ湿っている。そこへ熱い煮込みを浸すと、色が染みていくのが見えた。

 皿は膝の上。椅子はない。風が麦を鳴らす音が、ずっと続いていた。

 ヴァルガルドは、最初どこに座ればいいのかわからずに立っていた。

「陛下。座ればよいのでは」

「外で食うのは、二万年ぶりだ」

「二万年」

「玉座で食う習慣がついた。それ以外の食い方を忘れた」

 元魔王は草の上に腰を下ろし、膝の上の皿を長いこと眺めていた。

 それから、風の匂いを嗅ぐような仕草をした。屋外で食事をすると、料理の匂いに風の匂いが混ざる。玉座の間ではありえないことだった。

 最初の一口を入れたあと、この男は空を見上げた。

 ミリアが帳面を出そうとしたので、ネフィリアが取り上げた。

「返してください」

「食え。冷める」

「わたしの仕事でございます」

「今日は休みだ」

「誰が決めたのですか」

「私が決めた」

 闇将は帳面を懐に押し込み、そのまま自分の皿に戻った。取り上げる側だった魔族が、いまは取り上げられた側の抗議を受けている。

 リュシェは靴を脱いで、素足を草に下ろしていた。王女がそんなことをするのを、碧は初めて見た。

 ミュウは麦の穂を一本折って、それを鼻に近づけていた。

「アオイ様」

「どうした」

「匂いが、します」

「そうか」

「ここ、たぶん、すごくいい場所です」

 エルフィリアは、碧の隣で黙って食べていた。

 三杯目だった。

 ダインが剣を脇に置き、カイとセンとトウジが交代でパンを焼き、その火の番をトウジが引き受けていた。少年は火を見るのが好きらしい。

 誰も、楔の話をしなかった。

 一時間ほど、そうしていた。

 やがて碧が立ち上がると、全員が自然に片付けを始めた。皿を集め、火を落とし、車に戻る。誰も号令をかけなかった。

「勇者」

 ヴァルガルドが、車に乗る前に言った。

「なんですか」

「いまのは、何だ」

「昼飯です」

「そうではない。いまの一時間は、何だ」

 碧は少し考えた。

「旅です」

「旅」

「そう呼ぶんだと思います。こういうのを」

 元魔王はしばらく黙り、それから短く笑った。

 車が走り出す。

 その後ろを、生えたばかりの麦の穂が、風に揺れて見送っていた。


(第1シーズン 完)


今回でseason1を無事終えることができました。

明日からはseason2。

新たな展開をお楽しみになってください。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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