第20話 旅立ちと、はじめての夜(前編)
召喚された高校生・天野碧が女神から授かった祝福は、八つ。過去最大の記録だった。
だが碧が最初にしたのは、飢えた四千人に鍋を出すことだった。
水を通し、土を戻し、魔王すら部下にして、碧は世界を縛る楔を一本ずつ抜いていく。
抜くたびに、碧は何かを失う。痛みを、恐怖を、味を、眠りを、怒りを。
失った分を預かると言ったのは、そばにいることを選んだ者たちだった。
最強の料理人と、彼を欠けさせない少女たちの物語。
魔王領での最初の二日間を、碧はほとんど地面に触れて過ごした。
水を通すだけでは足りなかった。この土地は、土そのものが魔素に焼かれて死んでいる。上から水を流しても、植物は根を張った瞬間に枯れる。
だから、作り直すことにした。
城下から始めて、一日目に東の三十キロ四方と、西へ五十キロ。二日目の朝から南の旧穀倉地帯まで。碧は地面に手を当てては歩き、歩いては手を当てた。
やり方は、灰区の下水と同じだった。まず汚れているものを分離する。次に、必要なものを足す。最後に、そこへ水を通す。
違うのは規模と、そして分離するものの種類だけだった。汚水なら濾せばいい。魔素は濾せない。碧は土の粒子ひとつひとつから魔素を剥がし、それを地下深くへ押し込んでいった。
押し込んだ先で魔素がどうなるのかは、正直なところわからなかった。ヴァルガルドに訊くと、しばらく考えてから「それは楔を抜くまでの応急処置だ」と言われた。そのとおりだと碧も思った。
二日目の昼前、南の荒れ地で最初の芽が出た。
碧が播いた麦の種が、半日で膝の高さまで伸びた。
それを見た魔族の農夫が、畑の真ん中で崩れるように座り込んだ。六十を過ぎた男だった。彼は土を両手で掬い、それを顔に近づけた。肩が震え始めた。
「……匂いが、する」
男はそう言った。
「五十年ぶりだ。土の匂いがする」
碧の隣で、ミュウが耳を伏せていた。
少女は何も言わなかった。ただ、しゃがんで土を一握り取り、それを鼻に近づけて、長いこと嗅いでいた。
その日の昼過ぎ、王都から使者が来た。
三人組で、全員が馬を潰す勢いで走ってきたらしい。魔王城の門をくぐった時点で、二人が馬から落ちた。
使者たちは広間に通されてから、まず魔王の姿を見て硬直した。それから四天王が揃っているのを見て、もう一度硬直した。
碧が水を出してやると、三人はそれを一気に飲み干し、ようやく口をきけるようになった。
持ってきたのは、三通の書状だった。
一通は碧宛て。もう一通は、リュシエンヌ宛てだった。
碧は自分の分を先に開いた。国王の直筆だった。
――魔王領の件、逐一報告を受けている。余は驚いておらぬ。すでに驚く容量を使い果たした。
碧は思わず笑った。
――貴殿の帰還を求める声が城内に多い。余はこれを退けた。理由は、貴殿が帰る場所は余の城ではないと考えるからである。
最後に、こう書かれていた。
――冠は、まだ返さんでよい。
碧は書状をたたみ、懐にしまった。
三通目は、神殿からだった。
差出人はセルヴァン。中身は短い。
――預言の原文について、他の写しを探しております。現時点で三箇所に同種の記述を確認。いずれも十七という数のみ一致し、内容が異なります。
――うち一箇所には、こうございました。「災いは、滅びを乞う」
碧は、その一行をしばらく見ていた。
滅びを乞う災い。言葉として噛み合っていない。災いというのは、滅ぼす側につける名前のはずだった。
碧は書状をたたみ、懐の木片と一緒にしまった。
もう一通のほうは、読み終わるまでに時間がかかった。
リュシェは書状を持ったまま、広間の窓際に立っていた。背筋はいつも通り伸びている。ただ、紙を持つ指が白くなっていた。
「リュシェ様」
「……召還状でございます」
王女は、こちらを見ずに言った。
「宰相府が解体されました。父上は新体制を組むにあたり、わたくしに内政の全権を委ねるおつもりです」
「すごい話ですね」
「すごい話です」
リュシェは、書状を折りたたんだ。
「四年前、わたくしが書いた三枚は、机の上で止まりました。いま、その三枚が国の形を変えております。次は、わたくし自身が動かす番だと父上は仰せです」
碧は、何も言わなかった。
言うべきことが、思いつかなかったからだ。
引き留める資格はない。かといって、行けと言うのも違う。この半月でこの人がどれだけのものを動かしたかを、碧はいちばん近くで見ていた。
この人は、たぶん自分より遥かに大きなものを背負える。そして、その仕事はこの国にしかない。
「……アオイ殿」
碧は短く頷いた。
「わたくしは、断ります」
碧は、顔を上げた。
「え」
「断ると申し上げました」
リュシェは、ようやくこちらを向いた。
その顔は、いつもの王女のものではなかった。もっと必死で、もっと若い顔だった。
「理由を三つ用意しました。お聞きになりますか」
「聞きます」
「一つ目。この半月で、わたくしはこの大陸の仕組みが根本から変わるのを見ました。水も、法も、魔族との関係も。それを王都の机の上から眺めるのは、もう耐えられません」
「二つ目は」
「楔でございます」
王女は、北の空を指した。
「九本あるのでしょう。それは一国の内政の話ではございません。国を整えても、世界が終われば全部消えます。わたくしは、消えないほうの仕事がしたい」
碧は頷いた。ここまでは、筋が通っている。
「三つ目は」
リュシェが、そこで初めて言葉を詰まらせた。
「……三つ目は、ございません」
「三つ用意したって言いましたよね」
「用意しました。ですが、口に出せるものではございませんでした」
その言い方は、隠すつもりのない隠し方だった。リュシェは言わないと決めた代わりに、言わないということを碧に伝えている。
王女は顔を赤くして、そっぽを向いた。
「以上でございます。わたくしは同行いたします。文句がおありですか」
「ないです」
「……即答ですか」
「はい。リュシェ様がいないと、たぶん俺は三日で誰かに騙されます」
リュシェは、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「その認識だけは、正しゅうございます」
その日の夕方、魔王城の広間で会議が開かれた。
議題はひとつだ。これからどうするか。
集まったのは十四人だった。碧、エルフィリア、リュシェ、ミュウ、ミリア、ダイン、カイ、セン、トウジ。そして魔王ヴァルガルドと四天王四名。
人間と魔族が同じ卓を囲んで軍議をしている。この光景自体が千年ぶりなのだと、ミリアが小声で解説していた。
「まず確認します」
碧が言った。
「楔は九本。大陸に六本、海の向こうに二本、天の上に一本。この認識で合ってますか」
「合っている」
ヴァルガルドが答えた。
「うち二本は、この魔王領の地下にある。位置は把握している」
「抜けますか」
「私には抜けん。二万年試した」
魔王は首を振った。
「神の力でも抜けん。女神が言った通りだ」
「じゃあ、俺がやります」
碧は、あっさりと言った。
広間の空気が、わずかに動いた。
「即答だな」
「たぶん抜けると思うので」
「根拠は」
「北の砦で、一本見ました」
碧は指を組んだ。
「あのとき、抜こうと思えば抜けた気がしました。やらなかったのは、抜いたあとに何が起きるかわからなかったからです」
ヴァルガルドが、目を細めた。
「……なるほど。それが正しい」
「正しいですか」
「一本抜けば、地脈の流れが変わる。周囲の魔素が動く。その先に何が起きるかは、抜いてみなければわからん」
魔王は、地図を広げた。
「だからこそ、順番がある。まず一本目を抜き、その影響を観測する。次の一本はそれから決める」
「じゃあ、一本目はここですね」
碧は、魔王領の地下を指した。
「いちばん被害が出てる場所です。ここが治れば、四十万人が食えるようになる」
ヴァルガルドは、地図を見下ろしたまま動かなかった。
やがて、低い声で言った。
「勇者。ひとつ頼みがある」
「はい」
「私を、連れていってくれ」
広間から、声がひとつも上がらなかった。
ガルムが、真っ先に立ち上がった。
「陛下! それは」
「ガルム。私はこの国の王を二万年やってきた」
魔王は、振り返りもせずに言った。
「そして、二万年何も変えられなかった。二日だ。この男は二日で、私が二万年できなかったことをやった」
「ですが」
「だから、従者になる」
ヴァルガルドは立ち上がった。
二万年生きた王が、広間の中央で、碧に向かって頭を下げた。
「王位は退く。この国は四天王に任せる。私は、この男が世界をどう終わらせるのかを、間近で見届けたい」
沈黙が落ちた。
最初に動いたのは、氷将フリジアだった。
「……陛下。国政は、わたしが」
「フリジア」
「ガルムは戦しかできない。バルドは飽きっぽい。ネフィリアは人を信じない」
氷将は淡々と言った。
「残るのは、わたしだけです」
「おい」
ガルムが抗議した。バルドが笑った。ネフィリアは何も言わなかった。
「では、ネフィリアはどうする」
ヴァルガルドが、闇将を見た。
「私が抜けるなら、お前も国に残るべきだ」
「断る」
ネフィリアは、間を取らなかった。
「私はこの男を監視すると宣言した。撤回する理由がない」
「理由はあるだろう。国がある」
「国はフリジアがやる」
闇将は壁から身を起こした。
「分類が終わっていない」
「分類」
「この男が何なのか、まだ結論が出ていない」
ネフィリアは碧を一瞥し、それから目を逸らした。
「出るまでは、側にいる」
その言い方を、碧は素直に受け取った。
だが、広間の別の場所では、三人ほどが別の受け取り方をしていた。
エルフィリアの周囲で、空気が少し冷えた。窓際に霜が降り、それを見た氷将フリジアが自分の仕業かどうか確認する仕草をした。
リュシェは無表情のまま、卓の下で指を組み直した。ミュウの耳が伏せられ、ミリアが猛烈な速度で何かを書き始める。
当のネフィリアは、その全部を視界に入れたうえで、あくびを一つした。
出発は翌朝と決まった。
その夜、魔王城の広間で宴が開かれた。
碧は今回、鍋の前に立たなかった。ヴァルガルドが「客人に三度も作らせるわけにはいかん」と言って、城の厨房を総動員したからだ。
出てきたのは、魔族の伝統料理だった。
香辛料の効いた煮込み。発酵させた根菜。血晶果という赤い果実を漬け込んだ酒。碧が二日かけて再生させた土で採れた、最初の野菜も並んだ。
「うまいです」
碧がそう言うと、厨房長らしき魔族が壁際で泣き崩れた。
広間は、騒がしかった。
人間と魔族が混ざって座っている。ダインが雷将バルドと杯を重ね、三十年前の戦の話を始めていた。カイとセンとトウジは炎将ガルムに絡まれ、無理やり酒を飲まされている。ミリアは氷将フリジアを相手に、魔王領の統計について猛烈な勢いで質問していた。
碧は、その光景を端のほうから眺めていた。
半月前、この国は敵だった。正確には、碧が敵だと教えられた国だった。いまその国の広間で、王国の騎士と魔王軍の将軍が肩を組んで昔の戦の話をしている。
何が正しかったのか、碧にはまだ整理がついていない。ただ、この光景が間違っているとは思えなかった。
「アオイ様」
ミュウが、隣に座った。
皿を両手で持っている。この半月で、少女は椅子に座れるようになっていた。
「どうした」
「明日から、旅ですね」
「そうだな」
「……わたし、行き場がないので付いていくのではありません」
ミュウは、皿を見下ろしたまま言った。
「アオイ様といたいから、付いていきます」
碧は、しばらく返事ができなかった。
この少女が自分の意思で何かを選んだのは、たぶんこれが初めてだった。首輪を外したときも、椅子に座ったときも、誰かに促されてのことだった。
半月前、この少女は「仕事がないと置いてもらえません」と言った。その言葉が、半月でここまで変わった。
「そうか」
「はい」
「じゃあ、明日から荷台のいちばん風の通る場所は、ミュウの席だ。リュシェ様にそう言っとく」
ミュウの耳が、勢いよく立った。
「……いいんですか」
「窓の外の匂い、ずっと嗅いでただろ」
ミュウは皿を持ったまま動かなくなった。
それから小さく頷いた。尻尾は正直に揺れていた。
「知ってたんですか」
「中庭で、荷台がいいって言ってたからな」
少女は耳を伏せて、皿で顔を隠した。
宴の灯りの外で、女神がひとり、碧が席を立つのを待っていた。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




