↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/42

第19話 魔王ヴァルガルド(後編)

召喚された高校生・天野碧が女神から授かった祝福は、八つ。過去最大の記録だった。


だが碧が最初にしたのは、飢えた四千人に鍋を出すことだった。

水を通し、土を戻し、魔王すら部下にして、碧は世界を縛る楔を一本ずつ抜いていく。

抜くたびに、碧は何かを失う。痛みを、恐怖を、味を、眠りを、怒りを。


失った分を預かると言ったのは、そばにいることを選んだ者たちだった。

最強の料理人と、彼を欠けさせない少女たちの物語。


 聞きながら、この十二日間のことを思い出していた。水を通し、病を治し、砦を守り、奴隷を買い、それでもまだ何も終わっていない。

 たしかに、際限はなかった。

 灰区の四千人を治した夜、碧は満足していた。だが次の日には奴隷市があった。その次には魔王領がある。終わりがないという感覚を、碧はもう知り始めている。

 この男の言っていることは、脅しではなく予報だった。

「……それで、俺に何を期待してるんですか」

「期待はしていない」

 ヴァルガルドは、あっさり言った。

「ただ、貴殿は十七人とは違う」

「どこがですか」

「王都の話は聞いている」

 魔王は、わずかに首を傾けた。

「貴殿は、四千人を治したあと、飯を作ったそうだな」

「作りました」

「なぜだ」

「腹が減ってたので」

 実際、それ以外の理由はなかった。

 治した四千人が空腹だったから作った。それだけの話で、そこに思想も計算もない。

「そうだ」

 ヴァルガルドが、笑った。

 低く、短く、しかし確かに笑った。

「十七人は誰も、飯を作らなかった」

 魔王の声には、責める響きがなかった。

「彼らは剣を鍛え、魔法を磨き、軍を編成した。全員が正しい。世界を救うにはそれが要る」

 ヴァルガルドは首を振った。

「だが誰も、救ったあとのことを考えなかった。救われた者がその日の夜に何を食うかを、誰も考えなかった」


 魔王は、片膝をついた。

 千二百年の王が、黒い石の床に膝を落とした。広間の隅で、誰かが口を半分開けたまま止まった。

「勇者アオイ。私の首を差し出す」

「いりません」

「では、私の国を差し出す」

「それもいりません」

 碧は、しゃがんだ。

 魔王と目線の高さを合わせる。膝をつかせた相手と同じ高さまで下りてくる人間を、この男はおそらく二万年見ていない。

「ヴァルガルドさん。俺、たぶん十八人目です」

「そうだ」

「十八人目が何をすればいいのか、俺にはまだわかりません」

 碧は、正直に言った。

「でも、あなたのこの国、土が死んでます。子どもが痩せてます。それは、俺が直せます」

 魔王が、顔を上げた。

「だから、順番でいきましょう」

 碧は、手を差し出した。

「世界を終わらせる話は、あとにします。先に、飯を食えるようにしましょう」

 ヴァルガルドは、その手を見た。

 長いこと、見ていた。

 やがて、二万年生きた男の肩が、わずかに震え始めた。

「……二万年だ」

 声が、掠れていた。

「二万年で、そんなことを言った者は初めてだ」

 魔王は、碧の手を取った。

 その手は大きく、乾いていて、そして冷たかった。

 広間の隅で、誰かが声を殺した。魔族の官吏だった。それが伝染して、しばらくのあいだ広間のあちこちから嗚咽が聞こえた。

 四天王は誰も泣いていなかった。ガルムが天井を見上げ、フリジアが目を閉じ、バルドが自分の指先で小さな火花を散らしていた。

 ネフィリアだけが、碧をまっすぐ見ていた。


 その夜、魔王城の広間で、碧は鍋を並べた。

 十二万人分は無理だった。正確には作れるが、配る手が足りない。

 だからまず、城の中にいる者から始めた。明日からは城下に出ると碧が言うと、魔王はそれを止めなかった。官吏の一人が予算の話をしかけて、四天王のフリジアに黙らされた。

「ビーフシチューを作ります」

 碧は広間の中央でそう言った。

 ここで作る理由があった。厨房でやれば匂いが石の壁に吸われる。広間は天井が高く、風の通り道がある。匂いは上へ昇って、それから城じゅうへ降りていく。

 この城の人間に、まず匂いを嗅がせたかった。

 使用人、官吏、兵。四天王。そして魔王本人。

 食材は、王都から積んできたものと、碧が創造したものを混ぜた。作り方は、王都で四千人に出したのと同じだった。

 肉を厚く切って、焼く。鍋の底で脂が跳ねる音が、黒い石の広間によく響いた。焦げた脂の匂いが、天井へ昇っていく。

 玉ねぎを炒める段になると、広間の入口に人が集まり始めた。魔族の官吏たちだった。誰も入ってこない。ただ、扉のところで立っている。

 三十分後、玉ねぎが飴色に変わった。

 甘い匂いが広間を満たしたとき、扉の前の人数は倍になっていた。

 酒を注ぐ。音と湯気が同時に来る。ルウを溶くと、木べらの跡が一瞬だけ残って、それから閉じた。

 あとは、待つ時間だった。

「アオイ様。配膳の順番はいかがなさいますか」

 ミリアが帳面を構えた。

 碧は、少し考えた。

 それから、最初の一杯をよそって、エルフィリアに差し出した。

「約束したので」

 女神が、目を丸くした。

 広間の空気が、微妙に動いた。リュシェが視線を逸らし、ミリアが猛烈な速度で何かを書き始める。

 だが、そこで終わらせるつもりもなかった。

 碧は続けて、二杯目と三杯目と四杯目を同時によそった。

「リュシェ様、ミュウ、ミリア」

 三人が、同時に顔を上げた。

「三人とも、同じタイミングで渡します。順番つけると揉めるので」

 三つの椀を同時に差し出す。差し出された側は三人とも、一瞬どう受け取ればいいのか迷った顔をした。

「……アオイ殿」

「はい」

「それはそれで、ずるいのではございませんか」

 リュシェが、椀を受け取りながら言った。

「ずるいですか」

「ずるいです。ですが」

 王女は椀を両手で持ち、そこから立つ湯気を見下ろした。

「……美味しいので、今日は許します」

 ミュウの尻尾が、また勝手に揺れていた。

 ミリアは椀を置いて、まず記録を取ろうとして、ネフィリアに帳面を取り上げられた。

「食え。冷める」

「返してください」

「食ってから書け。その順番なら許す」

 闇将は帳面を懐にしまい、自分の椀を受け取った。

 そして、一口飲んだところで動きを止めた。

 闇将はしばらく椀を見下ろしていた。それから二口目を飲み、三口目を飲み、そこで匙を置いた。

 しばらくして、彼女は小さく呟いた。

「……分類が、また一つ増えた」

 広間の隅で、魔王ヴァルガルドが椀を抱えていた。

 二万年生きた男は、湯気の向こうで何度も瞬きをしていた。

 飲もうとして、止まる。匙を口元まで運んで、そこで手が動かなくなる。また下ろす。もう一度上げる。それを三度繰り返してから、ようやく匙を口に入れた。

 一口目は、ほとんど汁だけだった。

 ヴァルガルドは口の中のものを、長い時間かけて飲み込んだ。喉が動くまでに数秒かかった。それから椀を膝に置き、両手で縁を握ったまま、しばらく床の一点を見ていた。

 二口目で、肉を口へ入れた。

 噛んだ瞬間、二万年生きた男の肩が一度だけ落ちた。力が抜けたのだ。碧は厨房でその落ち方を何度も見ている。緊張していた客が、最初の一口で警戒を解くときの落ち方だった。

 そこから先も、魔王は匙を使い続けた。

 速くならなかった。作法も崩れなかった。二万年ぶんの身体に染みついた食べ方は、一皿の煮込みで揺らぐようなものではない。一口ごとに椀を膝へ戻し、背筋を伸ばしたまま、王として食べ続けた。

 崩れたのは、別の一点だった。

 椀が空になっても、ヴァルガルドはそれを膝から下ろさなかった。

 両手で縁を握ったまま、空の椀を持っている。おかわりを頼むでもなく、返すでもなく、ただ持っている。そのまま、たっぷり一分が過ぎた。

 碧は気づかないふりをして、次の鍋をかき混ぜた。

 そのうち広間のあちこちで話し声が起き始めた。官吏が四天王に話しかけ、ダインがバルドと並んで座り、カイたちが配膳を手伝っている。人間と魔族が同じ床に座って同じ鍋のものを食っていた。

 ミリアが帳面を取り返して、その光景を書き留め始めた。今度は誰も止めなかった。

 碧は鍋の向こうから、それを眺めていた。

 隣にエルフィリアが立った。反対隣にリュシェが来た。足元にミュウが座り込み、その後ろでミリアが羽根ペンを走らせている。

 悪くない、と碧は思った。


 宴が終わったのは、深夜だった。

 碧は広間の外の回廊で、鍋を洗っていた。手伝うと言った者は全員追い返した。今日くらいは自分でやりたかった。

 背後の柱の影から、声がした。

「勇者」

 ネフィリアだった。

 闇将は壁にもたれ、腕を組んでいる。いつからそこにいたのかは、碧にはわからなかった。この魔族は気配を消すのがうますぎる。

「洗うのは、下働きの仕事だろう」

「作った奴が洗うのが早いです」

「合理か」

「それもありますけど、洗い物は好きです」

 ネフィリアは柱から離れ、回廊の欄干に腰かけた。魔王城の回廊は高い。足元には城下の明かりが散っていた。

「訊きたいことがある」

「どうぞ」

「お前は、あの話を覚えているか。人間を三通りに分類するという話だ」

「覚えてます。欲、恐怖、信念」

「よく覚えているな」

「四つ目が増えたって言われたので」

 闇将は鼻を鳴らした。

「その三つを、私がいつ作ったか知りたくないか」

「知りたいです」

「六百年前だ」

 ネフィリアは城下を見ていた。

「当時、私は四天王ではなかった。魔王軍の諜報をやっていた。人間の国に潜り、話を聞き、記録を持ち帰る。それが仕事だった」

「向いてそうですね」

「向いていた」

 闇将は、そこで少し黙った。

「四十二年やった。その間に、三百人ほどと親しくなった」

「三百人」

「潜るというのはそういうことだ。顔を作り、名を作り、家を借り、隣人と挨拶をする。パンを分ける。子どもの名付けに呼ばれることもある」

 碧は、鍋を洗う手を止めていた。

「そのうち、二百八十七人が私を売った」

 ネフィリアは、淡々と言った。

「魔族だと露見したとき、あるいは懸賞金が出たとき、あるいは自分の家族が疑われたとき。理由はそれぞれだ。欲で売った者、恐怖で売った者、そして信念で売った者」

「……三つの分類」

「そうだ」

 闇将は、初めて碧のほうを向いた。

「残りの十三人は、売らなかった。だから私は、その十三人を説明する分類を作ろうとした。四十二年かけて、作れなかった」

「作れなかった」

「作れなかった」

 ネフィリアは、自分の掌を見下ろした。

「だから、あの十三人は例外だったことにした。例外を認めれば、残りの二百八十七に筋が通る。二百八十七に筋が通れば、私は自分がどこで間違えたかを説明できる」

 碧は、何も言わなかった。

 この魔族が八百年かけて作った枠組みの正体が、いま目の前に置かれていた。それは人間を理解するための道具ではない。自分が裏切られた理由を、自分で納得するための道具だった。

「勇者」

 碧は頷いた。

「お前は、その十三人と同じ種類だ」

 ネフィリアは、そう言った。

「だから不愉快だ。お前を分類できないということは、六百年前に私が作った説明が、全部間違っていたということになる」

「間違ってたんですか」

「わからん」

 闇将は、欄干から足を投げ出した。

「わからんから、側で見ている」

 碧は、洗い終わった鍋を伏せた。

 それから、隣に腰かけた。魔族と人間が同じ欄干に並んで座るという絵面を、たぶん魔王城の警備兵は今日初めて見ただろう。

「ネフィリアさん」

「なんだ」

「十三人の名前、覚えてますか」

 闇将の動きが、止まった。

 長い沈黙があった。

「……覚えている」

「全員」

「全員だ」

 ネフィリアは、城下の明かりを見ていた。

「六百年経った。全員とうに死んでいる。それでも覚えている」

「じゃあ」

 碧は言った。

「分類、要らないんじゃないですか」

 闇将が、こちらを向いた。

「名前を覚えてるなら、それでいいと思います。分類は、名前を忘れた人がやることです」

 ネフィリアは、長いこと碧を見ていた。

 やがて、欄干から降りた。

「……勇者」

「はい」

「お前は、時々ひどいことを言う」

「すみません」

「謝るな。腹が立つ」

 闇将は回廊を歩き出し、三歩でまた止まった。

「ひとつ、教えておく」

「はい」

「十三人のうち、四人は飯屋だった」

 ネフィリアは、振り返らずに言った。

「理由は知らん。ただ、飯を出す者は売らなかった」

 闇将は、そのまま行ってしまった。

 碧は欄干に残り、城下の明かりをしばらく眺めていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。