第18話 聖剣アウローラ(前編)
王都に戻ったその朝、城は上を下への騒ぎになっていた。
理由は三つある。二日前の夜に宰相が失脚したこと。四天王四人が国境の野営地に居座って動かないこと。そして勇者が魔王城へ行くと言い出したこと。
どれか一つでも十年に一度の大事件だった。それが同じ週に三つ重なったせいで、城の文官たちは書類の分類から手をつけられずにいた。
碧が謁見の間に入ったとき、そこにはすでに三十人以上の文官と貴族が詰めかけていた。全員が同時に喋っていて、普通なら誰の声も聞き取れないはずだった。
ところが言語理解の祝福は、その全部を律儀に拾ってしまう。三十通りの主張が同時に頭へ流れ込んでくるのは、正直なところ拷問に近い。碧はこの十一日で、聞こえすぎることの不便さを何度も味わっていた。
「静まれ」
グレイル三世が、机を一度だけ叩いた。
音が止んだ。
「アオイ殿。まず礼を言う。四天王四名、一人の死者も出さずに収めていただいた」
「話しただけです」
「その話が、千年できなかったのだ」
王は一枚の書状を掲げた。
「昨夜、余の名で布告を出した。王国法第一条の改正。国民の定義に、人間以外の知性ある種族を含める」
謁見の間が、ざわついた。
賛成の声と、明らかな不服の声が混ざっている。碧の斜め後ろで、ミュウの耳がぴくりと動いた。
「これにより、獣人、エルフ、そして魔族も、この国の法の保護下に入る」
「陛下! 魔族までは、さすがに」
声を上げたのは、肥えた貴族だった。
「昨日まで敵でございましたぞ!」
「昨日まで敵であった者が、今日は国境で肉を焼いて食っておる」
王は淡々と返した。
「余は現実に合わせて法を変える。法に合わせて現実を殺すのは、宰相のやり方であった」
貴族が黙った。
リュシェが、碧の隣で小さく息を吐いた。
四年間止まっていた三枚の書類が、一晩で国の形を変えていく。この人にとっては、たぶん昨夜が人生で最も長い夜だったのだろう。目の下に薄い隈ができているのを、碧は朝から気づいていた。
ミュウは、王の言葉をまだ理解しきれていない顔をしていた。自分が法の保護下に入るという事実が、この少女の中でどう処理されているのかはわからない。ただ、耳だけがずっと立ったままだった。
その後の議論は、二時間続いた。
碧は立ったまま聞いていた。途中で椅子を勧められたが断った。座ってしまうと、この場の一員として扱われる気がしたからだ。
リュシェは何度か発言し、そのたびに議論の方向を少しずつ修正していった。この王女のやり方は、正面から反論するのではなく、相手の前提を一つずつ入れ替えていくというものだった。碧はその手際を横で見ながら、宰相が四年かけてこの人を封じ込めていた理由を理解した。
論点はひとつだけだ。碧を魔王城へ行かせるかどうか。
「罠でございます」
「魔王の言葉を信じる根拠がございませぬ」
「勇者殿に万一のことがあれば、この国は」
碧は、黙って聞いていた。
半分は本気で心配している。もう半分は、碧という資産を手放したくないだけだ。言語理解のおかげで、どちらの声かは全部聞き分けられてしまう。
やがて、王が碧を見た。
「アオイ殿。余は止めぬ」
謁見の間で、誰も口をきかなくなった。
「陛下!」
「冠を渡すとき、余は申した。返してもらうために渡す、と」
グレイル三世は立ち上がった。
「余はこの御方の主ではない。行くと言うなら、送り出すのが筋である」
王はそこで、少しだけ間を置いた。
「ただし、一つだけ頼みがある。……大神官」
扉の脇に控えていたセルヴァンが、前に出た。
「アオイ殿。神殿の地下へ、おいでいただけますかな」
神殿の地下には、記録庫のさらに奥があった。
碧は九日前にここへ来ている。そのときは書架の並ぶ広間までしか入らなかった。
セルヴァンは、その広間の最奥へ碧を案内した。
通路は狭く、燭台を持った補佐が先を歩いた。壁の石は上階のものより一回り大きく、積み方も粗い。この神殿が建つ前から、ここだけは存在していたのではないかと思わせる古さだった。
書架の裏に、扉があった。
黒い金属でできている。装飾はない。ただ、表面に無数の傷跡が刻まれていた。斬りつけた跡、殴った跡、焼いた跡。何百年ぶんの執念が、全部この扉に残っている。
「封印宝物庫でございます」
セルヴァンが言った。
「千年前、初代の召喚者がこの扉を封じられました。以来、一度も開いておりませぬ」
「鍵は」
「ございませぬ」
老人は扉を撫でた。
「歴代の召喚者が、全員この扉に挑まれました。十七人。誰一人、開けられておりませぬ」
碧は扉の傷跡を見た。
斬った跡には深さの差がある。何十年も間を置いて、別々の人間が同じ場所を狙った痕だった。焼けた跡の上に、また別の焼け跡が重なっている。
十七人が、同じ場所で同じことを繰り返してきた。その記録が、そのまま扉の表面に残っている。
碧の後ろで、足音が止まった。
ついてきていたのは五人だった。エルフィリア、リュシェ、ミュウ、ミリア。そして少し離れて、闇将ネフィリア。
魔族を神殿に入れることについては、セルヴァンが三十分粘った末に折れた。ネフィリアが「入れぬなら外で待つが、それで勇者が死んでも知らん」と言い放ったのが決定打だった。
「アオイ様」
ミリアが帳面を構えていた。
「もし開いたら、神殿史上最大の記録になります」
「開かなかったら」
「それも記録します」
「容赦ないな」
碧は扉の前に立った。
近づくだけで、扉の内側にあるものの気配が伝わってきた。それは敵意でも警告でもない。もっと事務的な、何かを待ち続けている物の気配だった。
手を触れる前から、わかっていた。この扉は、力任せに開けるものではない。
押しても引いても動かない。斬っても壊れない。歴代十七人が挑んで、全員が失敗した。
だとすれば、これは錠ではなく、質問だ。
碧は、扉に手を当てた。
目を閉じる。
地面に触れたときと同じように、構造が見えてきた。金属の組成。内側の空洞。そして、扉そのものに編み込まれた術式。
術式は、一行だけだった。
千年前の言葉で書かれている。言語理解の祝福がなければ、たぶん模様にしか見えなかっただろう。
――なにを持ち帰るか。
碧は、目を開けた。
「これ、質問ですね」
「は」
セルヴァンが目を見開いた。
「開けたら何を持っていくのか、って聞かれてます」
「……千年、誰もそのようなことは」
「たぶん、皆さん開けることばかり考えてたんだと思います」
責める気はなかった。
召喚された者にとって、この扉の向こうにあるのは帰る手段かもしれず、魔王を倒す力かもしれない。その状況で問いに気づけというのは、たぶん酷な話だった。
碧がそれに気づけたのは、この十一日で碧が欲しがったものが何もなかったからにすぎない。
碧は、扉に向かって答えた。
「何も持っていかないです」
言った瞬間、扉の表面の傷跡が淡く光った。
千年ぶんの執念が、内側から照らし出された。そして、その光がゆっくりと引いていく。
扉が、開いた。
音はしなかった。
黒い金属の扉が内側へ滑り、その向こうに空間が現れた。
狭い部屋だった。四方の壁に棚があり、そこに品が並んでいる。埃はまったく積もっておらず、空気も淀んでいない。千年のあいだ、この部屋の中だけ時間が進んでいなかったかのようだった。
ミリアが碧の後ろから覗き込み、それから帳面を取り落とした。拾う音が、やけに大きく響いた。
棚には、様々なものがあった。
鎧。杖。宝石。巻物。奇妙な形の器具。どれも明らかに常人の手に余るものだと、見ただけでわかる。
そして、部屋の中央に。
一本の剣が、床に突き立っていた。
鞘はない。刃がむき出しのまま、石の床に半分ほど沈んでいる。
碧が近づくと、剣が光った。
弱い光だった。灯りというより、返事に近い。近づいた者を認識して、そこに何かを返そうとしている。そういう種類の反応だった。
「……アウローラ」
セルヴァンが、震える声で言った。
「記録にございます。初代の召喚者が持ち込まれた剣。以来、誰も抜けておりませぬ」
「抜いていいんですか」
「抜けるのであれば」
碧は、柄に手をかけた。
そして、止まった。
剣から、何かが流れ込んできたのだ。
映像ではない。感情でもない。もっと断片的な、誰かの記憶の切れ端のようなものだった。
――疲れた。
――もう、帰れない。
――次の奴には、こんな思いをさせるな。
碧は、手を離した。
「アオイ?」
エルフィリアが、後ろから声をかけた。
「……この剣、誰かの声がします」
碧は柄を見下ろした。
「十七人ぶん、たぶん」
誰かの椅子が、床の上で短く鳴った。
碧は、もう一度柄を握った。
今度は離さなかった。流れ込んでくるものを、全部受け止めることにした。
十七人ぶんの何かが、順番に通り過ぎていった。名前はわからない。顔も浮かばない。ただ、その人たちが最後に何を考えていたかだけが、手のひらから伝わってくる。
疲労。絶望。望郷。そして、最後にひとつだけ共通していたもの。
――どうか、誰かが終わらせてくれ。
碧は、剣を抜いた。
抵抗はまったくなかった。石の床に半分沈んでいた刃が、水から引き上げるような滑らかさで出てくる。千年動かなかったものとは思えない軽さだった。
その瞬間、部屋全体が白く光った。
棚の上の品が、一斉に震えた。壁の石が鳴った。天井から埃が落ちた。
そして、光が収まったとき。
背後で、五人の肩が一度だけ上下した。
碧の手の中の剣は、形を変えていた。
刃が短くなっている。反りが浅く、幅が広い。柄の握りは、碧の手に合わせて太さが変わっていた。
碧は、それを見て思わず笑った。
「……包丁みたいだ」
「アオイ殿」
リュシェが、剣を凝視していた。
「それは、どういう」
「たぶん、持ち主に合わせて形が変わるんです」
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




