第17話 降伏する四天王(後編)
召喚された高校生・天野碧が女神から授かった祝福は、八つ。過去最大の記録だった。
だが碧が最初にしたのは、飢えた四千人に鍋を出すことだった。
水を通し、土を戻し、魔王すら部下にして、碧は世界を縛る楔を一本ずつ抜いていく。
抜くたびに、碧は何かを失う。痛みを、恐怖を、味を、眠りを、怒りを。
失った分を預かると言ったのは、そばにいることを選んだ者たちだった。
最強の料理人と、彼を欠けさせない少女たちの物語。
ソースは香辛料を多めにした。
鉄板に残った肉の脂で、潰したニンニクを炒める。これが利いた。ニンニクは焼けると匂いが化ける。さっきまで食欲をそそる程度だったものが、ここで人の理性を直接殴りにくる種類の匂いに変わった。
外の気配が、明らかに動いた。
そこへ酒と香辛料を落とす。黒胡椒、乾燥させた赤い実、名前のわからない魔王領の香草。鉄板の上で焦げて、煙が一瞬だけ赤みを帯びた。
付け合わせは、芋にした。
熱いうちに潰す。湯気の上がる芋の塊に、木の棒を押しつけて体重をかける。ほくほく、という音がした。そこへバターを遠慮なく落とすと、熱で溶けながら黄色い筋を引いて沈んでいった。混ぜると、白かった芋が乳白色に変わる。
こちらの匂いは、肉とは別物だった。
乳と、芋の澱粉の、どこか甘い匂い。刺激がまったくない。肉の匂いが正面から殴ってくるとすれば、こちらは背中からそっと押してくる。
二つ並べると、どちらも強くなる。父が必ずこの組み合わせで出していた理由を、碧は厨房に立って三年目くらいにようやく理解した。
焼き上がる頃には、天幕の外に列ができていた。
いちばん前にいたのは、氷将フリジアだった。
「まだ焼けてませんよ」
「待つ」
「座ってていいですよ」
「ここで待つ」
彼女は動かなかった。焚き火の前から一歩も離れなかった女が、今度は炉の前から離れない。
碧は皿を手渡した。
フリジアは受け取った。
皿の上では、厚切りの肉から湯気が上がっている。切れ目を入れると、断面の中心だけが淡い桃色をしていて、そこから透明な汁がじわりと滲み出した。
氷将の食べ方は、几帳面だった。
肉を一口分に切り、付け合わせの芋を同じ量だけ匙に載せ、そのうえで口へ運ぶ。八百年ぶんの規律が食事の作法にも出ている。
噛んだ。
二回目の咀嚼で、顎が止まった。
止まったまま、氷将はしばらく動かなかった。それから、まだ口の中にあるうちに次の一口を切り始めた。几帳面さが崩れたのは、そこからだった。三口目は芋を載せる手順を飛ばし、四口目は肉の大きさを揃えるのをやめた。
そして、動きを止めた。
「……ガルム」
「なんだ」
「これは、まずい」
「は」
「まずいというのは、味の話ではない」
氷将は皿を見下ろしたまま言った。
「これを知ってしまうと、魔王領の飯が食えなくなる」
その一言で、列が崩れた。
誰も皿を諦めなかった。八百年の主従関係も上下関係も、このときだけは完全に機能を停止していた。
ガルムの食い方は、予想どおりだった。
厚切りの肉を切り分けもせず、手で掴んで丸ごと齧る。二口で消えた。炎将は咀嚼の途中で次の皿に手を伸ばし、碧がまだ焼いている鉄板を覗き込んで急かした。旨いとは一言も言わない。かわりに、食う速度が全部を語っていた。
バルドは軽口を叩きながら食べ始めた。
王都の肉は柔らかすぎるだの、魔王領の香辛料のほうが上だの、そういうことを言いながら三口目まで進んだ。四口目で黙った。五口目からは何も言わなくなり、最後は皿に残ったソースを芋で拭っていた。
ネフィリアだけが、違った。
闇将は皿を受け取ってから、しばらく動かなかった。匂いを確かめ、肉の断面を見て、他の三人の顔を順に観察している。毒を疑っているのではない。この皿が何を起こすのかを、先に見ようとしていた。
それから、一口。
紫の瞳が、わずかに大きくなった。
ネフィリアは三口食べて、匙を置いた。置いてから、自分が皿を手放せずにいることに気づいて、少し不服そうな顔をした。
碧はその光景を、炉の向こうから眺めていた。
魔王軍四天王。この大陸で最も恐れられている四人が、いま目の前で肉の取り合いをしている。ダインが呆然と立ち尽くし、リュシェが額を押さえ、ミリアが猛烈な速度で帳面を埋めていた。
碧は二枚目の鉄板を出し、追加の肉を焼き始めた。列がまた伸びた。
「アオイ様」
隣でミュウが、小さく言った。
「はい」
「魔族の人たち、こわい匂いがしません」
「そうだな」
「……わたし、魔族に売られそうになったことがあります」
碧は、手を止めた。
ミュウは皿を持ったまま、四天王のほうを見ていた。
「でも、売ったのは人間でした」
少女の耳が、少しだけ下がった。
「よく、わからなくなります」
碧は、しばらく考えた。
それから、ミュウの皿に肉をもう一切れ載せた。
種族で人を判断するなという言い方は、たぶんこの少女には届かない。実際に人間に売られ、魔族に買われかけた本人にとって、それは理屈でしかないからだ。
「わからなくていいと思う」
「え」
「種族で分けると、わからなくなる。そういうときは、飯を一緒に食ったかどうかで分けたらいい」
ミュウは、その言葉をしばらく噛み砕いていた。
やがて、小さく頷いた。
碧の言ったことを全部理解したわけではないだろう。ただ、表情がそのままだった。
「……じゃあ、あの人たちは、こっち側です」
「そうだな」
少女の尻尾が、ゆっくりと左右に揺れた。
碧がそれに気づいて見ていると、ミュウは慌てて尻尾を押さえた。押さえても、揺れは止まらなかった。
「……見ないでください」
「悪い」
「これ、勝手に動くので」
「便利だな」
「便利ではありません」
少女は耳まで赤くして、皿を抱えたまま天幕のほうへ小走りに去っていった。
その一部始終を、離れた岩の上からネフィリアが見ていた。闇将は碧と目が合うと、何も言わずに視線を外した。
食事のあと、リュシェが碧の隣に来た。
王女は皿を返しながら、いつもの調子で言った。
「アオイ殿。本日の四天王との会談、正式な記録に残します」
「お願いします」
「記録には、こう書きます。勇者は四天王を戦わずして退け、共に食卓を囲んだ」
「合ってますね」
「合っております。ですが、この一文が大陸中を回ります」
リュシェは夜空を見上げた。
「人間と魔族が同じ鍋の飯を食ったという記録は、千年ぶりでございます」
「千年」
「千年です。……アオイ殿は、ご自分が何をなさったか、たぶん半分もわかっておられません」
碧は返事をしそこねた。
王女はそれ以上説明せず、皿を胸に抱えたまま、少しだけ碧のほうへ身体を寄せた。
「わたくしは、それを記録できる場所にいられることを、光栄に思っております」
言い終えると、リュシェはさっさと天幕へ戻っていった。
碧はしばらく、その背中を見ていた。
夜。
焚き火を囲んで、碧はガルムと向かい合った。
他の者は天幕で寝ている。厳密には、寝ているのは三人だけだった。
ミュウは碧の天幕の入口で丸くなっていた。中で寝ろと何度言っても、そこがいいと言って動かない。リュシェは自分の天幕から二度ほど顔を出し、そのたびに焚き火のほうを確認してから引っ込んだ。ミリアは今日の記録を清書していて、天幕の中で灯りが揺れている。
闇将ネフィリアは、少し離れた岩の上に座っていた。こちらを見ているのか見ていないのか、判別のつかない姿勢だった。
エルフィリアだけが碧の隣に座り、膝を抱えていた。
「勇者。明日、魔王城へ発つ」
碧は小さく頷いた。
「片道で三日だ。車とやらを使えば、もっと早いだろうがな」
「一日で着きます」
「……そうか」
ガルムはそれ以上何も言わなかった。この男はもう驚くのをやめたらしい。
ガルムは杯を傾けた。中身は碧が作ったぶどう酒だった。
「行く前に、ひとつ言っておく」
「どうぞ」
「陛下は、たぶん死にたがっている」
碧は、顔を上げた。
炎将の顔には、冗談の気配がひとつもなかった。八百年仕えた相手についてそう言うとき、人はこういう顔をするのだろう。
炎将は火を見つめたまま、続けた。
「はっきりそう言われたことはない。だが、八百年仕えていればわかる。陛下は千年以上生きておられる。その千年で、何度か世界が終わりかけるのを見ておられる」
「何度か」
「詳しくは知らん。陛下は語らん」
ガルムは杯を置いた。
「ただ、この三年、陛下は北の森を見ておられた。魔物が押し出されてくる原因を、ずっと調べておられた」
碧の隣で、エルフィリアが顔を上げた。
女神の表情が、わずかに変わっていた。
「ガルム殿」
「なんだ、女神」
「魔王ヴァルガルドは、楔のことを知っていますか」
炎将が、初めて動揺した。
「……その名を、なぜ知っている」
「わたしは、それを六本見ました」
平原に、風が吹いた。
焚き火が揺れ、火の粉が高く舞い上がった。その光が消えるまで、誰も口を開かなかった。
碧は、女神の横顔を見た。
エルフィリアは膝を抱えたまま、焚き火ではなく北の空を見ていた。あの方角に、彼女が六本見つけたというもののうち、いちばん大きな一本がある。
ガルムは長いこと黙っていた。
やがて、低く言った。
「陛下は、九本だと仰せになった」
エルフィリアの肩が、はっきりと動いた。
「九本」
「この大陸に六本。海の向こうに二本。そして」
ガルムは杯を置き、初めて碧の目を正面から見た。
「最後の一本は、天の上だと」
女神が、立ち上がった。
その動きは、碧が今まで見た中でいちばん人間らしくない動きだった。焚き火の光が一瞬だけ吸い込まれ、周囲の温度が下がる。
「それは、ありえません」
「陛下がそう仰せだ」
「天の上に刺せる者は、いません」
エルフィリアの声が、震えていた。
「わたしと、あと十一柱しかいない場所です。そこに楔が刺さっているというのなら、それは」
女神は、そこで言葉を切った。
言いかけた結論を、自分で飲み込んだのがわかった。
碧は立ち上がり、彼女の隣に並んだ。
「言わなくていいです」
「アオイ」
「いま言うと、たぶん朝まで寝られなくなります」
碧はそう言って、焚き火に薪を足した。
「明日、魔王に聞きましょう。本人に聞くのがいちばん早い」
エルフィリアは、しばらく碧の顔を見ていた。
それから、力を抜くように肩を下ろした。
「……あなたは、時々ずるいです」
「褒めてます?」
「褒めていません」
女神は座り直した。今度はさっきより近い位置だった。肩が触れる。
碧は動かなかった。焚き火に薪を足す動作だけを繰り返した。
北の空は暗い。そこに何本の楔が刺さっているのかを、明日には知ることになる。
少し離れた岩の上で、闇将ネフィリアが小さく舌打ちをした。
その音は、焚き火の爆ぜる音に紛れて、碧には届かなかった。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




