第17話 降伏する四天王(前編)
召喚された高校生・天野碧が女神から授かった祝福は、八つ。過去最大の記録だった。
だが碧が最初にしたのは、飢えた四千人に鍋を出すことだった。
水を通し、土を戻し、魔王すら部下にして、碧は世界を縛る楔を一本ずつ抜いていく。
抜くたびに、碧は何かを失う。痛みを、恐怖を、味を、眠りを、怒りを。
失った分を預かると言ったのは、そばにいることを選んだ者たちだった。
最強の料理人と、彼を欠けさせない少女たちの物語。
三つの影が、丘を降りてきた。
歩調が揃っていない。それぞれが勝手に歩いてくるだけなのに、三人が同時に到着するように距離が調整されている。それが八百年連れ添った者たちの歩き方なのだと、碧は後から知った。
碧は、その三人が降りてくるあいだずっと立っていた。
逃げるという選択肢は最初からない。四天王が四人揃った状況は、この国の歴史上おそらく一度も起きていないはずだった。背後でダインが剣の柄に手をかけ続けているのがわかったが、碧はそれを止めなかった。止めたところで、あの人の手は動かないだろう。
いちばん左は、小柄な女だった。
白銀の髪を短く切り揃え、丈の短い外套を着ている。歩くたびに、足元の草が凍っていた。表情はほとんど動かない。
「氷将フリジアだ」
その一言だけで、彼女は碧の横を通り過ぎ、焚き火の前にしゃがんだ。
そして、手をかざした。
「……あたたかい」
ガルムが眉を寄せた。
「おい、フリジア。挨拶はどうした」
「した」
「名乗っただけだろうが」
「充分だ」
フリジアは焚き火を見つめたまま動かない。碧が「火、消さないでくださいね」と言うと、彼女は初めてこちらを見上げた。
「消さない。八百年、こいつの炎は消してばかりだったが」
氷将は、また前を向いた。
「今日は、消したくない」
その言い方には、八百年ぶんの静かな疲れがあった。
碧はこの短いやり取りだけで、この二人の関係をなんとなく理解した。片方が焼き、片方が消す。それを延々と繰り返してきたのだろう。戦場でも、たぶん戦場以外でも。
中央の影が、その横で笑った。
長身の男だった。銀灰色の髪を後ろへ撫でつけ、細身の体躯に軽装をまとっている。動くたびに、髪の先で小さな火花が散っていた。
「雷将バルドだ。よろしく頼む、勇者殿」
差し出された手を、碧は握った。
指先が痺れた。握手した瞬間に、微弱な電流が流れたらしい。
「おっと。すまんな、癖でね」
「癖ですか」
「握手のたびにやる。相手の反応でだいたいの実力がわかる」
バルドは手を離し、自分の掌を見た。
「……で、いまのは逆だった。君の側から何も返ってこない。壁に手をついたのと同じだ」
男は肩をすくめた。
「三十年前、俺はこの手でダインという人間の隊列を吹き飛ばしたことがある」
その名を出したとき、バルドの声から軽さが消えた。覚えているのだ。三十年前に自分が何をしたかを、名前の単位で覚えている。
背後で、ダインの肩が動いた。
バルドはそちらを見て、少し目を細めた。
「ああ。その顔の傷、うちの炎将のか」
「……左様でございます」
「悪いな。八百年もやってると、謝る相手が多すぎて追いつかん」
軽い口調だった。だが、そこに嘘はなかった。
ダインは何も言わず、ただ一度だけ頭を下げた。
最後の一人は、最後まで動かなかった。
三人から少し離れた位置に立ったまま、碧をじっと見ている。
長い黒髪。紫を帯びた瞳。体格はフリジアより高く、バルドより細い。全身を包む暗色の衣は影と区別がつかず、輪郭がときどき曖昧になった。
「闇将ネフィリアだ」
ガルムが言った。
「一応、四天王の末席ということになっている」
その紹介の仕方には、含みがあった。末席という言葉を使いながら、ガルムの視線には明らかな警戒がある。この四人の中で最も扱いにくいのが彼女なのだと、碧はそれだけで察した。
「一応とは」
女が、初めて口を開いた。
「事実として末席だろうが」
「末席は、いちばん働くのだ」
「屁理屈だ」
ネフィリアは碧に向き直った。
その目には、他の三人にあったものがなかった。畏怖も、好奇心も、諦めもない。あるのは、純粋な疑いだけだった。
「勇者。ひとつ訊く」
碧は短く頷いた。
「お前は、なぜ陛下の招きに即答した」
声に感情がない。詰問でも威嚇でもなく、答えの内容だけを求めている訊き方だった。
「その人が困ってるみたいだったので」
「嘘だな」
断定だった。
「困っている者を助けるという理屈では、この十日のお前の行動は説明がつかない」
碧は、少し驚いた。
「調べたんですか」
「調べた」
ネフィリアは指を折った。
この十日間の碧の行動が、そのまま順番に並べられていく。誰から聞いたのか、どこまで正確なのか、碧には確かめようがない。ただ、日付と件数が一つも間違っていないことだけは確かだった。
「水を通した。病を癒した。砦を守った。奴隷を買った。宰相を落とした。ここまではいい。困っている者を助けている」
一本、指が残った。
「だが、お前は誰も殺していない」
平原が、静かになった。
「三万の魔物は消した。だが人間は一人も殺していない。刺客は生かし、宰相は裁きに回し、奴隷商は書類を書かせただけで放った」
闇将の声が、低くなった。
「お前ほどの力があれば、消したほうが早い場面がいくつもあった。なぜ殺さない」
碧は、その問いをまっすぐ受け止めた。
闇将の目は、値踏みをしているのとは違った。もっと切実な種類の疑いだった。この魔族は答えを聞きたがっているのではなく、答えの裏にあるものを探している。
誰にも訊かれなかった質問だった。
リュシェも、ダインも、王も、誰もそこを訊かなかった。優しいからだ、善良だからだ、勇者だからだ。周囲はそれぞれ都合のいい理由を勝手に用意して、それで納得していた。
この魔族だけが、納得せずに訊きにきた。
碧は、正直に答えることにした。
「面倒だからです」
ネフィリアの眉が動いた。
「殺すと、あとが面倒なんです」
碧は続けた。
「宰相を殺したら、灰区に飯を回してたのが誰か、わからなくなってました。奴隷商を殺したら、仕入れ先の名前が出てきませんでした。刺客を殺したら、あの三人が孤児だったってことを、誰も知らないままでした」
「……」
「殺すのはいちばん簡単ですけど、そこで情報が止まるんです。だから、なるべく生かします」
言ってから、碧は自分の答えが冷たく響いたかもしれないと思った。
それでも言い直さなかった。情に訴える言い方をすれば、この闇将は納得しないだろうという予感があった。
沈黙が、長く続いた。
風が平原を渡り、草が一斉に音を立てた。焚き火の爆ぜる音だけが、その合間に規則的に混ざっている。
やがて、ネフィリアが目を細めた。
「なるほど。合理か」
「そうですね」
「ならば、お前は殺すべきときには殺すのか」
「たぶん」
碧は、そこで初めて言葉を選んだ。
「でも、そのときは、ちゃんと嫌だと思いたいです」
闇将の動きが、止まった。
紫の瞳が、初めて揺れた。
彼女は何か言いかけて、やめた。それから碧に背を向け、丘のほうへ三歩だけ歩き、そこで立ち止まった。
「……気に食わん」
小さな声だった。
「何がですか」
「答えが、想定のどれとも違った」
ネフィリアは振り返らずに言った。
「私は八百年、人間を三通りに分類してきた。欲で動く者。恐怖で動く者。信念で動く者。どれかに当てはめれば、次の行動が読める」
闇将は、肩越しにこちらを見た。
「お前は、どれでもない」
「はあ」
「不愉快だ。だから、しばらく側で見る」
その言い方には、負け惜しみに近い響きがあった。分類できないものを前にしたとき、この魔族は距離を取るのではなく近づく側らしい。学者の気質だと碧は思った。
碧の隣で、エルフィリアが一歩前に出た。
「側で、というのは」
「言葉どおりだ、女神」
ネフィリアは女神を正面から見た。神格を持つ存在を前にして、この魔族は一歩も引かなかった。
「監視する。それだけだ」
「……そうですか」
エルフィリアの声が、わずかに低くなった。
碧は背中に冷たいものを感じた。風向きが変わり、平原の草が一斉に同じ方向へ倒れた。遠くの空で雲が急速に流れ、夕暮れの色が一段濃くなる。
女神の機嫌が天候に出るという話は本当だったのだと、碧はこの日はっきり理解した。四天王のうち三人が同時に空を見上げていた。
「アオイ」
「はい」
「わたしも側にいます」
「もともといますよね」
「もっと、です」
その横で、リュシェが静かに言った。
「ではわたくしも、王家の監督という名目で同行いたします」
「監督ですか」
「ええ。監督です」
ミリアが帳面を開いた。
「記録係として、わたしも。本日で同行七日目でございます」
碧の袖を、ミュウが掴んだ。
何も言わなかったが、意思表示としては充分だった。
ガルムが、腕を組んでその光景を見ていた。
「……勇者。俺は八百年生きてきたが」
「なんですか」
「てめえの今後は、魔王より厄介だと思うぞ」
その日の夕方、平原に天幕が張られた。
魔族四人を王都へ入れるわけにはいかず、かといって追い返すわけにもいかない。折衷案として、国境の手前に会談用の野営地を設けることになった。
天幕は碧が作った。六つ並べ、床を張り、寝具を用意し、風除けの壁まで立てた。作り終えてから、これでは野営ではなく宿場町だとリュシェに指摘された。
碧は反論しなかった。ただ、人が寝る場所は寝られるようにしておきたかっただけだ。
碧は、そこでまた飯を作った。
理由は単純で、他にやることがなかったからだ。それに、腹の減った者が八人いた。
炉を組み終えたところで、ガルムが横に立った。炎将は鉄板の熱を手のひらで測り、満足そうに頷いた。火の扱いだけは八百年ぶんの経験がある。
「魔族って、何食べるんですか」
「人間と同じだ」
ガルムが答えた。
「ただし味が濃いほうがいい。魔王領は土が悪くてな。素材が不味いから、香辛料で誤魔化す文化が育った」
「じゃあ、こうしましょう」
碧は手を叩いた。
「肉を焼きます。厚く切って、香辛料を効かせて、付け合わせを甘くします」
ガルムの喉が、はっきりと鳴った。
碧は、肉を切るところから始めた。
王都から積んできた牛肉を、指二本ぶんの厚さに落としていく。薄く切れば早いが、薄い肉は噛む前になくなる。八百年戦ってきた連中に出すなら、顎が仕事をする厚さが要る。
塩を振り、強火の鉄板に置いた。
じゅうう、と長い音が鳴った。
脂が溶けて鉄板を走り、縁で跳ねて、白い煙になって立ち上がる。焼ける匂いが、風に乗って天幕の向こうまで流れていった。三十秒もしないうちに、誰かが天幕の垂れ布をめくる音がした。
片面が茶色く固まったら裏返す。返した瞬間、表面に薄く汁が浮く。この汁の量で中の火の通り具合がわかる。父から教わった見極めの基準がこれだった。浮きすぎる前に火から下ろす。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




