第19話 魔王ヴァルガルド(後編)
召喚された高校生・天野碧が女神から授かった祝福は、八つ。過去最大の記録だった。
だが碧が最初にしたのは、飢えた四千人に鍋を出すことだった。
水を通し、土を戻し、魔王すら部下にして、碧は世界を縛る楔を一本ずつ抜いていく。
抜くたびに、碧は何かを失う。痛みを、恐怖を、味を、眠りを、怒りを。
失った分を預かると言ったのは、そばにいることを選んだ者たちだった。
最強の料理人と、彼を欠けさせない少女たちの物語。
聞きながら、この十二日間のことを思い出していた。水を通し、病を治し、砦を守り、奴隷を買い、それでもまだ何も終わっていない。
たしかに、際限はなかった。
灰区の四千人を治した夜、碧は満足していた。だが次の日には奴隷市があった。その次には魔王領がある。終わりがないという感覚を、碧はもう知り始めている。
この男の言っていることは、脅しではなく予報だった。
「……それで、俺に何を期待してるんですか」
「期待はしていない」
ヴァルガルドは、あっさり言った。
「ただ、貴殿は十七人とは違う」
「どこがですか」
「王都の話は聞いている」
魔王は、わずかに首を傾けた。
「貴殿は、四千人を治したあと、飯を作ったそうだな」
「作りました」
「なぜだ」
「腹が減ってたので」
実際、それ以外の理由はなかった。
治した四千人が空腹だったから作った。それだけの話で、そこに思想も計算もない。
「そうだ」
ヴァルガルドが、笑った。
低く、短く、しかし確かに笑った。
「十七人は誰も、飯を作らなかった」
魔王の声には、責める響きがなかった。
「彼らは剣を鍛え、魔法を磨き、軍を編成した。全員が正しい。世界を救うにはそれが要る」
ヴァルガルドは首を振った。
「だが誰も、救ったあとのことを考えなかった。救われた者がその日の夜に何を食うかを、誰も考えなかった」
魔王は、片膝をついた。
千二百年の王が、黒い石の床に膝を落とした。広間の隅で、誰かが口を半分開けたまま止まった。
「勇者アオイ。私の首を差し出す」
「いりません」
「では、私の国を差し出す」
「それもいりません」
碧は、しゃがんだ。
魔王と目線の高さを合わせる。膝をつかせた相手と同じ高さまで下りてくる人間を、この男はおそらく二万年見ていない。
「ヴァルガルドさん。俺、たぶん十八人目です」
「そうだ」
「十八人目が何をすればいいのか、俺にはまだわかりません」
碧は、正直に言った。
「でも、あなたのこの国、土が死んでます。子どもが痩せてます。それは、俺が直せます」
魔王が、顔を上げた。
「だから、順番でいきましょう」
碧は、手を差し出した。
「世界を終わらせる話は、あとにします。先に、飯を食えるようにしましょう」
ヴァルガルドは、その手を見た。
長いこと、見ていた。
やがて、二万年生きた男の肩が、わずかに震え始めた。
「……二万年だ」
声が、掠れていた。
「二万年で、そんなことを言った者は初めてだ」
魔王は、碧の手を取った。
その手は大きく、乾いていて、そして冷たかった。
広間の隅で、誰かが声を殺した。魔族の官吏だった。それが伝染して、しばらくのあいだ広間のあちこちから嗚咽が聞こえた。
四天王は誰も泣いていなかった。ガルムが天井を見上げ、フリジアが目を閉じ、バルドが自分の指先で小さな火花を散らしていた。
ネフィリアだけが、碧をまっすぐ見ていた。
その夜、魔王城の広間で、碧は鍋を並べた。
十二万人分は無理だった。正確には作れるが、配る手が足りない。
だからまず、城の中にいる者から始めた。明日からは城下に出ると碧が言うと、魔王はそれを止めなかった。官吏の一人が予算の話をしかけて、四天王のフリジアに黙らされた。
「ビーフシチューを作ります」
碧は広間の中央でそう言った。
ここで作る理由があった。厨房でやれば匂いが石の壁に吸われる。広間は天井が高く、風の通り道がある。匂いは上へ昇って、それから城じゅうへ降りていく。
この城の人間に、まず匂いを嗅がせたかった。
使用人、官吏、兵。四天王。そして魔王本人。
食材は、王都から積んできたものと、碧が創造したものを混ぜた。作り方は、王都で四千人に出したのと同じだった。
肉を厚く切って、焼く。鍋の底で脂が跳ねる音が、黒い石の広間によく響いた。焦げた脂の匂いが、天井へ昇っていく。
玉ねぎを炒める段になると、広間の入口に人が集まり始めた。魔族の官吏たちだった。誰も入ってこない。ただ、扉のところで立っている。
三十分後、玉ねぎが飴色に変わった。
甘い匂いが広間を満たしたとき、扉の前の人数は倍になっていた。
酒を注ぐ。音と湯気が同時に来る。ルウを溶くと、木べらの跡が一瞬だけ残って、それから閉じた。
あとは、待つ時間だった。
「アオイ様。配膳の順番はいかがなさいますか」
ミリアが帳面を構えた。
碧は、少し考えた。
それから、最初の一杯をよそって、エルフィリアに差し出した。
「約束したので」
女神が、目を丸くした。
広間の空気が、微妙に動いた。リュシェが視線を逸らし、ミリアが猛烈な速度で何かを書き始める。
だが、そこで終わらせるつもりもなかった。
碧は続けて、二杯目と三杯目と四杯目を同時によそった。
「リュシェ様、ミュウ、ミリア」
三人が、同時に顔を上げた。
「三人とも、同じタイミングで渡します。順番つけると揉めるので」
三つの椀を同時に差し出す。差し出された側は三人とも、一瞬どう受け取ればいいのか迷った顔をした。
「……アオイ殿」
「はい」
「それはそれで、ずるいのではございませんか」
リュシェが、椀を受け取りながら言った。
「ずるいですか」
「ずるいです。ですが」
王女は椀を両手で持ち、そこから立つ湯気を見下ろした。
「……美味しいので、今日は許します」
ミュウの尻尾が、また勝手に揺れていた。
ミリアは椀を置いて、まず記録を取ろうとして、ネフィリアに帳面を取り上げられた。
「食え。冷める」
「返してください」
「食ってから書け。その順番なら許す」
闇将は帳面を懐にしまい、自分の椀を受け取った。
そして、一口飲んだところで動きを止めた。
闇将はしばらく椀を見下ろしていた。それから二口目を飲み、三口目を飲み、そこで匙を置いた。
しばらくして、彼女は小さく呟いた。
「……分類が、また一つ増えた」
広間の隅で、魔王ヴァルガルドが椀を抱えていた。
二万年生きた男は、湯気の向こうで何度も瞬きをしていた。
飲もうとして、止まる。匙を口元まで運んで、そこで手が動かなくなる。また下ろす。もう一度上げる。それを三度繰り返してから、ようやく匙を口に入れた。
一口目は、ほとんど汁だけだった。
ヴァルガルドは口の中のものを、長い時間かけて飲み込んだ。喉が動くまでに数秒かかった。それから椀を膝に置き、両手で縁を握ったまま、しばらく床の一点を見ていた。
二口目で、肉を口へ入れた。
噛んだ瞬間、二万年生きた男の肩が一度だけ落ちた。力が抜けたのだ。碧は厨房でその落ち方を何度も見ている。緊張していた客が、最初の一口で警戒を解くときの落ち方だった。
そこから先も、魔王は匙を使い続けた。
速くならなかった。作法も崩れなかった。二万年ぶんの身体に染みついた食べ方は、一皿の煮込みで揺らぐようなものではない。一口ごとに椀を膝へ戻し、背筋を伸ばしたまま、王として食べ続けた。
崩れたのは、別の一点だった。
椀が空になっても、ヴァルガルドはそれを膝から下ろさなかった。
両手で縁を握ったまま、空の椀を持っている。おかわりを頼むでもなく、返すでもなく、ただ持っている。そのまま、たっぷり一分が過ぎた。
碧は気づかないふりをして、次の鍋をかき混ぜた。
そのうち広間のあちこちで話し声が起き始めた。官吏が四天王に話しかけ、ダインがバルドと並んで座り、カイたちが配膳を手伝っている。人間と魔族が同じ床に座って同じ鍋のものを食っていた。
ミリアが帳面を取り返して、その光景を書き留め始めた。今度は誰も止めなかった。
碧は鍋の向こうから、それを眺めていた。
隣にエルフィリアが立った。反対隣にリュシェが来た。足元にミュウが座り込み、その後ろでミリアが羽根ペンを走らせている。
悪くない、と碧は思った。
宴が終わったのは、深夜だった。
碧は広間の外の回廊で、鍋を洗っていた。手伝うと言った者は全員追い返した。今日くらいは自分でやりたかった。
背後の柱の影から、声がした。
「勇者」
ネフィリアだった。
闇将は壁にもたれ、腕を組んでいる。いつからそこにいたのかは、碧にはわからなかった。この魔族は気配を消すのがうますぎる。
「洗うのは、下働きの仕事だろう」
「作った奴が洗うのが早いです」
「合理か」
「それもありますけど、洗い物は好きです」
ネフィリアは柱から離れ、回廊の欄干に腰かけた。魔王城の回廊は高い。足元には城下の明かりが散っていた。
「訊きたいことがある」
「どうぞ」
「お前は、あの話を覚えているか。人間を三通りに分類するという話だ」
「覚えてます。欲、恐怖、信念」
「よく覚えているな」
「四つ目が増えたって言われたので」
闇将は鼻を鳴らした。
「その三つを、私がいつ作ったか知りたくないか」
「知りたいです」
「六百年前だ」
ネフィリアは城下を見ていた。
「当時、私は四天王ではなかった。魔王軍の諜報をやっていた。人間の国に潜り、話を聞き、記録を持ち帰る。それが仕事だった」
「向いてそうですね」
「向いていた」
闇将は、そこで少し黙った。
「四十二年やった。その間に、三百人ほどと親しくなった」
「三百人」
「潜るというのはそういうことだ。顔を作り、名を作り、家を借り、隣人と挨拶をする。パンを分ける。子どもの名付けに呼ばれることもある」
碧は、鍋を洗う手を止めていた。
「そのうち、二百八十七人が私を売った」
ネフィリアは、淡々と言った。
「魔族だと露見したとき、あるいは懸賞金が出たとき、あるいは自分の家族が疑われたとき。理由はそれぞれだ。欲で売った者、恐怖で売った者、そして信念で売った者」
「……三つの分類」
「そうだ」
闇将は、初めて碧のほうを向いた。
「残りの十三人は、売らなかった。だから私は、その十三人を説明する分類を作ろうとした。四十二年かけて、作れなかった」
「作れなかった」
「作れなかった」
ネフィリアは、自分の掌を見下ろした。
「だから、あの十三人は例外だったことにした。例外を認めれば、残りの二百八十七に筋が通る。二百八十七に筋が通れば、私は自分がどこで間違えたかを説明できる」
碧は、何も言わなかった。
この魔族が八百年かけて作った枠組みの正体が、いま目の前に置かれていた。それは人間を理解するための道具ではない。自分が裏切られた理由を、自分で納得するための道具だった。
「勇者」
碧は頷いた。
「お前は、その十三人と同じ種類だ」
ネフィリアは、そう言った。
「だから不愉快だ。お前を分類できないということは、六百年前に私が作った説明が、全部間違っていたということになる」
「間違ってたんですか」
「わからん」
闇将は、欄干から足を投げ出した。
「わからんから、側で見ている」
碧は、洗い終わった鍋を伏せた。
それから、隣に腰かけた。魔族と人間が同じ欄干に並んで座るという絵面を、たぶん魔王城の警備兵は今日初めて見ただろう。
「ネフィリアさん」
「なんだ」
「十三人の名前、覚えてますか」
闇将の動きが、止まった。
長い沈黙があった。
「……覚えている」
「全員」
「全員だ」
ネフィリアは、城下の明かりを見ていた。
「六百年経った。全員とうに死んでいる。それでも覚えている」
「じゃあ」
碧は言った。
「分類、要らないんじゃないですか」
闇将が、こちらを向いた。
「名前を覚えてるなら、それでいいと思います。分類は、名前を忘れた人がやることです」
ネフィリアは、長いこと碧を見ていた。
やがて、欄干から降りた。
「……勇者」
「はい」
「お前は、時々ひどいことを言う」
「すみません」
「謝るな。腹が立つ」
闇将は回廊を歩き出し、三歩でまた止まった。
「ひとつ、教えておく」
「はい」
「十三人のうち、四人は飯屋だった」
ネフィリアは、振り返らずに言った。
「理由は知らん。ただ、飯を出す者は売らなかった」
闇将は、そのまま行ってしまった。
碧は欄干に残り、城下の明かりをしばらく眺めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。
感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




