第19話 魔王ヴァルガルド(前編)
召喚された高校生・天野碧が女神から授かった祝福は、八つ。過去最大の記録だった。
だが碧が最初にしたのは、飢えた四千人に鍋を出すことだった。
水を通し、土を戻し、魔王すら部下にして、碧は世界を縛る楔を一本ずつ抜いていく。
抜くたびに、碧は何かを失う。痛みを、恐怖を、味を、眠りを、怒りを。
失った分を預かると言ったのは、そばにいることを選んだ者たちだった。
最強の料理人と、彼を欠けさせない少女たちの物語。
国境の野営地を発ったのは夜明け前だった。
四天王が先導し、車三台が続く。ガルムは屋根の上に乗り、フリジアは荷台の端に座り、バルドは自前の雷で空を飛んだ。ネフィリアだけが碧の車の後部座席に乗り込み、そこでミリアに質問攻めにされていた。
山脈を越えるまでは、まだ緑があった。
魔王領の空は、灰色だった。
国境の山脈を越えた瞬間から、それははっきりとわかった。雲が低い。太陽が見えない。風に土の匂いが混じっている。
碧は車の速度を落とした。
眼下に広がっているのは、荒れ地だった。かつて畑だったらしい区画が延々と続いていて、そのどこにも緑がない。灌漑用の水路が残っているが、底は乾いて割れていた。
助手席で、エルフィリアの呼吸が止まった。
「……ひどい」
「元から、こうだったんですか」
「違います。五百年前は、ここは穀倉地帯でした」
女神は窓の外を見つめたまま言った。
「大陸で二番目に豊かな土地でした。いまは」
言葉が、続かなかった。
この人は五百年前を知っている。豊かだった頃の風景を覚えたまま、いまの荒れ地を見ている。その落差を毎回一人で抱えてきたのだと、碧は今さら気づいた。
後部座席でミュウが身を乗り出し、それから耳を伏せた。獣人の嗅覚には、碧が感じている以上のものが届いているのだろう。
「アオイ様。この土、死んでます」
「わかるか」
「匂いがしません。土って、匂いがするものです」
碧は、車を止めた。
後続の二台も止まる。全員が降りてきた。誰も喋らない。荒れ地に十人が立っているだけの、妙に静かな時間だった。
碧はしゃがんで地面に手を当てた。
そして、すぐに理解した。
魔素が、濃すぎた。
北の森で感じたものと同じ性質の濁りが、この土地全体に染み込んでいる。植物が育たないのは土が痩せたからではない。育とうとした端から、魔素に焼かれているのだ。
「……これ、楔のせいですか」
碧が顔を上げると、エルフィリアが頷いた。
「魔王領の地下に、二本あります」
「二本」
「この大陸の六本のうち、二本がここです」
背後で、闇将ネフィリアが車から降りてきた。
「知っていたのか、女神」
「はい」
「なぜ抜かなかった」
その問いは、責めるものではなかった。純粋な疑問だった。
エルフィリアは、しばらく答えなかった。
「……抜けなかったからです」
女神の声は、小さかった。
「わたしには、抜けません。神の力では触れられない構造になっています」
「触れられない」
「神を排除するために作られたものだからです」
その一言に、碧は引っかかった。
神を排除する。つまり作った者は神ではない。神より上にいるか、あるいは神の外にいる何かが、この世界に九本の楔を打ち込んだことになる。
ネフィリアも同じところに気づいたらしい。闇将は何も言わず、ただ女神の横顔を見ていた。
碧は、地面から手を離した。
風が吹いて、乾いた土が舞い上がった。誰も、しばらく口を開かなかった。
その土地を二時間走った。
途中、廃村を四つ通り過ぎた。どれも家の形は残っている。人だけがいない。井戸の跡があり、畑の畝が残り、洗濯物を干す棒が立ったままの家もあった。
ミュウは途中から窓の外を見なくなった。
魔王城は、黒い山だった。
そう見えたのだ。近づくにつれて、それが建造物だと理解できるようになったが、最初に地平線に現れたときは山にしか見えなかった。
高さは五百メートルを超える。裾野に城壁が三重に巡り、その内側に街が広がっている。
碧が驚いたのは、街のほうだった。
「人が、住んでるんですね」
「当たり前だろう」
ガルムが答えた。炎将は車の屋根の上に乗っている。座席に入らなかったからだ。
「魔王領の人口は、およそ四十万。そのうち十二万がこの城下に住んでいる」
「四十万」
碧はその数字を聞いて少し考えた。グランヴェル王国の人口は八十万ほどだと聞いている。魔王領はその半分しかいない。
それでいて、千年のあいだ人間側はこの国を脅威とみなし続けてきた。
「昔は百万を超えていた」
ガルムの声が、低くなった。
「食えなくなった。それだけだ」
三重の城壁は、どれも古かった。
外側の壁には大きな補修の跡がある。内側の壁は逆に手入れが行き届いていない。守るべき範囲が縮んでいったのだと、碧にはそれだけでわかった。人口が減った国は外側から壊れていく。
城門をくぐると、街路に人が出ていた。
魔族の姿は、碧が想像していたものとはずいぶん違った。角のある者、肌の色が違う者、尾を持つ者。ただ、そのほとんどは人間と大差ない外見をしている。
そして、全員が痩せていた。
痩せ方には種類がある。働きすぎて痩せる者と、食えなくて痩せる者では、肩と首のつき方が違う。実家の店に来る客を十年見てきた碧には、その区別がついた。
この街の痩せ方は、後者だった。
子どもが多い。大人の数が少ない。道端に座り込んだまま動かない者がいる。灰区で見たのと同じ光景が、規模だけを変えて広がっていた。
車が通ると、人々が道を空けた。
誰も歓声を上げない。誰も石を投げない。ただ、じっと見ている。
敵意はなかった。期待もなかった。あるのは疲労だけだった。この街の住人は、勇者が来たという事実に反応するだけの余力を残していない。
碧は窓の外を見ながら、王都の大広場を思い出した。あそこには三万人がいて、全員が声を上げていた。同じ大陸の同じ月に、これだけ違う光景がある。
「……アオイ」
エルフィリアが、助手席から言った。
「顔が、怖いです」
「すみません」
「怒っていますか」
「怒ってません」
碧は、正直に答えた。
「計算してます。この街に水を通すのに何時間かかるか」
頭の中ではすでに図面が動いていた。城下の地形、地下水脈の位置、必要な塔の数。ただし水を通すだけでは足りない。この土地は土そのものが死んでいる。
水より先に、土を作り直す必要があった。
女神が、こちらを見た。
そして、少しだけ笑った。
謁見の間は、想像していたより簡素だった。
黒い石の広間に、玉座がひとつ。装飾はほとんどない。壁には旗も絵もかかっておらず、ただ高い天井と、そこから差し込む細い光があるだけだった。
その玉座に、男が座っていた。
碧が最初に感じたのは、大きさではなかった。
静けさだった。
黒い髪を後ろへ流し、簡素な衣をまとっている。角はない。肌の色も人間とほとんど変わらない。年齢は四十前後に見えるが、その目だけが明らかに違っていた。
千年以上を見てきた目だった。
碧はこの十二日で、長く生きた者の目を何度か見ている。セルヴァンもそうだし、ガルムもそうだった。だがこの男の目は、それらとは種類が違う。長く生きた者の目ではなく、長く待った者の目だった。
「よく来た」
低い声が、広間に響いた。
「魔王ヴァルガルド・ノクスだ」
「天野碧です」
碧は一歩前に出た。
背後で、十人が並んでいる。ダインが剣の柄から手を離さず、リュシェが一歩も引かずに立ち、ミュウが碧の外套の裾を掴んでいた。エルフィリアは碧の真横にいる。
「まず、詫びる」
ヴァルガルドが言った。
「四天王四名を国境へ送った。無礼であった」
「話が早くて助かりました」
「そうか」
魔王は、わずかに口元を緩めた。その表情の動きは小さく、見逃してもおかしくない程度のものだった。
それでも、広間の隅に控えていた魔族の官吏たちがざわついた。この男が笑うところを、彼らもめったに見ないのだろう。
魔王の視線が、碧の背後の十人を順に通り過ぎた。
女神のところで一度止まった。ミュウのところでもう一度止まった。それから、また碧に戻ってきた。
「率直に言おう、勇者。私は貴殿に降伏する」
広間から、音が消えた。
碧の背後で、ダインの手が完全に止まった。リュシェの喉が鳴った。ミリアの羽根ペンが落ちた。
碧だけが、動かなかった。
「戦わずに、ですか」
「戦わずに、だ」
「理由を聞いていいですか」
「聞かぬままでは、受け取らぬか」
「受け取りません」
碧は言った。
「降伏されても、俺は困ります。あなたの国をどうこうする気がないので」
実際、碧には受け取る用意がなかった。
国をひとつ渡されても持て余す。王都でさえ、すでに手に余りかけている。
ヴァルガルドが、目を細めた。
「では、言い方を変えよう」
魔王は玉座から立ち上がった。
その瞬間、広間の空気が変わった。圧が来たのではない。むしろ逆で、この男が抑えていた何かが、わずかに緩んだのだ。
「勇者。私は千二百年生きている」
ヴァルガルドは、一段ずつ階段を降りてきた。
「その千二百年で、勇者を十七人見た」
碧の指が、聖剣の柄に触れた。
「うち三人とは剣を交えた。二人は私が殺し、一人は私を殺しかけた」
魔王は、碧の正面で足を止めた。
「そして十七人とも、世界を救えなかった」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
ヴァルガルドは、碧の目を覗き込んだ。
「十七回、世界は終わった。そのたびに作り直され、そのたびに私は生き残った」
その言い方はあまりに平坦だった。
誇っているわけでも嘆いているわけでもない。二万年繰り返してきた説明を、また一度やっているだけという口調だった。
広間が、完全な無音になった。
碧は、その言葉を理解するのに数秒かかった。
「生き残った、って」
「私は、初期化されない」
魔王は、自分の胸に手を当てた。
「理由はわからん。ただ、世界が作り直されるたび、私だけが前の世界の記憶を持ったまま目を覚ます」
「千二百年というのは」
「十八回目の世界での年数だ」
ヴァルガルドは、静かに言った。
「私が実際に生きた時間は、おそらく二万年を超える」
碧は数字を頭の中で並べてみた。
二万年。人類の歴史よりも長い。この男が生まれたときには、まだ文字も農耕もなかったことになる。それを全部覚えたまま、いまここに立っている。
碧の隣で、エルフィリアが一歩後ずさった。
女神の顔から、血の気が引いていた。
「……あなたは」
「久しいな、創世の女神」
ヴァルガルドが、彼女を見た。
「貴女は、毎回わたしを覚えていない」
「わたしが」
「初期化のたび、神々の記憶も巻き戻される。唯一残るのが私だ」
魔王は、そこで初めて疲れた顔をした。
「貴女とこの話をするのは、これで九回目になる」
エルフィリアが、口を押さえた。
碧は、女神の肩に手を置いた。
震えていた。神の身体が震えるところを、碧は初めて見た。エルフィリアは碧の手に自分の手を重ね、それから深く息を吸った。落ち着こうとしているのがわかった。
リュシェが一歩前に出て、女神の反対側に並んだ。ミュウが碧の裾を掴んだまま動かない。ミリアは羽根ペンを拾わずに立ち尽くしている。
誰も逃げなかった。碧はそれを、背中で確かめていた。
「ヴァルガルドさん」
「なんだ」
「あなたは、何がしたいんですか」
魔王は、碧を見た。
その目に、初めてはっきりとした感情が浮かんだ。
「終わらせたい」
男は言った。
「十八回目を、最後にしたい」
碧は、黙って続きを待った。
急かす気にはならなかった。この男は二万年ぶん話す相手を持たなかったのだろう。言葉の選び方が、それを物語っている。
「私はこの二万年、ずっと同じことを試してきた。魔王として世界を脅かし、勇者を呼ばせ、その勇者に世界を救わせる。十七回やって、十七回失敗した」
ヴァルガルドは、拳を握った。
「どの勇者も、最後には絶望した。力が足りなかったのではない。力を得た者ほど、早く絶望した」
「なんで、絶望するんですか」
「救えるものが多すぎるからだ」
魔王は、そう答えた。
「一人を救えば十人が来る。十人を救えば千人が来る。千人を救えば、救えなかった一万人が見えてくる。そうして最後には、誰も救えていなかったことに気づく」
碧は、その言葉を聞いた。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




